一緒にカエロウ?

赤部航大

一緒にカエロウ?

 公園内の白塗りされた女子トイレより出てきた聡美は、もうスーツ姿ではなかった。聡太と目が合うと、「お待たせ」と透き通る声で空気を震わせた。満開の向日葵のような笑顔を添えて。

 今の彼女の格好は白のロングTシャツに、脚の形が見て取れる青のロングデニム、そして背に赤のランドセル。どこからどう見ても年頃の女子小学生だ。惜しむべくは——


「もう、また見てるね? 大分慣れてきたとはいえ、それでもジロジロ見られると恥ずかしいよ」


 そう、聡美の髪型である。彼女は聡太の視線に気付くと、頭に触れながらはにかんで応えた。

 彼女の亡き父そっくりの髪型の——短く切り揃えられた——頭に触れながら。


「悪い、そんなつもりじゃ……」

「ううん、いいの。それに聡ちゃんがロング好きなの知ってるから。だからこれくれたんでしょ?」


 とっさに俯いた視線の先、左手首に付いた黄色のシュシュが示された。それは聡太が2年前、聡美の10歳の誕生日にプレゼントしたもの。3ヶ月程前までポニーテールに使われていたのに、今ではその姿がひどく懐かしい。


 ——懐かしんでるだけじゃ、何も変わらないだろ。


 思い立った聡太は突如、両手で頬を引っ叩いた。眼鏡の位置が少しずれる。


「急にどうしたの!? 聡ちゃん!」

「いや、気にしなくていい。それよりバッグ持つよ、貸して?」


 驚く聡美を前に聡太は右手を差し出し、多少困惑されながらもバッグを受け取った。正直軽い。所詮スーツしか入っていないからだ。


「さっきの質問だけど、ぶっちゃけ今の髪型もボーイッシュと思えば似合ってなくもない。けどお前の言う通り俺はロングが好きだ。だからまたロングに戻れるように、まず先生とかに相談しないか?」

「相談……」

「そう。クラスの皆はもうお前が訳ありってことに勘付いている。だからお前はクラスで——」

「待って」


 刹那、空気が凍る。透き通るような声は一瞬にして氷刃と化していた。そしてそれは今まさに


ってなに?」


 聡太の喉元に突きつけられていた。普段は愛敬を感じさせる丸くて大きい垂れ目が、ひと回りもふた回りも見開かれている。それなのに瞳に光が一切写っていない。聡美の声や瞳が、いや、聡美の発する全てが、聡太に身じろぎひとつ許さなかった。

 彼の返事も、公園の木の葉のざわめきも、鳥の鳴き声や通行人の足音もないまま、聡美の独白が続く。


「ママはね、まだ傷が癒えていないの。私よりも大切な、最愛のパパを失った傷が。前にも言ったよね? ママが私をこの髪型にした時何て言ったか。『ああやっぱり! 啓介にそっくりだわ! あとずっと、このままでいようね!』って。本当に嬉しがってた。それから私をパパと思い込むようになって、笑顔でいる時間も増えたんだ。相変わらず遊んでばかりで、たまにを思い出したかと思えば、以前より更に不安定になるけれど……でもほら、人って波があるものでしょ? 誰だってそう。ママの場合はそれにパパロスのストレスが重なって、人よりほんのちょっと酷くなるだけ。だからはあると言えばあるけれど、そんなに問題視されることじゃないわ。周りから変な目で見られないよう、私が頑張ればいいだけだから。それに——」


 人はこんなに瞬きをしないものだったのか。現実逃避気味に場違いなことを考える聡太に、一拍置いてからの聡美の言葉が続く。


「もう他人に人生を壊されたくないの」


 いやに実感がこもっていた。彼女の幻影を現実に戻そうと奮起し、既知の筈の地雷を踏んでしまったことを聡太は後悔した。

 すぐ感情的になり、ヒロイックに酔い、調子に乗ったことをしてしまう、自分が憎かった。


「あ、もちろん聡ちゃんは別だよ? 私たちは幼馴染の『ひとりっ子同盟』だもん! だからこれからもよろしくね? 学校では迷惑かけないようにするから」


 そんな自己嫌悪の渦に飲まれかけていた彼を救ったのもまた、聡美のひと言だった。おぞましく見開かれていた目は、今では柔らかくなっており、息をするのも忘れてしまうくらい魅力的だった。

 整えられた鼻立ちに、微笑みをたたえた薄桃色の唇。正しく美少女の笑顔が目の前にあった。

 そうして呆けている聡太の額を、聡美の中指が弾く。


「いっ!」

「もう、しょぼくれたり熱くなったり呆けたりして忙しいなぁ、聡ちゃんは。もたもたしていると学校に遅れるから行こ! うちの庭にそれを置いてく用もあるんだから」


 言いながら聡美は聡太の手を引いて走り出し、彼も半ば引っ張られるように走り出した。少しゴワついた感触を握られた手で感じながら。その感触が、家事に勤しむ母の手と似ていると思い出したのは、聡美の家の前に着いてからである。


