EDEN's Order(エデンズオーダー)
後出 書
児童誘拐殺人事件 編
第1話 そこはまさしく楽園そのもの
『ここは楽園だ』
なんてことを最初に言い出したのはどこのどいつだろうか。
大きな紙袋を抱えていつもの帰り道を一人歩くウィリアムは、時折そんなことを考える。
『この街は何なんだ』
と、余所者から聞かれた時に返してやるこの街に住むものたちの決まり文句なのだが、なかなかどうして。単純なフレーズながらこれが実に奥深い。
東ヨーロッパと西アジアの中間に位置する小さな国、アルメニア共和国。
そこにある人口十三万人程度の都市に何故、エデンなどと楽園を冠する名が付いているのか。初めてこの街を訪れた時、ウィリアムも疑問に思ったものだった。
周りを見渡せばガラの悪い連中が銃を片手に談笑し、昼間から娼婦風の女たちが色目を使って客を路地裏へと手招く。道端の至るところに薬莢や割れた注射器等が散乱し、まだ乾いていない血糊が壁一面にべっとりとついていることなんて日常茶飯事だ。ヨハネスブルグやレバノンにも勝るとも劣らない治安の悪さで、お世辞を更に美辞麗句で塗りたくっても決して楽園だなんて呼ぶには相応しくはない。
それでも、ここはエデンという名の街で、その名の通り〝楽園〟なのだ。
「よう! ウィル!」
路上で屯たむろしていたストリートギャング風の青年たちが銃を空に向けて発砲し、ウィリアムに手を振る。最初は生きている心地がしなかったが、慣れとはおそろしいもので耳を劈つんざく銃声も今では車のクラクション程度にしか聞こえない。ウィリアムはいつものように人の良い笑顔で彼らに手を振る。
「調子はどうだい?」「悪くないよ」
上空への発砲からスマイルまでの一連の流れを言葉に置き換えるなら、このようなやり取りになる。常軌を逸しているが、これがここエデンに蔓延るギャングたちの間で最もポピュラーでクールな挨拶なのだ。楽園の名前が聞いて呆れる。
「ハァイ、ウィル。遊んでいかない?」
「ウィルなら色々サービスしちゃうよぉ」
次に声をかけてきたのは顔なじみの娼婦たちだった。
この界隈は売春宿や娼館が多く、女好きのウィリアムがエデンで最も足を運ぶお気に入りの場所だ。気に入り過ぎてひょんなことからマフィアの女にまで手を出してしまい、危うくコンクリートを抱いたまま真冬の海でダイビングなんて洒落たツアーを組まされそうになったのは苦い思い出だ。
「悪いね。今おつかいの途中なんだ」
ウィリアムはそう言いながら抱えていた紙袋を少し掲げて見せた。娼婦たちも察してくれたのか「また今度ね」と、にこやかに手を振ってくれた。この一帯だけはある意味、男にとっての楽園なのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、またも見知った顔の集団に出くわした。
「やあ、皆さんお揃いで」
「おお、
黒いスーツを着用したチンピラ風の東洋人たちが愛想よく笑う。彼らはこの街で一番の勢力を誇る中国系マフィア、
「えー、そうですか? これでも身だしなみには人一倍気を使っているつもりなんですけどね」
ウィリアムはそう返したが、確かにこの街には不釣り合いだとは自分でも思っていた。白いシャツとネクタイ。黒のウェイターベスト。きれいに伸ばされたスラックスによく磨かれた革靴。どれも有名ブランドのオーダーメイドで作らせた一級品。こんな気取った格好している金髪碧眼の青年など、ウィリアムも自分以外に見たことがなかった。
「これからどこかへお出かけですか?」
ウィリアムはチラリと視線を横へ向ける。連中の一人に二メートル近くあるスキンヘッドの巨漢がいるのだが、その男が先ほどから肩に担いでいる大きな麻袋が目に入って仕方がない。ちょうど大人ひとりが入る程の大きさで、ぐねぐねと動いていた。
「ちょいとそこまでピクニックにな」
男たちはそう言うと麻袋を車のトランクへ乱暴に投げ込み、早々と車に乗り込んだ。
レジャーグッズのような扱いを受けていたあの袋の中身が何をしてああなったのかは大凡の察しはつく。小遣い稼ぎに余所からやって来て、違法ドラッグの類いを売り捌き、彼のものたちの逆鱗に触れた。彼らは自分たちの縄張りで許可なく動き回るネズミを決して許さない。
「ああ、そうか」
去り行く黒いベンツを見送りながら、ウィリアムは唐突にわかってしまった。何故ここがエデンという名で呼ばれているのか。
交じりっ気なしの純粋な悪党によって築かれた悪党による悪党だけの楽園。力無きものには老いも若きも男も女も、白だろうが黒だろうが何一つ差別することなく平等に訪れる楽園。
「故に、エデン」
謎を解く鍵を与えてくれた悪党に感謝を。楽園へと旅立ち逝くネズミに花束を。そして、どうしようもなくクソッタレなこの楽園に乾杯。この素晴らしき日を記念して帰ったらヴィンテージのボトルを開けよう。
「きゃっ」
可愛らしい声と腹部に感じた柔らかい感触。衝撃と呼ぶにはあまりにもか弱いそれらが考え事をしていたウィリアムを現実に戻す。そこでようやく自分が何かにぶつかったことをウィリアムは察した。
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