第3話 お迎え
今日の梅川の話を反芻していたら、あっという間に電車は吉祥寺駅に着いた。私の家は吉祥寺駅の南口から徒歩五分に位置するマンションの四階にある。
会社のある水道橋まで、JR総武線で一本でいけるアクセスの良さと、妻の理沙が吉祥寺の女子高に通っていた縁から、結婚したときにこの地にマンションを購入した。
今はその妻は亡く、娘との三人暮らしだ。
長女の理央は一四才で公立の中学校でバスケットに夢中になっている。もう自分のことは一人でできるので、ほとんど手がかからない。
一方次女の沙穂はまだ五才で、吉祥寺と三鷹の中間に位置する保育園に預けている。毎日電車を降りると家に真っ直ぐに向かわずに、駅近くの駐輪場から自転車に乗って、保育園に沙穂を迎えに行く。
五時半の就業と共にダッシュすれば、六時十五分ぐらいに吉祥寺に着く。
延長保育料の二千円が惜しいわけではないし、延長の子に対し園から出る軽食のおやつは、それなりに人気があるようだが、それはお迎えが遅い印でもあり、それが続くようだと感受性の強い子は悲しい気持ちになるかもしれない。
そう思って私は毎日五時半になるとダッシュで退社するのだ。
今日は梅川の無理難題に付き合って、園に着くのが七時を回ってしまった。
――きっと沙穂は機嫌が悪いぞ!
私は「会社で怖いおじちゃんに苛められて遅くなった」と、少し情けない言い訳を考えながら、沙穂の待つ保育室に向かった。
五月と言えども、この時間は陽が落ちて周囲は暗くなる。子供たちのいない薄暗い廊下と対照的に、お迎えが遅くなった子供達は一か所に集まって、明るい部屋で迎えを待つ。
子供たちのいる部屋に入ると、意外にも沙穂は笑顔で保育士の下田亜紀と遊んでいた。
「先生すいません。急に仕事で待ったがかかって」
パパが来ないと愚図る沙穂を亜紀が苦労して機嫌をとっている姿を想像して、申し訳なさで自然に頭が下がった。
「あら、大丈夫ですよ。最近沙穂ちゃんとても聞き分けが良くて、今日も全然愚図らずに楽しく遊んでたんですよ」
その予想外の言葉に安堵ではなく寂しさを覚えたが、沙穂も成長しているんだと気を取り直した。
「日々成長してくれて嬉しいです」
完全に強がって繕った言葉だ。
そんな私の様子を見ながら、亜紀は何も言わずに微笑んだ。
一年ごとに担任が変わる保育園で、珍しく亜紀は入園してからずっと沙穂の担任をしている。それだけに自分の少し残念で寂しいような気持ちも、見抜かれているような気がして恥ずかしくなった。
「さあ、帰ろう。ねねが待ってるよ」
照れくささを消すように急かす私に促され、「うん」と頷いて沙穂は律儀に遊んでいたおもちゃを片付け始めた。
「沙穂ちゃん、いいよ、後は先生がやっとくから」
時間が遅いこともあり、亜紀が片づけを申し出ると、沙穂も素直に従って私の下に走ってくる。
「パパ抱っこ」
帰ると決まって、ようやく甘える対象がこっちに回って来た。
――何てうまい子なんだろう!
将来は男にとって悪魔になるかもしれないななどと、親馬鹿を発揮しながら満面の笑顔で沙穂を抱きしめる。
そんな二人の姿を見て楽しそうにしている亜紀の姿に、すごい美人じゃないけど、清潔感があって優しそうで、月並みだけどいいお嫁さんになるんだろうなと、おじさんらしい妄想が走る。
おもちゃを片付けている亜紀に「さよなら」を言い、保育園の駐輪スペースで、ママチャリの後ろに沙穂を乗せ家路を急ぐ。
理央はしっかり者だがさすがに女の子だから、あまり遅くまで家に一人でいさすのは心配だ、と思っているのは私だけかもしれないが……。
後ろでは沙穂が今日の出来事を一方的に話している。
私は、「ふーん」とか「そうなんだ~」と相槌を打つだけでいい。無口だった理央に苦労したせいか、おしゃべりな子は基本的に楽だと感じてしまう。
家に着くと、理央はパソコンで何か検索している。
小学五年生の夏休みの自由研究で、インターネットを使って情報収集して以来、マイパソコンは理央との共同所有物と化した。
見ると近隣のスポーツ店のバッシューのセールを調べている。理央は勉強は今一だが運動はよくできて、小学校のときは所属するミニバスチームのキャプテンを務めた。中学生に成ってあまり話してくれないが、チーム内では頼りにされているらしい。
そんな理央がインターネットの世界を彷徨う姿を見て、今日の梅川の話が頭をよぎる。
「ご飯し掛けといたからもうすぐ炊けるよ」
最近は家事でも貢献してくれる。いや、早く飯食いたいだけか? 何にしてもありがたい、「サンキュー」と礼を言って、豚ロースに市販の生姜焼きソースをぶっかけて手早くおかずを用意する。野菜はレタスを無造作にちぎって添えるだけだ。
手抜き料理だが、それでも育ち盛りの子の食は進む。沙穂は食べながら、もうウトウトし始めてる。食べ終わる前に眠りに落ちる寸前となった。
急いで歯ブラシを持ってきて、無理やり口を開けさせ歯を磨く。タイミングを誤ると、口はしっかりと閉じられ、虫歯への道に落ちていく。
もう目が明かない沙穂をソファに置いて、食事の後片付けを始めた。食器を食洗器にかけると理央が訊いてくる。
「手伝わなくてもいい?」
大丈夫だと私が答えると、理央はまたパソコンの前に向かった。パソコンはビジネスツールだと言う観念が強い私にとって、中学生が飽きもせずにパソコンの前に座り続けることは奇異に感じる。
「宿題は大丈夫か?」
練習の疲れでそのまま寝てしまうことを恐れて聞くと、何も返事がない。夢中になっている上に、理央は最近少し自分に冷たいところがある。あまりしつこく言って嫌われるのも嫌なので、ソファの沙穂に視線を移す。
沙穂はパジャマに着替えたこともあり、熟睡体制に入っていた。風呂は朝シャワーでいいかと諦めて、ベッドに運ぶ。
それにしても重くなったものだ。抱え上げた時に少しよろめいた。
――これだから延長保育は嫌なんだ!
腰を痛めそうな沙穂の重さと、朝のシャワーの手間を思い、明日は必ず定時に帰るぞと強く思った。
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