第4話例えばCさんの場合
~一粒の涙~
僕の母は生まれつき体が弱かった。父は僕が小学生になったばかりの頃に流行った新型インフルエンザで亡くなった。特効薬はその時、まだつくられていなかった。
ある日のこと。学校でインターネットを使用した授業の時、僕は誤って別のページに飛んでしまった。音をミュートにしていたことだけが幸いだった。誕生日ケーキであろうファンシーなケーキの上で、火の着いたろうそくが数本踊っていた。ページの名前は『誕生日登録』。
僕はどうすればいいのかわからなくて、とりあえず目立つ吹き出しの中に書かれた「誕生日と名前を入力してね!」という指示に従った。
ぽちぽちと打ち込むと、「まっててね!」という文字と共にページは閉じていった。
今思い出しても、あれはなんだったんだろうと思う変な時間だった。
しばらく日が経ったある日。その日は僕の誕生日だった。
僕のもとに小さな箱が届いた。中には小瓶と、一枚のメッセージカード。
僕の誕生日と名前、それと短いメッセージが書かれていた。
「いつ使うかは君が選んでね」
その意味は解らなかった。
小瓶の中には更に小さな錠剤がたったの一粒だけ入っていた。
何の薬か、薬なのかさえ判断できない僕には、それを机の引き出しの奥の方に押しやるしかその時はできなかった。
何年も過ぎた肌寒い日、母の体調が急に悪くなった。咳が止まらなくなり、呼吸が困難になった。運転がまだできない僕は、すぐに救急車を呼び荷物をまとめて掛かり付け医のところへ急いだ。
風邪が悪化したのか?まさかインフルエンザ?どれにしても母の体が耐えられるとは限らない。
遠い日にいなくなった父が頭を過った。母も父のように?人の命はあっさりと消えてしまうものだと、僕は知っていた。まるで、蝋燭の炎のように、あっけなく消えてしまうものなんだ。ほんの少しだけ、強い風が吹けばあっという間に消えてなくなる。
どうか、どうか風よ吹かないでくれ。
母の命を吹き消さないでくれ。
病院に着く頃には、母は高熱を出していた。インフルエンザかもしれないと慎重になった救急隊員たちは、即座に感染症の対策を始めた。
僕の目の前で行われていく段取りはスムーズで、彼らがプロであるということを感じさせた。受け入れ病院へ連絡を入れ、防護服を着用した。僕にも説明をしながら同じものを着用させた。動きやすいものではなかったが、必要な処置だった。
何度も来たことのある病院へ着くと、自分達と同じような姿で病院側も出迎えた。この時、既に母の意識はなかった。僕は焦っていた。焦り、病院の奥へ運ばれていく母を見送った後に視界をうろうろとさ迷わせていた僕の肩を強く叩いたのは、同じ救急車に乗っていた一人の若い救急隊員だった。
「しっかりしろ!」
強く言われたその一言で、僕は持ち直すことができた。その隊員へ頭を下げ、僕は母の意識が戻るのを待つため奥へ向かった。
病室の前の椅子に座り、どれくらい時間が経っただろう。張っていた気が弛んだのだろうか、僕はうとうととしていた。
そのとき、耳の奥で誰かが囁いた。
「いつ使うかは君が選んでね」
ぱちんと、風船が弾けたように僕は目を覚ました。
外はもう暗くなっていて、周りに人の足音も聞こえなかった。
担当の医者から声がかかり、明日再び来いと言われた。
母とはその日、会うことはできなかった。
結局、その日から数日僕は母と話すことはできず、ガラス越しに彼女が痩せ細っていくのを見ているしかなかった。目を閉じ、辛うじて息をしている彼女の姿はとても痛ましかった。
僕は毎日泣いた。
自室で瞼を腫らしながら。
何もできない自分が悔しくて、毎日泣いた。
そんな日が続き、僕のように誰かが泣いているかの様な雨天の日がやって来た。
その日はたまたまペンが壊れ、机の引き出しにどこかにしまっていたはずの新しいものを取り出そうと手を奥の方へ突っ込んだ。
すると、奥の更に奥で指が何かに当たった。引きずり出してみると、それは小さな小瓶だった。いつかの誕生日に贈られてきた、錠剤が一粒だけ入った小瓶。
「いつ使うかは君が選んでね」
僕は書かれたあのメッセージを思い出した。
今かもしれない!
これがもしも特別な薬だったとしたら、今使わないでどうする!
