第39話 鬼哭啾々

 歓声、野次、打音、凡ゆる雑音が劣化して久しい密集したビル群のコンクリート壁に反響している。観客は皆血を見たがっていた。それも極上の強者が血を流しながら闘う様を。


 ならず者たちがぐるりと円型に包囲している中央で睨み合う二匹の獣。周囲とは対照的に静かに相手の出方をうかがっていた。


「アシュリーちゃん、一旦離れよう」


 ウィリアムはアシュリーに離れるよう促す。賽が投げられてしまった今、これ以上二人の近くにいるのは自殺と同義。しかし、アシュリーは取り乱した様子で異議を唱えた。


「でも二人を止めないと!」


「落ちついて。ここにいたら僕たちも危険なんだって。アイラもいることだし、まずは安全な場所へ移動してから策を考えるよ。大丈夫。僕を信じて」


 ウィリアムの真剣な眼差しを受け、アシュリーはアイラの手を引いて睨み合う二人から距離を取る。今はこれでいい。こうなってしまった以上、策など幾ら講じたところで意味はない。後で嘘吐きと罵られるのも、命あっての物種である。


「隣、良いかな?」


 爆心地から下がり避難したところで不意に背後から声をかけられた。どこか間延びした声と香水のような甘く艶やかな香りに振り返ると、そこにいたのはイルミナだった。


「あぁ、イルミナさん。今日はいつもより早いですね」


「こうも騒がしかったら昼寝も出来やしないさ。何事かと思って見に来たら合点がいったよ。牙戦だなんて随分久しぶりじゃないか。しかも、相手はあのエデン署のリーサルウェポン氷室映司。今世紀最大のメイクマッチだ。いやぁ、間に合って良かった」


「あの、初めまして。私——」


 イルミナに話しかけようとしたアシュリーの言葉より早くイルミナが口を開く。


「アシュリー・キスミス。二十五歳。六歳の頃にセントライミ教会に身を寄せ、その十年後に聖騎士になる為にアスガルド聖教本部のあるへノルウェーへ渡航。家柄ではなく努力でアスガルド聖騎士団の中でも栄誉ある特務精鋭部隊、レオンクロスへ入隊した……ここまでは合ってるかな?」


「えっ、な、なんで知ってるんですか!?」


「アシュリーちゃんは会うの初めてだったね。彼女はイルミナさんと言って、この辺りで情報屋をやっているんだ」


「一つだけ訂正させてもらうなら、情報屋はあくまでも副業。本業は年代史家さ。それよりも君たちはどちらに賭けるんだい?」


 イルミナの言葉を受けて辺りを見渡すと、観客たちの大半が互いに紙幣を出し合っていた。命の顛末、人の生き死にに金を積む。なんと業の深いことであろうか。聖職者であるアシュリーには到底理解し難い光景であった。


「イルミナさん、僕がギャンブル弱いの知ってるでしょ? 金は賭けませんよ。ただ、この勝負はデュランが勝つと信じてます」


「良い読みだ。この試合方式はよりアクティブに動ける人間が圧倒的に有利だからね。加えて、おそらく氷室刑事は牙戦のなんたるかを知らない筈だ。素手と刀とて、チャンプであるデュランの有利は揺るがないだろうね」


 間合いを詰めて拳を叩き込む〝動〟の戦法を主軸とするデュランに対して、納刀した状態のまま、間合いに入り込んだ相手を瞬時に斬り捨てる〝静〟の戦法を主軸とする氷室。本来であればこの戦い、武器の有無がある以上どちらが有利であるかなど論じるべくもない。加えて氷室の故郷である日本には、剣を持つ相手と素手で戦う場合において素手側の人間は三倍以上の段位が必要であるという意味を示す剣道三倍段という言葉がある。武器の有無がそれほどまでに戦力差を生むということは、聖騎士のアシュリーにも充分理解出来ていた。


「デュランには勝って欲しいとは思いますけど、でも氷室さん武器持ってるし……」


 戸惑うアシュリーに対して、イルミナはニッコリ微笑んで天を指差した。


「挨拶代わりに一つだけ忠告しておこう。くれぐれも雨には気をつけることだ。今日は天気が変わりやすいみたいだから、豪雨が来る前に雨宿り出来る場所を探しておくことをお勧めするよ。水も滴るイイ女を気取りたいなら止めないけどね」


