第46話 目覚めれば入院中①

 手も足も出なかった、というのが率直な感想だった。


 こちらの拳打や蹴りはいずれも目の前のアジア人には届くことなく、いなされ空を切るばかり。むしろ相手の防御そのものにダメージを与えられているようで、攻めているこちらの手足が痛みで痺れていることに気づいたのは完全に足腰立たなくなり大の字で天を仰いだ時だった。


『まだ続けますか?』


 先程まで眼前で対峙していたアジア人がニッコリと微笑みながら顔を覗き込んでいる。すぐにも起き上がりそのニヤケ面に拳をブチ込みたいと思ったが、そんな衝動とは裏腹に体はもう従ってはくれそうにない。一度動きを止めてしまったことでアドレナリンが鎮まり、蓄積していた疲労と身体中の痛みが幼い肉体に多大な負荷をかける。自分の意に反するあらゆる結果が受け入れられず、溢れる涙が頬を伝う。


『そんなに悲観することはありませんよ。なかなか筋は良かったですし、身のこなしは悪くはなかった。小さいながらも相当場数を踏んで来たのでしょう。しかし、ただ闇雲に拳を振るうだけではいけません。それでは単なる暴力に過ぎず、武の前には遠く及ばない』


 確かそんなことを言っていた気がする。随分昔のことであり、尚且つ当時の自分には初めて味わった敗北の悔しさで他の事は一切考えることが出来ない状態だったのだ。だが、不思議とその後の言葉と、それを教えてくれた人の笑顔だけは鮮明に覚えている。


『拳に理を握り、信念を込めて前へと突き出す。それこそ武であり、あなたが進むべき道を切り拓く為の鍵となるはずです。どうかそれを忘れないでくださいね。デュラン』


 負かした相手に対していちいち笑顔で説教する癖が嫌いだった。


 料理に関して一切の妥協を許さない職人気質な性格が気に食わなかった。


 病気の事を誰にも話さず、最期まで信念を貫いてこの世を去ったその生き様が眩し過ぎて腹が立った。


 何よりも嫌気が差すのは、様々なことを教してえてくれた恩師に対して一度も恩返しすることが出来なかった自分自身。師が最も得意だった八極拳を使う度、否応なしに思い出す苦い過去。今自分が見ている過去の映像が夢だと気づいたのと同時に意識は徐々に覚醒へと向かう。やけに周りが騒がしい。目を開けて最初に目にしたのは、よく見知った男の顔。長いまつ毛と碧眼が印象的なその男はデュランと目が合うと、安堵の笑みを浮かべて声を発した。


「良かったぁ。全然起きないから心配したよ」


 全身がひどく怠い。加えて、起き上がろうとすると身体中に鈍痛が走る。「まだ無理しちゃダメだよ」と言うウィリアムの忠告を無視して軋む上体を起こしたデュランは気づいた点が二つほどあった。一つは自分が今、見慣れぬ部屋に居るということ。もう一つはそこには見慣れた面子が集まっていたということ。ウィリアム以外にはアイラと涙目のアシュリー。メイファンとその側近のジェイク、痛々しいギプスを右腕に巻いた凶星。状況の把握が追い付いていない様子がありありと伺える些か混乱した状態のデュランに声をかけたのは、隣のベッドにいた氷室だった。


「ようやくお目覚めか。呑気なもんだな」


 澄ました声色とは裏腹に、氷室は無数の管で繋がれミイラのように全身を包帯でぐるぐる巻きにされていた。その姿を見て、デュランはようやく自分が隣のミイラ紛いとの死闘の末に意識を無くし病院に運び込まれたのだと察したのだった。


「あの後何があったか覚えてる? ジェイクさんが肩を貸してすぐ気を失ったんだよ。グレッグに応急処置してもらった後すぐにこの病院に搬送されたってわけ。あれから三日間ずっと意識無かったんだから。それと、治療に関する諸々の費用は全部メイファンさんが負担してくれたんだよ。氷室さんのも含めてね」


「そうか……虎皇会あんたらには随分迷惑かけちまったみたいだな。ありがとな、メイファン」


 デュランの礼に対してボスであるメイファンは、そっぽを向いて目も合わせようとしない。何やら拗ねた様子だった。


「人がわざわざ礼を言ってんだから何とか言えよ。無視すんなコラ」


「……ふんっ!」


 尚もシカトを決め込む様はまるで子供のよう。余所者が見れば、誰もこの女がエデンを牛耳るマフィアの頭目とは思うまい。遠回しの逆プロポーズにも取れた申し出を理解することなく恥をかかせたデュランには、その態度の真意が皆目見当がつかない様子だった。


「姉御、失恋シテ機嫌ガ悪イネ」


「誰かナースコール押してちょうだい。今この場で患者を一人増やすから」


 からかう凶星に向けて銃を構える真っ赤な顔のメイファン。その様子を見た同室である他の入院患者たちは皆騒然となった。一般人から見れば事件現場だが、虎皇会からすればただの日常。室内であればメイファンが本当に引き金を引くことは基本的には無い。撃ってしまえば、痛みに悦ぶ凶星が部屋中に毒の瘴気を充満させてしまうからだ。そうなると患者は一人では済まなくなる。ジェイクは溜息一つ吐くと、二人の間に入ってメイファンから銃を取り上げた。


「ボス、こんなとこでチャカなんて抜いたらいけませんよ。どうか落ち着いて。凶星、お前も時と場合を考えろ。ここには素人カタギさんも大勢いらっしゃるんだ。迷惑をかけるんじゃない」


「わかってるわよ。冗談よ、冗談。あ〜あ、白けちゃったから先に車に行ってるわ」


「残念。ゴ褒美貰イ損ネタヨ」


 単純な戦闘力だけではない。常に冷静な判断、行動、指示を的確に行なえるからこそジェイクはメイファンの側近として今のポジションについている。暴力や狂気が渦巻く組織の中心を一身で取り纏めるこの男がいるからこそ、虎皇会東欧支部は組織としての体裁を保っていられているのだ。銃をジェイクに預けたまま、メイファンは不機嫌そうにドアを勢いよく開閉し出て行ってしまった。


 その一部始終を目の前で観ていたデュランはジェイクに対して思わず労いの言葉をかけずにはいられなかった。


「あんた、相当苦労してんだな」


「みっともない所を見せてしまったな。まぁ、金の事は気にしないでいい。元々うちが勝手に割り込んだ喧嘩だ。本当は個室を用意したかったんだが、どうやら満室らしくてな。大部屋で我慢してくれ」


 危険区域に指定されているジェイルタウンでの負傷には保険が適応されない。加えて、腕は世界屈指だが金に汚い闇医者グレッグも手配したのだ。少なく見積もっても、一人頭二十万ドル、日本円換算で約二千万円以上の費用が発生しているのは明白。莫大な医療費を二人分も賄ってもらっているのだ。デュランも氷室も虎皇会の厚意に対して文句など言えるはずもなかった。


「失礼します。カシラ、表にサツが来てますぜ。そろそろ……」


 入室してきた組員がジェイクにそう耳打ちする。連中から切迫した雰囲気は一切感じられないので、どうやらモメ事が起こるということは無さそうだった。


「どうやら次の客が控えているらしい。我々はこの辺で失礼させてもらうが、せいぜい養生するんだな」


 ジェイクはそう言うと、メイファンの銃を懐にしまって部下たちと共に病室を出て行った。

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