5章 奪還 - 2
時刻は一三時一五分。
路肩に停車し続ける僕の目の前を保安局の車輌が列をなして横切っていく。
ウフキルが教えてくれた情報よりも八分遅れた通過。少なからずストライキや暴動の影響が出ているのだろう。予定の遅れは必ずどこかで綻びを生むはずだと僕は願う。
僕はゆっくりとアクセルを踏み、ホバーライドを発進させる。保安局の輸送用大型ホバーライドの前後を挟むようにホバーパトが並走している。周囲を警戒するホバーパトの数は思っていたよりも少ない。これもストライキに人員が割かれている影響なのだろうか。僕は少し距離を取りながら追走。車輌はすぐに高架道路へと進路を取った。
ハンドルを握る手が汗ばんだ。僕は平静を装いながら、何度も深呼吸をした。
高架道路はいくつかの分岐を経てブリッジへと通じている。ブリッジ前には検問があり、通行証が無ければ通過することはできない。だからブリッジに差し掛かる前に仕掛けなければならない。
だが一方であまり早く仕掛けてしまえば、逃げなければならない距離が長くなる。
最も理想的なのは、ブリッジに差し掛かる直前の襲撃によってセッテを奪還し、混乱の最中でブリッジを渡り切ってファースト・ドームのどこかに身を隠してしまうことだ。
マップは穴が開くほど確認した。頭の中ではいくつもの仮説を立て、何度もシミュレーションを繰り返した。だがこれは慣れ親しんだ実験とは違う。検証できるのは一度きり。もし失敗すれば僕の身の安全はもちろん失われ、セッテを救い出すことは二度と出来なくなる。
一瞬の判断に、全てが懸っているのだ。
「大丈夫、大丈夫だ、大丈夫だ」
僕は呪文のように唱える。ハンドルを切る。ナビゲーションを確認する。助手席の上に無造作に置かれた拳銃を見やる。
こんなものにどれほどの力があるかは分からない。まず間違いなくドールには効かないだろう。一般のドールならともかく、保安局のドール捜査官のボディは固い。人間の捜査官には有効かもしれない。だが銃弾は当たり所が悪ければ死ぬ。ウフキルには脚を狙えば大丈夫と言われていたが、そもそも当たるかどうかも分からない僕の射撃の腕でどこかを狙いを定められるわけがない。
だがやるしかない。何かを守るということはたぶん、何かを傷つけるということなのだ。もしまた誰かを殺すことになるとしても、僕はもう退いてはいけなかった。
「大丈夫、大丈夫、僕はやる、やるんだ」
高架道路が終わりに差し掛かる。一般道へと下りれば、すぐに検問所とブリッジが見えてくる。
今だ。
僕は拳銃を手に取り、ベルトの隙間に突っ込む。早鐘を打つ心臓を抑えつけるよう、アクセルを強く踏んだ。ホバーライドが加速。隣りの車線を一気に駆け上がる。大型ホバーの横にぴたりとつけ、一気にハンドルを切る。
衝撃が、僕の脳を揺らした。
風景が目まぐるしく回転する。衝撃を受けて飛び出したエアバッグが僕の顔面に衝突。鼻梁と前歯が折れる。二度目の衝撃が背後から僕を貫く。肺の空気が全部搾り取られて呼吸が止まる。爆音が耳を劈き、平衡感覚を奪っていく。一瞬だけ消えた重力が突如として戻ってきて僕を突き上げる。僕は、滅茶苦茶になっていく世界で、必死に歯を食いしばる。
やがて静寂が訪れる。耳鳴りの音が聞こえる全てだった。
朦朧とする意識のなかでも、僕は自分のすべきことをはっきりと理解していた。頭のなかで何度もシミュレーションしてきたのだ。意識に刷り込まれた行動選択が、僕の身体を突き動かす。
割れた窓から這い出す。額からは溢れるように血が流れていた。拳銃を構えて周囲を伺う。
火の手が上がっていた。僕のホバーライドを避けようとしたホバーパトが横転して道路中央へとスリップ。一般の車輌と接触したらしい。保安局はまだ態勢を整えられていなかった。怒号が飛び交い、なんとかして状況の把握に努めようとしている。
僕は引っくり返ったホバーライドを足場に、追突の衝撃で拉げた大型ホバーのなかへと入り込む。割れたガラスに引っ掛かって服が破れるが今更そんなことは気にならない。