 それだけ伝えると、イルミナは踵を返して来た道を戻って行く。「見ていかないんですか?」というウィリアムの問いに対して背中越しに手を振って「この勝負、待ちに徹した方の勝ちさ」とだけ言い残して去ってしまった。浮世離れしたイルミナの言動に翻弄されっぱなしのアシュリーだったが、抱いた疑問はこの後すぐに解決することとなる。


「オラァ! さっさとおっ始めろ!」


「勿体ぶってンじゃねぇよ!」


 膠着状態が続いていた戦況に痺れを切らしたのは部外者である観客の方だった。それぞれが手近にある様々な物をデュランや氷室に向かって投げたのだ。鉄パイプ、酒の瓶、消火器、瓦礫や空き家の家財。頭に当たれば無事では済まないものが一斉にリングへと投げ込まれ始めた。


「ちっ、邪魔だ!」


 氷室は頭上から落ちてきた角材を抜刀からの一閃で斬り防いだ。氷室の放った太刀筋は見事の一言。その刃が皮膚に触れた瞬間に勝負は決するであろうことを雄弁に語っていた。しかしその反面、大振り故に外した場合はどうしても隙が生じる。相対する敵以外から。それも死角となる頭上や背後からでさえ横槍が入るこの牙戦において、待ちに徹する居合いを得意としている氷室が不利になるという一番の理由である。そしてその一瞬の隙をデュランは見逃さなかった。


「受け取れよ。前に横っ腹を派手に斬りつけてくれた礼だ」


 初撃を防御に用いた氷室へとデュランは一気に間合いを詰めた。右手の指を全て曲げ、ガラ空きになった氷室の左肩から袈裟懸けに力一杯に振り下ろす。


「ぐおっ!?」


 攻撃を受けた際に漏れた苦悶の声よりも大きく響いたのは、ビリっという二種類の音。衣服の繊維が裂けた音。肉を力任せに引き裂いた音。真っ赤な袈裟を掛けたかのように氷室の左肩から斜め下に向かって四本の赤い傷が走っていた。


「チッ、浅かったか。もう少し深く抉れると思ったんだがな。引きちぎる寸前に後ろへ飛びやがった」


 氷室は鞘に戻した刀を杖にした状態で左手で傷口を押さえながら痛みに顔を顰めている。鋭利な刃物で斬られるのとは違うズキズキと響く鈍い痛み。場所が場所だけに呼吸をする度に傷口が広がり更に痛みが増す。額の脂汗を拭いながら、なんとか氷室はデュランに向き直った。


「デュラン! やめてよ!」


 二人の争いを見ていられないと叫んだアシュリーの声。その声に反応したのは名を呼ばれたデュランではなく氷室の方だった。


「アシュリー。しばらくの間、節制の加護とやらを使っていろ。屍の山を築きたく無ければな」


 氷室はそう伝え刀を抜くと、百鬼薙の鞘を投げ捨てたのだ。


「リミッターは外した。俺もここからは攻めに転じさせて貰うぞ。存分に斬り合おうじゃないか」


 そう呟いた氷室の姿が陽炎のように揺らいだように見えた。その次の瞬間、デュランの目の中に光が差し込んだ。氷室が百鬼薙の刃を鏡のように使用し、陽光を反射させたのだ。眩しさに目を細めたデュランは、後ろで結っている長い髪が風で揺れたのを感じた。その直後、鮮烈な死のイメージを感じ取り咄嗟に背後を振り返る。そこには、禍々しい気迫を纏う氷室が刀を振り上げて立っていた。


「終わりだ」


 デュランの脳天目掛けて振り下ろされた唐竹割り。避けること叶わぬと悟ったデュランは敢えて一歩前へと踏み込むと刀を握る氷室の両腕を掴み、ギリギリのところで体を左右半身にされるのを防いだ。単純な腕力のみの掴み合いならばデュランに分がある。しかし、氷室の力は痩せ型の体型に不釣り合いなほど強いものであった。


「ぐっ、どうなってやがる。俺が力負けしてるってのか」


 あまりにも異様な事態に周りも野次や凶器を投げることを忘れていた。あのデュランが力で押し負けているのだ。止められた刀を力で下へと押し付けようとする氷室とそれを下から支えて跳ね除けようと奮闘するデュラン。拮抗状態は徐々に崩れ始め、遂にはデュランの左膝が地面を突いたのだ。見上げた氷室の目は赤く血走り、瞳孔が開いている。また、頭上の刃からはボソボソと何やら不気味な声が聞こえていた。氷室のものではない声。男とも女とも判別出来ぬ複数の声。聞き慣れぬ言語だったが、それが恨み節であるということだけは理解出来た。そしてそれは刀に宿った意思の声であり、とてつもなくヤバいものであるということを直感的に悟ったのだった。


