第153話 アイラとイルミナ

 見渡す限り本だらけ。

 知識の貯蔵庫と呼ぶに相応しいこの場の中心で少女はここの女主人とテーブルを挟んで勉学に励んでいる。


「紀元前九世紀頃、つまりイエス・キリストが誕生する前までこの辺りはウラルトゥという王国でね。アララト山はこのウルラトゥの名残とも言われている。また、当時のウルラトゥ王国は周囲の国々や他民族からの侵攻を度々受けていてね。南東のアッシリア帝国との小競り合いや北方に暮らすキンメリア人やスキタイ人などの遊牧民族からも襲われたことがキッカケで遂に王国は滅亡。そこにアルメニア人が移り住んだ。ちなみに、キリスト教を世界で初めて国教にしたのはこのアルメニアさ。しかしそれでめでたしめでたしとはならないのが戦火という名の歴史の爪痕。この国は位置がまた厄介でね。最大勢力だったローマ帝国とパルティア帝国に挟まれていた関係で何度も戦場になっていたとされている。この地で繰り返し起こる様々な略奪や争奪戦の結果、ローマ帝国とペルシアにより分割統治の協定を結ばれて独立王国としての地位を失った。まだまだこんなもんじゃないよ? その後はアラブやモンゴル帝国、オスマン帝国からも支配され、直近ではロシア帝国からの支配も受けていた。ロシア帝国で革命が起きたことによりソビエト連邦の一部になった。しかし今から数十年前にソビエトが崩壊してアルメニアは今の形に落ち着いたというわけさ。世界最大の宗教であるキリスト教への信仰心厚き国にも拘らず、その歴史は戦火と支配を多く経験してきた国。それがこのアルメニア共和国というわけさ。しかも、支配は未だに続いている。宗教間、軍事間の問題ではなく反社会組織が事実上支配しているんだから皮肉なものさ。まったく、この世には神も仏もないと痛感させられるよ」


 イルミナの口からスラスラ語られる簡略化したアルメニアの歴史。アイラはそれをノートに書き記しながら、話の要所要所で疑問点や不明点をイルミナに質問。イルミナは話を中断してその都度アイラの質問に対して非常に分かりやすい喩え話や子供にも馴染みのある例を出したりしながら懇切丁寧に答えていく。今日教わった講師の中で最も分かりやすく、とても面白い授業だった。


 授業を始めて三時間が経ったことをアイラの腹時計が告げる。


「おっと、そろそろおやつの時間だね。今日の勉強はとりあえずこの辺にしておこうか。紅茶を淹れてくるよ。スコーンを焼いてあるから一緒に食べようじゃないか。お茶の準備をしてくるから、もし良ければあそこの本棚へ行っておいで。世界中の子供向け絵本がたくさんあるから」


 イルミナはそう言うと、席を外してお茶の用意をしに奥へと向かって行った。


 アイラは勧められた通り、イルミナが指差していた絵本がずらりと並ぶ本棚へと向かう。適当に選んだ一冊を手にしてページを捲る。内容はアオムシが色んな果物をたくさん食べていき、やがて美しい蝶へと変態するというアメリカの有名な絵本。各ページの果物に穴が開いており、実際にアオムシが食べた虫喰い穴のようで実に面白い。アイラは「もぐもぐ」という独り言を口にしながら小さな指を穴に入れて遊んでいると、アンティークトレイの上にティーセットを乗せたイルミナが話しかけてきた。


「良いチョイスだ。その本は七十以上の言語で翻訳されていて世界でも有名な絵本の一つさ。他にもたくさんあるから、気になるものがあったら好きなだけ持ってきたまえ。お茶でも飲みながら座ってゆっくり読むといい」


 アイラはこくりと頷くとイルミナの後ろに続いて先程授業を受けていたテーブルへと戻っていく。


 淡い琥珀色と芳醇な香りで満たされたカップを受け取り、息を数回吹きかけ一口啜る。


「このお茶、ものすごく美味しい」


 今まで紅茶に対してそこまで美味しいと感じた事がなかったアイラだったが、この一口で紅茶に対する印象がガラリと変わった。口内に広がる薔薇のような華やかな香り。苦味や雑味が一切なく、子供の舌でも今自分が口にしている紅茶はものすごく高価なものなのだと理解出来た。それほどまでに鮮烈な味わいに驚いているアイラを見てイルミナはカップを手に嬉しそうに笑った。


「気に入ってもらえて何よりだ。紅茶といえばイギリスが本場でボクも昔はフォートナム&メイソンばかり愛飲していたんだけど、先日たまたま知人から旅行の土産に貰ってね。今ではこのフランスの紅茶ブランド、マリアージュフレールが一番好きなんだ。良かったらスコーンも食べてくれたまえ。そのままでもいいが、クロテッドクリームとラズベリーのジャムをたっぷり塗るのをオススメするよ。ちなみに、このジャムも手作りだ」