 * * *


 聡太はボストンバッグを庭の隅に隠し、ひと段落つくとスマホを開いた。時刻は7:30。


「余裕じゃん」

「余裕を持つのはあらゆることの基本でしょ?」

 ——お前が言えることじゃないだろ……。


 それは庭ひとつ取っても一目瞭然だった。雑草がやりたい放題しており、手入れはおろか見向きもされていない様子。

 ちなみに荒れた庭ではあるが、綺麗に埋めたりでもしない限り、ボストンバッグなどどこに隠しても少し注視すればすぐ見つかる。なのに気付かれたという報告は未だに聞かない。


「逆に気付くくらい現実見りゃいいのにな」

「聡太?」

「何でもない。行こう」


 こうしてふたりは左右を家に挟まれた道を進み始めた。道幅は広く見積もっても車1.5台分といったところだが、時間帯によっては車も自転車もよく通る。故に彼らが縦に並んで歩く習慣は、なるべくしてなったものと言える。


「それにしても聡ちゃん、またスマホ持ってきてる。うちの学校は持ち込み禁止って知ってる?」

「別にいいじゃん。時計代りに使えて便利だし、現にお陰でこうしてゆっくりと」

「聡ちゃんもう少し右に寄って止まって、後ろからトラック」


 言う通りにした矢先、左頬に風圧を感じる。そのまま正面を宅急便のトラックが走り抜けて行った。


「……嫌でもゆっくりになるな」

「そんなの今更でしょ。それよりスマホのことだけど——」

「知ってっけど孤島が俺を呼ぶんだ。休み時間にチキンディナーは欠かせないって」

「昼間にディナーって何事よ……全く、随分バトロワにお熱だこと」

「今もやりたくて仕方ねぇくらいにな」


 言いながら聡太が右手で聡美を制止すると、向こうに小さい畑が見える曲がり角で、右へ顔だけ出した。止められた彼女の方はというと、うんざりした様子だった。


「右、クリア! 付いてこい、聡美」

「……」

「あのな、聡美。おふざけも半分あるけれど、もう半分はマジだぜ? 実際よく凄いスピードで自転車とかバイクとか曲がってくるし。こうして俺達が曲がった先で無事に歩けるのも、俺のクリアリングあってのものよ」


 聡太の熱い語りが、年季の入った家々の間で虚しく木霊する。木霊に続いたのはふたり分の足音と、後方から響くエンジン音くらいだった。


「頼む何か言ってくれ」

「そういえばこの前も話したけど、今日私ね」

「あれ? 俺の発言消された?」


 そう言って聡太が戯けてみせると、聡美は耐え切れないように吹き出した。


「聡ちゃんってやっぱりギャグセン高いわ! 特にスベリ芸の!」

「褒めてるようで貶してますね?」

「や、やめて聡ちゃん、笑い死ぬ」


 いよいよ聡美の小笑いが大笑いへ進化したのを見届けると、聡太の頬も自然と弛んだ。


 ——これだ、これがあるべき姿なんだ。この時間がいつまでも続けばいいのに。


 しかし時は決して止まらない。談笑を交わしながら進む内に、国道へと繋がる下り坂に合流した。数メートル先の右手側にあるマンション周辺が坂の終わりとなっており、そこから10メートル程先が国道だ。

 これまでは同じ学校の子と被らないルートを通ってきた。しかし国道となると流石に被らないは無理がある。つまりこうしてマンションの前に着いたということは——


「いつも通り聡ちゃん先に行く?」

「……ああ、そうだな」


 分離地点の到達。聡美の呼び掛けに聡太は足を止めて振り返った。もう互いの声色に先程までの明るさはない。

 彼はここでいつも試される気分になる——勇気があるか否かを。


「聡ちゃんってばいつまで経っても慣れないね、優しいから」


 それが顔に出ていたようで、優しく目を細めた聡美が案ずるように声を掛けてくる。


「いや、そんなんじゃ」

「いいの聡ちゃん、気にしないで? 私、聡ちゃんまで学校で嫌な思いするの、やだよ。ただでさえ新田と仲悪いのに、私と一緒にいるって知られたら……」


 そう言って聡太の両手を握りながら、潤んだ瞳で見上げてくる聡美。彼はこの表情にめっぽう弱く、ハリボテの安寧に身を委ねたくなってしまう—いや、委ねてしまった。そしてまた今日もぬるま湯から出ないことを選択したのだ。


