第22話 アスガルド聖騎士団

 応接室を出て、四人は長い廊下を歩く。


 立派な彫刻が施された廊下の柱には、あちらこちらに傷や落書きがある。それこそ、古いものから新しいものまで。それらは代々ここの子供たちがイタズラをして付けたものだ。


 当時の少年少女たちは何にも考えず、ただ「面白そう」だとか「なんとなく」で付けたもので、これらの柱を含めたこの教会の設備や装飾類には莫大な美術的価値があることなど、ここの子供たちはまだ誰一人として知らないだろう。それらは彼らの目線が傷や落書きの高さを超えたときに初めて気付くのだ。


 ミレーヌは今までこの手のイタズラで子供たちを叱ったことはただの一度も無かった。


 誰かが報告しても、いつもにこにこと笑っていた。今、アイラの目線の高さにはここの伝統と歴史が無数に刻まれた光景が広がっている。そのうちのいくつかは、目の前を歩く無愛想な男が付けたものだ。


 ウィリアムやアイラにとっては馴染みのない風景も、前を歩く二人にはとても馴染み深いものだった。


「変わらねぇな」


 デュランが呟くと、先頭を行くアシュリーも同意する。


「本当ね。ここはいつだって変わらない。変わったのは……」


 アシュリーは少し目を閉じて懐かしい空気を肺いっぱいに取り込む。外からは子供たちのはしゃぐ声が風に乗って聞こえる。まるで、自分たちの幼き日の幻影が呼び起こされているようだった。 


「ねえ、デュラン。これ、見て」 


 アシュリーは振り向いて右肩の勲章を見せた。白い獅子と二本の剣が斜めに交差した十字があしらわれた独特のデザイン。デュランはそれに見覚えがあった。


「お前、それ」


「えへへ、すごいでしょ?」


 アスガルド聖騎士団特務精鋭部隊。通称、獅子十字隊レオンクロス


 聖騎士団の中でも特に優秀で才能ある人材のみが入隊を許される極めて栄誉ある部隊であり、正真正銘のエリートたちで構成された集団である。


「さっきね、母さんの墓前で報告したんだ。私、頑張ったよって。一番応援してくれてたの、母さんだったから」


 エリートだけで構成されている組織だけあって、メンバーは貴族や富豪など上流階級の人間が大半を占めている。その為、社会的な地位もコネクションも持たぬ孤児院出身のアシュリーの就任は前代未聞の快挙。長い歴史を持つアスガルド聖教の中でも異例の出来事だった。


「母さんが元気なうちに見せてあげたかった。それだけが唯一、私の心残り」


《いつの日か最高の恩返しをしたい》


 それが幼い日のアシュリーの口癖だった。


 まだアシュリーたちが幼かった頃。ミレーヌが読み聞かせてくれた一冊の絵本。題名は「白きライオンとヴァルハラの戦士たち」


 アスガルド聖教でも神格に等しい〝戦乙女ヴァルキュリア〟と呼ばれる称号を持つ者の一人、獅子将しししょうウルティアと、彼女の率いた八人の精鋭部隊が悪魔の軍勢と激しい戦いを繰り広げる冒険活劇で、絶望的な状況を打破する為にウルティアとその部下たちは自らの命と引き換えに魔王を葬ったという逸話を基に描かれたものだ。


 殉教した彼女とその部下たちの功績と英雄的活躍を後世に語り継ぐべく、当時の教皇によって設立された特務精鋭部隊がアスガルド聖騎士団に実在すると聞いた日からアシュリーの目標は決まった。


 並大抵の努力では辿り着けない境地ではあったが、それでもアシュリーは諦めず、ひたすら精励した。すべては敬愛する母の為。流行り病で実の親を亡くした自分を引き取り、

他の孤児たち同様の愛情を注いでくれたミレーヌに示したかったのだ。「あなたが育ててくれた私は、これほど立派になりました」と。


 アスガルド聖騎士団へ入団して九年。遂に大願成就の日は訪れた。母親想いの娘が成した最大級の親孝行。しかし、故郷に錦を飾ったアシュリーの晴れ姿をミレーヌは目にすることはなかった。