 アイラはイルミナの見様見真似で小皿に取ったスコーンを真ん中から割り、クリームとジャムを塗って齧り付く。まだほのかに温かいスコーンの熱でクリームが程よく溶けてバターのようなコクを与え、甘さ控えめで酸味を強調させたジャムの甘酸っぱさがとてもよく合う。一気に頬張ると口内がぱさつくが、そこへ間髪入れずに高級紅茶を流し込む。この至福の組み合わせを嫌う女の子はまずいない。アイラも例に漏れず、すっかりスコーンと紅茶の虜になっていた。


「本当に気持ちが良いくらいよく食べるね。ボクは比較的少食だから羨ましいよ。友人に一人もの凄い大食漢がいるけど、彼を見てても何も思わないのに何故だろうねぇ。キミを見ていると不思議とあたたかい気持ちになるよ」


 クリームとジャムで汚れたアイラの口元を白いナプキンで拭うイルミナ。その目は、まるで我が子を見つめる母親のようだった。


「…………」


 アイラは一瞬「お母さん」と口にしようか迷ったが、結局呼ばなかった。死別した実母を気遣ったわけじゃない。ただ何となくだが〝それを口にしてはいけない〟という気がした。ただそれだけの〝何となく〟にアイラは抗えなかった。


 そんな少女の小さな葛藤を知ってか知らずか、イルミナの方から沈黙を破るようにアイラが持ってきた本の一冊を手にする。


「おやおや、随分珍しい絵本を選んだね。日本のものだ。ネコ、好きなのかい?」


 アイラはこくりと頷く。

 猫に関してはミケーネの残忍な手口でトラウマになってもおかしくないほど酷い目にあったが、それでもやはり猫は好きらしい。


「俺の名前はイッパイアッテナ」


 急に妙な言葉を口にしたイルミナにキョトンとした顔を向けるアイラ。


「ふふふっ、その本に出てくるトラネコの台詞さ。面白いだろう? トラネコは色んな人から色んな呼び方をされるから〝名前がいっぱいある〟と伝えたかったんだが、その表紙のクロネコがトラネコのことを〝イッパイアッテナ〟という名前だと勘違いする愉快なお話さ」


「…………」


 アイラは絵本のページをぺらり、ぺらりと捲っていく。しかし原書のため日本語で書かれており、アイラには全く読めない。


「日本語は試験の範囲外だが、少しだけ教えてあげよう。コンニチワやアリガトウ以外の言葉で話しかけて氷室刑事を驚かせてみるのも楽しいと思うよ」


 アイラの向かいに座っていたイルミナは立ち上がると、アイラの隣に椅子を並べて座った。


「いいかい? ここの言葉はね」


 絵本ではなくイルミナの横顔を眺めるアイラの中で不思議な感情が湧き上がる。それは実母に抱くべきはずの感情。そしてそれは、本来ならば親から受け取るべきもの。心の栄養と呼ぶべき愛。家庭環境のせいで慢性的な欠乏症を患っていたアイラは再度イルミナに対してその言葉を口にしようとした。


「お……お……」


 しかしその先がどうしても言えない。自分でも何故かはわからない。何度もその言葉を吐き出そうとするが、喉元に詰まってしまっているかのように一向に出て来ない。まるでその言葉を忘れてしまったかのように。


「おや、スコーンが喉に詰まったかな? 大丈夫かい? 紅茶は冷めているはずたからゆっくり飲み干したまえ」


 イルミナはアイラの異変に気付くと、背中を摩りながら紅茶を飲むよう勧めた。アイラはイルミナの言う通り、すっかり冷めた紅茶のカップを手にすると一息で飲み干した。


「けほっ、けほっ……」


「落ち着いたかい?」


「うん、ありがとう。お、お……お姉……さん」


 何とか振り絞って出た言葉は本来口にしたかったものとは違ったが、これでいい。何となくだがアイラはそう思った。それを知ってか知らずか、イルミナはアイラに顔を近づけてにこやかに答える。


「他人行儀な呼び方はやめたまえ。デュランやウィルのように名前で構わないよ。もし呼びづらかったら好きな呼び方で構わないよ。ボクもこのトラネコほどじゃないけど、名前がイッパイアッテネ。そうだなぁ、思い出せる限りだとローズ、アーリー、マリ、エルヴィラ、ジャンヌ、メルガ、カトリーヌ。最近だと専ら

女吸血鬼ドラキュリーナや情報屋が主流かな。ちなみに、デュランを含むこの街の住民達からは「おい」とか「お前」なんかが多いが、それは品が無いから嫌だなぁ。あ、せっかくだからイッパイアッテネでも構わないよ。さぁ、どれがいい?」


「…………」


 楽しそうにアイラに話かけたイルミナだったが、肝心のアイラは椅子に座ったまま可愛い寝息を立てていた。無理もない。朝からみっちり慣れない勉強漬け。この歳の子供にしては集中してきちんと取り組んだ方だ。疲れない方がおかしい。それを察したイルミナは自身の着ていた黒い外套を脱ぐとアイラの肩にかけてやる。


「お疲れ様、アイラ。しかしキミは本当に賢いね」


 アイラの前髪を掻き上げるように撫で上げたイルミナは続けてこう口にした。


「次に〝お母さん〟と口にしていたら殺しちゃうところだったよ」

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