運転手は気絶していた。護衛の保安官二人も意識を失っている。セッテは車輌の奥、ベルトで固定された半透明の筐体のなかで裸のまま拘束されていた。
僕はセッテの名前を叫ぶ。まだ耳がうまく聞こえないせいで、ちゃんと呼べたか分からなかった。
筐体を固定するベルトは簡単に外れた。車輌が拉げるほどの衝撃だったにも関わらず、筐体には傷一つついていなかった。筐体の鍵を拳銃で撃ち抜き、強引に蓋を外す。セッテはまるでお伽話に出てくる毒のリンゴを食べてしまった姫のように、静かに、美しく、眠っている。
不安を振り払うように、僕はもう一度名を呼んだ。返ってくる言葉はない。落ちていたガラス片を手に取ってセッテの身体に巻き付く合皮の拘束具を引き裂く。ガラスが僕の掌に食い込んで血が流れ、セッテの白磁の肌を赤く濡らす。生々しい赤と冷たい白のコントラストが、セッテはドールであり、やはりただのモノでしかないのだと告げているようで胸が苦しくなった。
「セッテさん、起きてください。僕はちゃんと助けに、助けに来たんですよ?」
セッテはぴくりとも動かなかった。抱き起した身体は氷のように冷ややかだった。
「なんでですか……セッテさん、そんなのあんまりじゃないですか。僕、聞きたいことがあったんです。ねえ、セッテさん、答えてほしいことがあったんですよ」
僕はセッテの身体を揺すった。セッテの身体はひどく冷たくて、ひどく重かった。
「そうだ! 聞いてください! 今すごいことが火星で起きてるんですよ。ドールの一斉ストライキです。セッテさんの同僚の方も活躍してるんです。成功したら、きっといつだって地球を見に行けるようになりますよ。ねえ、セッテさん? セッテ、さん…………」
視界が霞んだ。全く制御できない感情が溢れた。セッテはすぐそばにいるのに、もうどこにもいないような気分だった。
しかし感情に沈んでいる余韻もなく、一発の銃声が轟く。気が付いたときには銃弾が頬を掠め、左の耳を吹き飛ばしていた。遅れてきた形容しがたい激痛が、僕の脳を焼く。
「―――っぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああっ!」
絶叫を上げ、僕はその場に転がる。耳と一緒に全てが吹き飛びそうだった。意識も、目的も、覚悟も、全てが痛みに塗り潰されていく。
「抵抗を止めろ。次は頭を吹き飛ばすぞ」
滲んだ視界に、拳銃を構える保安官が見えた。脚が折れていて立っているのも厳しいのか、額から血を流して壁に寄り掛かったまま、銃口を僕へと向けていた。
「やってくれたな。貴様がルイ・ナナオだな。だがもう逃げ場はないぞ」
保安官が引き金を引く。筐体の蓋に当たった銃弾は跳ね、罅割れた窓ガラスにトドメを刺す。
僕は必死で床を這い、筐体の影に身を隠す。血が止まらなかった。激痛のせいで痺れてきた僕の手は溢れる血で真っ赤に染まっていた。
保安官の靴底が床を擦りながら、確実に近づいてくる。次の一発で確実に仕留める気だ。
必死に打開策を考えた。だが融点に達した鉄を流し込まれたような激痛を訴える脳では、ろくな考えがまとまるはずもない。
死にたくない。僕はただそれだけの本能に従って、拳銃を抜いた。
保安官が僕を照準したのとほぼ同時。向かい合う銃口越しに、僕らの視線が交錯する。
「……立派な得物を持ってやがるじゃねえか」
保安官の言葉をよそに、僕は僕を覗き込む銃口を見つめた。
死が突き付けられている。引き金に掛けられている指が数センチ動くだけで僕は死ぬ。
死を突き付けている。引き金に掛けた指にほんの少し力を込めるだけで保安官は死ぬ。
僕らは今、明確に、殺すか殺されるかという瀬戸際で命のやり取りをしているのだ。
そう思ったら、急に思考がクリアになった。痛みが消えたわけではなかったが、意識の隅に追いやられていくのが分かった。
思考が回転を再開しても、僕の答えは同じだった。
死にたくなければ殺すしかない。
セッテを助けたければ、相手より先に引き金を引くしかない。
何かを守るということは、何かを傷つける覚悟をすることだ。