僕はそれを手に握り、病院へ駆け出した。
病院へ着くと、受付にいた看護師が受話器を手にこちらへ声をかけてきた。今、連絡を入れようとしていたのだ、と。母の意識が戻ったらしい。しかし容態は悪化している。いつ最悪のことになってもおかしくない、と。
僕はすぐに病室へ向かった。
病室のベッドに横たわる母は痩せて青白い顔をしていたが、僕を見つけると笑顔になった。ふわりと、すぐにでも消えてしまいそうな笑顔だった。
「かあさん」
僕は近づくと小瓶から錠剤を取り出し、ペットボトルの中の水とともに彼女の口の中へ押し込もうとした。
実に、危険な行為だった。
何の薬かもわからない、得たいの知れない物を病人に飲ませようとしたのだ。それだけ、僕は焦っていた。一時は冷静になったはずの思考も、体が弱まるのを見続けてすり減っていた。
薬は母の体に入ることはなかった。錠剤を取り出した時点で、母は僕の手を自らの手で押さえたのだ。全くと言っていいほど力の入らない手が僕の手の上に重ねられた時、やっと自分が何をしようとしていたのか理解した。
母は言った。
「そのお薬は、いつ使うかちゃんと考えて決めてね」
母は、最期に笑ってそう言った。
その日の夕方、母は亡くなった。
結局のところ、見知らぬ誰かから贈られてきた小瓶の中身はなんだったのか。僕は遺骨となった母を抱えて思う。
その答えは、意外とすぐに示された。
僕はその後医大生となり、母を奪った病気について研究した。あれは、未知の感染症だった。救急隊員たちの判断は正しかったのだ。
市は、県は、国は、その病気の対応に追われることになった。もちろん、僕の所属する大学でも応援を要請された。最終的に、ないはずのワクチンを製造することを急かされた。ウィルスが検出され、調査が行われるようになる頃には、既に国民の命はあの時の母と同じように脅かされていた。
毎日毎日同じように研究室へ籠っていると、ふとあの錠剤を思い出した。僕は錠剤をほんの僅かだけ削り、その粉の成分を研究グループの仲間たちとともに分析した。ただの気分転換のつもりだった。
分析が終了した粉を希釈した液体が机の上に置かれた。僕たちは国の役員を目の前に頭を垂れている。
あの錠剤は「特効薬」だった。なんの病気に対しても効果がある、秘薬だった。
「どこから手に入れた」
「わかりません」
「すぐに増やせ」
「コピーできないんです」
「わからない成分が多すぎて、現代の科学では製造できないんです」
「そんなこと通用するか」
「現に、あのウィルスを殺せたじゃないか」
実験段階で、あの錠剤の成分はウィルスを培養した倍地に投与した後、数時間でウィルスたちをほとんど消滅させた。他にもいくつかの病原菌に対し同じ実験を行ったが、全て同じ結果だった。
しかし、コピーできないのも事実だった。
全ての判断は所持者である僕に委ねられた。
たった一錠の薬。
母を助けることのできたはずの、薬。
再び、僕の耳にはあのメッセージが聞こえてきた。
「いつ使うかは君が選んでね」
今こそ、使うべきだと思った。
錠剤は、コピーできなかった。
しかし、いくら希釈しても効果が劣ることもなかった。
僕たちは、あの錠剤を砕き、水に薄めた。薄めて薄めて薄めて薄めて、国民に飲料水として配った。
国内に生きる全ての命に行き渡るよう、祈りを込めて、僕たちは溶かしていった。
ネットを通じて知り合った国外の友人たちにも協力を仰いだ。
僅かな粉を送り、同じように薄めて彼らの国内に広めさせた。
それはまるで、一滴の雨が海に溶けていくようだと僕は感じた。
やがて、世界からあのウィルスは根絶やしとなった。
世界の命は、救われたのだった。
僕の手元に残った物は、小さな小瓶に入った僅かな粉だった。
誕生日に贈られてきた小瓶と一錠の薬。それは無数の命を救った。
しかし、僕の大切な母の命を救ってはくれなかった。
それは、僕の選んだ「使い時」でもあったのだ。
今年も僕の誕生日がくる。
ハッピーバースデー、僕。
人生でたった一回だけ利用できるのだというサイトから贈られてきたあの小瓶は、僅かに中身を残したまま今でも僕の手に握られている。
☆対価はあなたの選ばなかった選択肢です☆
あの日、母の命を一錠の薬で救おうとしたなら、世界はどうなっていたのだろう。
ねえ、母さん。僕の選んだものは正しかったんだよね。
誕生日の今日、僕は父と母の墓の前で一筋の涙を流した。
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