「アシュリー! 節制の加護持ってるなら早く使え! このままだとこいつ、意識を全部乗っ取られて俺だけじゃなくこの場の人間全員斬り殺すぞ!」

 

「わ、わかった! やってみる!」


 デュランの指示を受けてアシュリーは慌てて祈るように両手を胸の前で組み目を閉じると、徐々に体が淡く発光し始めた。節制の加護は異能を封じる強力な加護だが、まだレオンクロスとして半人前であるアシュリーがこの加護を扱うには精神を集中させねばならない。しかし、それでも節制の力を完全に引き出すにはまだまだアシュリーは修練不足。加減が分からず他の隊員の加護さえも封じてしまい結果的に足を引っ張ってしまうこともしばしばある為、誰かと組むことは殆ど無い。だからこそ、今回のエデンへの派遣も単独任務となったのだ。しかし、この加護は氷室にとっては非常に相性が良い。不完全だからこそ百鬼薙のデメリットのみを軽減しつつ、妖刀が持つ〝人ならざるものが斬れる〟という基本的な特性のみを扱えるのだ。


 腕から伝わる氷室の力が徐々に弱まっていくのを感じる。また、刀から聞こえていた怪しげな声も次第に消えていった。真っ赤に血走っていた氷室の目にも正気が戻る。


「よぉ、お目覚めかよポリ公。随分危ねぇ真似してくれるじゃねぇか。周囲のことはお構いなしかよ」


「悪党が何人死のうが問題ない。特にここは治外法権みたいなもんだ。責任の所在なんざいくらでも有耶無耶に出来る」

 

 氷室はそう言うと、デュランの腹部を膝で蹴り上げた。氷室の腕を万力のように締め上げていたデュランの手が僅かに緩む。その瞬間、氷室は刀を逆手に持ち替え、デュランの左上腕へ向けて刃を深く突き刺したのだ。


「があああっっ!!」


 デュランの悲痛な叫びが響く。堪らずその場に両膝を突いて崩れ落ちたデュランを見下ろしながら、氷室は懐から煙草を取り出し一服を始めた。


「悪かったな。すっかり鞘の真似事なんぞさせてしまって」


 氷室はデュランの右肩を足で押さえながら、右手で百鬼薙の柄を握るとデュランの左腕から一気に引き抜いた。


 栓を抜いたシャンパンのように勢いよく飛び散る鮮血。血の量から見て、腕の動脈を傷つけたようだった。デュランは痛みのあまり座ったまま白目を向いている。気を失っているようだった。しかし、氷室の追撃はこれで終わらない。


「勝手に寝てるんじゃねぇよ。起きろ」


 氷室は気絶しているデュランの横顔を思いきり蹴り飛ばす。その衝撃で目を覚ましたデュランは地面へ倒れたまま痛みでのたうち回っている。尚も傷口から流れ出ている鮮血。出血死までのカウントダウンは既に始まっていた。


「もうやめてください氷室さん! デュランが死んじゃいますよ!」


 流石に見かねたアシュリーが、意を決して氷室の前に立ち塞がる。倒れているデュランを庇うように。


「ずっと気になっていたんだが、そいつお前の男か?」

 

「おっ、男って。そ、そんな関係じゃないですよ……まだ」


 紅潮した顔を両手で押さえながら狼狽するアシュリーの体から放たれていた淡い光が収まる。それと同時に氷室の表情が強張った。集中力を切らしたせいで、節制の加護の力が弱まり百鬼薙の侵蝕が再開したのだ。


「わ、わかった。とりあえず今は加護に集中してくれ。このままだとまた刀が暴走しかねん」


 氷室の言葉に慌ててアシュリーは加護への注力を再開させる。

 

「す、すみません。ですが、これ以上攻撃するのはやめてください。デュランが何をしたって言うんですか」


「お前、もしかしてこいつが中東で何をしたか知らんのか?」


「中東? 何のことですか?」


 不思議そうな顔をしているアシュリーを見て、氷室は吸い殻を捨て新しい煙草を取り出し火を付ける。火を付けたばかりの煙草を深く吸い込み、煙を吐きながらこう言った。


「休憩がてらに教えてやるよ。そいつが何故、国際的な指名手配を受けているかをな」


 氷室の口から語られたのは、今から四年前の話。それはちょうど、デュランが中東の露店でホットプレートを購入した年の出来事である。

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