きっとウフキルが僕に問うていたのは、こういうことなのだろうと今なら分かる。
「たかだかドールだろ? どうしてそこまで必死になる?」
保安官が問いかける。彼だって進んで僕を殺したいわけではないのだろう。人を殺すという行為は、大きな心理的負担を伴う。この場合、彼にとっての最適は隙を突いて僕を拘束することに他ならない。
そしてそれは僕にとっても同じだ。
僕らは互いに死を突き付け合いながら、その取り扱い方に戸惑うように、まだ最良の道を手繰ろうとしている。
「僕には大義もないし、何かを成し遂げるための強い力もありません。でも、彼女に聞きたいことがあるんです。そのためなら、僕は戦います」
「たまにいるんだよ。お前みたいに人とドールの区別がつかなくなっちまうド阿呆がな」
「そうですね。貴方の言う通り、僕はド阿呆かもしれません。ですが、僕からすれば貴方たちは過度に怯えているように見えますよ」
「怯えているだと?」
「ドールに怯えている」
「言ってくれるじゃねえか」
保安官の声が怒気を孕む。もういつ勢いで引き金が引かれてもおかしくなかった。
「ドールを道具に貶め、自分たちよりも低い存在だと頑なに思い込む。それは怯えや恐れ以外の何ものでもありません。だけどそれは同時に証明します。……カレン・ウノの作った感情表現モジュールは、ドールと人間を等号で結んだ―――彼らに意識と魂を与えたことを」
「あ? カレン・ウノ? 誰だそいつは?」
銃口が僕の額に押し付けられる。僕は震えた。突き付けられた死にではなく、ようやく受け入れることのできた敗北に。
五年もかかった。あまりに遅すぎた。おかげで償いきれない過ちを犯してきた。どれだけ後悔しても死んだカレンは生き返らない。
でも今はまだ間に合うから。確かにここにいるセッテを、救うことはできるから。
諦めることも、逃げることも、もうやめだ。
僕は保安官の腰目がけて突進。保安官は反射的に引き金を引く。銃弾は僕の左頬を抉り、耳があった場所を擦過。真っ赤な血が迸って宙を舞う。
痛みなど関係なかった。僕は獣のような雄叫びとともに保安官を押し倒す。押し倒した拍子、壁に強く頭を打った保安官の手から拳銃が離れる。
「うおおおおおおおおおおおおおっ! うおおおおおおおおおおおおっ!」
馬乗りになった僕は無我夢中で銃把を振り下ろす。防御に掲げられた腕を砕き、鼻梁を圧し折る。頬骨は罅割れ、額からは血が噴き出して、目元は青く腫れ上がる。
気づいたとき、保安官は血の海に浸りながら浅い呼吸を繰り返していた。手足は痺れ、鉛のように重かった。人を殴るという行為がこれほどの徒労感を強いてくるものだと、僕は知らなかった。
僕は虫の息の保安官の上から退き、荒くなった呼吸を整える。昂った神経が周囲を取り囲む気配を敏感に察知する。
「くそ……どうしたらいい」
ちらとセッテを見やる。セッテはまだ、蓋の開いた棺の中で眠ったままだ。
僕は立ち上がる。血を流しすぎたのか、立ち眩みがしてよろめいた。
諦めない。まだ終わらない。まだ何一つ、セッテの答えを聞いていない。
割れた窓から外を伺う。予想通り、バスの周囲は保安官やドール捜査官に取り囲まれている。仮にセッテが目を覚ましたとして、この包囲網を突破するのは厳しそうだった。
外では僕に出頭を促す警告が響いている。何と言っているのかは、片耳が吹き飛んだせいもあって上手く聞き取れなかった。
僕はセッテを抱き起し、一度は千切った拘束具を使って僕の背中に固定する。セッテの少女のように華奢な身体は、当然だがドールらしく重かった。
「立ってください」
僕は寝転がっている保安官の血だらけの額に銃口を押し付ける。銃口が傷口に触れ、保安官が痛みで呻いた。仰向けの彼を蹴飛ばして転がし、折れて腫れ上がった腕を腰の後ろで縛り上げる。
「僕は、貴方を殺しません。でも味方に殺されないかどうかは、貴方次第です」
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