「また来たよ、母さん。今度はデュランも一緒よ」


 着いた場所は教会の中庭。そこに慈母ミレーヌの眠る墓がある。デュランがミレーヌの墓を訪れるのは葬儀の日以来だ。こうしてちゃんと墓参りをするのは今日が初めてだった。


「しばらくだな、おふくろ」 


デュランはウィリアムの計らいで用意してもらった花束を受け取り、墓前で片膝を突いて供えた。


「……」


デュランは最後にミレーヌと言葉を交わした日を思い出していた。


『あなたにとってそれが正しい道だと思うのなら、胸を張ってお行きなさい』


それだけ言うと、ミレーヌはいつものように優しく笑っていた。二十年前のあの日も。


「……さて、行くか」


「あれ、もういいの?」


 徐に立ち上がり、膝の土埃を払ってさっさと背を向けるデュランにウィリアムが問う。


「過去を振り返るのは性に合わねぇんだよ」


「ふうん」と何気ない言葉を発したウィリアムの横を風のようにすり抜けてデュランの手を取ったのはアシュリーだった。


「待って、デュラン」


 デュランとアシュリーはただ黙って見つめ合う。アシュリーの目には薄らと涙が滲んでいるように見えた。


 一陣の風が吹いて木の葉と花びらを舞い上げる。長い二人の髪が静かに靡いた。


「デュラン、もう一度聖騎士団に――」


 意を決して言葉を紡ぎ出そうとしたアシュリーの唇にピタリとデュランの人差し指が当てられる。


 アシュリーは頬を紅潮させ、喉元まで出かかっていた息と言葉を吐けずにいた。


「お前が何を言いかけたかは知らねえが、今の俺はただの中華料理屋のオヤジだ。今更それ以上でもそれ以下にもなれねぇよ」


 そう言うと、デュランはアシュリーの唇を封じていた人差し指を折り曲げ、そのまま彼女の額をピンと弾いた。本日二度目のデコピンは先ほど当たったのと同じ場所に命中した。


「あいたっ! もー、同じとこばっか痛いよー」


「だったら、もうその話はするな」


「……何を言おうとしたかわかってるじゃない」


「お前は顔を合わせればいっつも同じ話しかしねぇだろ。何度言われても、俺の気持ちはかわらねぇよ。大体――」


 きゅるるるるっ。


 デュランとアシュリーの会話を遮ったのは、実に控えめで可愛らしい腹の虫。目線を下げると、お腹を押さえてこちらを見上げているアイラがいた。


「おなかすいた」


 時刻はもう夕飯時。アイラが腹を空かせるのも無理はない。


「じゃあさじゃあさ、これからみんなでディナーにしようよ。せっかく遠出したんだからどっか素敵なレストランでさ。アシュリーちゃんは何が食べたい?」


 ちゃっかりアシュリーまで頭数に入れているあたり流石はウィリアムといったところか。彼にとっては女性を食事に誘うなど呼吸をするのと同じくらい自然な行為だった。半歩詰め寄ったウィリアムから半歩下がって苦笑いを浮かべたアシュリーは、デュランを盾にしてウィリアムとの距離を取った。


「じ、じゃあ、餃子が食べたいな。デュラン特製の手作りの餃子」


「ええー、せっかくここまで来たんだから、フレンチとかイタリアンとか、もっとオシャレな料理があるじゃない。ねえ、アイラ。そっちの方がいいよね?」


「餃子……食べたことない」


「ホント? じゃあ一度食べてみて。デュランの作る餃子はおいしくてびっくりするから。あ、でも明日お仕事あるから、にんにくとニラは控えめでお願いね」


 餃子をリクエストしたアシュリーだが彼女の言う餃子とは、所謂焼き餃子ではなく水餃子の事である。何故なら、アシュリーは普段肉を食べない。宗教上の問題でも菜食主義という訳でもなく、トラウマによるものだ。


 事の発端は約二十年前。アシュリーがここの孤児院に初めてやってきたその日の夕食にミートボールのトマトスープが出たのだが、とある歳の離れたいじめっ子の男子がまだ幼いアシュリーに〝ミートボールが出来るまで〟を事細かに説明したのが原因である。


「豚さん可哀想」と泣きじゃくるアシュリーと、当時最年長で頼れるみんなのお姉さんだったウェンディに殴られるいじめっ子。もちろん、そのいじめっ子こそデュランである。


 デュランがジェイルタウンで店を始める前に、一度だけこのセントライミ教会で餃子を振る舞ったことがあった。その時、アシュリーにだけ特別に作ってやったのが焼き餃子ではなく、肉の代わりに海老を使った水餃子だった。アシュリーはそれを大変気に入っており、茹でる前の余った餃子を冷凍して持って帰るほどだった。


「もっちもちの餃子の皮とプリップリの海老の餡が最高なの! ミラノやローマのチャイナタウンでも水餃子を食べたけど、やっぱりデュランが作った水餃子が一番美味しかったなぁ」


 アシュリーの語る餃子の魅力にアイラもすっかり興味津々。ウィリアムの提案は全く耳に入っていない様子だった。


「つーわけだからウィル。ひとっ走りして材料揃えて来い」


 多数決で負けたウィリアムは、渋々と愛車のアクセルを吹かして近所のスーパーマーケットへ買い出しへと向かった。

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