「ごめん。いや、ありがとう、聡美」

「どういたしまして。あ、さっき言いかけたこと思い出した」

「何だ?」

「今日日直だから待っててって話。待ってくれるよね?」


 聡美が小首を傾げて尋ねてくる。その可愛さの余り、先刻までの恥の感情を忘れ、出来心が聡太を襲った。


「どうしよっかなぁ。早く家に帰ってバトロワしたいしなぁ」


 言いながら国道の方へ進んで行く聡太。焦った様子で聡美が追いかける。


「冗談だよね? 待っててくれるでしょ?」「もう少しで今シーズン終わっちゃうし……」「聡ちゃん!」


 そうこうしている内に国道との合流地点、「危険運転注意!」の看板が立て掛けられた場所まで来ていた。


「やべ。じゃ、またマンションの前で」


 そう言い残して右へ方向転換し、聡太は向こうへ渡るための横断歩道へと走った。振り向くと聡美がホッと胸を撫で下ろした様子だった。

 どちらも悪意ある第三者の視線には気付いていなかった。


 * * *


 帰りの会が終わり、先生は用があるからと教室を離れた。

 聡太もまたここに残る理由はない。バトロワ仲間と試合を回る約束をして、待ち合わせ場所へと向かうつもりだった。しかし——


「おい聡太ぁ。友達にばっかり構ってねえで、彼女の聡美にも構ってやれよ。ってか双子の妹を彼女にするとかヤバくね?」


 悪辣な笑みを口と三白眼に貼り付けながら、新田が聡太に絡み始めた。


「苗字が被るだけで双子ね。日本で1番兄弟が多くなるわ」

「似た名前してんだろうが。何か事情があんだろ?」

「偶々だ馬鹿。このやり取り何度目? 早く頭の検査受けろ。ってかいきなり彼女って何の」

「これに写ってんのだーれだ?」


 新田が掲げたスマホの画面には、今朝の、国道に合流したばかりの聡太と聡美が写っていた。


「お前、これ」

「天才パパラッチ新田様と呼びな。つか抜け駆けはダメだよ聡太君。ボーイッシュ美少女を独占するなんて!」

「美少女? こんなメンヘラ訳あり臭半端ないのが好きなの? 趣味わる」


 と、女子リーダー格の七瀬が横から口を出し始めた。そうなると槍玉に挙げられたふたりを、罵詈雑言が渦巻くのは時間の問題だった。


「冗談。顔が良くても面倒なのは勘弁」「こいつと付き合うとこいつのママの介護もしなくちゃだからね」「そういえばうちのママ、この前も聡美がひとりで沢山買い物してるの見たって」「俺のお袋は聡美の母ちゃん見たって。ガリガリだったって」「知らない男の人といたとも聞いてるよー」「他人事じゃないぞ聡太ぁ。本当の母親は聡美の方かもしれないから」「しれっと抜け駆けとかマジクズ」「しかも妹に手出すって近親」


 突如、木製の机に何かを叩きつけた音が室内に響いた。叩きつけられたのは、聡太の血塗られた右拳だった。


「どいつもこいつもうるせぇ! 付き合ってなんてねえし、何も知らねえよ!」


 そう叫ぶと、聡太は戸口へ走った。


「聡ちゃん!」

「まさかあの真面目な聡美さんが日直をサボる気? いけないんだぁ。先生にチクるよ?」

「——ァ」


 背後から聡美の、この世の憎悪を詰め込んだ悲鳴が聞こえる。しかし聡太は振り返ることなく、廊下を、階段を、玄関を、校庭を、裏門を駆け抜けた。


 そのまま足を止めずに坂を下り、正面の横断歩道を最低限の安全確認だけして渡る。用水路沿いに右へ走る。そして先程写真で見た場所で、勢いを落とさずに左へ。その勢いはマンションの前でより一層強まった。


 * * *


 ——馬鹿だ。馬鹿だ! 何やってんだよ俺!


 聡太は無我夢中で走り、朝に冗談を交わし始めた道路と混ざるT字路に来ていた。カーブミラーに写る自分を見て我を取り戻し、そして戻ろうかとも一瞬考えた。しかしやはり合わせる顔がないと思って、大人しく右折した。


 その道を畑が見えるところまで歩き、はたと気付く。


 やけに静かすぎる、と。


 普段ならもっと交通量が多いはずの時間帯だが、ぱったり止んでしまっている。車が停まっている家だってあるのに、物音ひとつ聞こえてこない。

 それは曲がり角で左折した先でも同じで、それどころか夕暮れの陽射しがやけに紅く感じられた。正直かなり不気味だったが、もうすぐ家に帰れるということが、聡太に辛うじて平常心を保たせていた。しかし——


「そーうちゃん! やっと追いついた」

「さ、聡美!?」


 突然背後から声がしたかと思うと、両腕を首に回すよう抱きつかれていた。驚いたためか血流が全身を波打ち始める。背に濡れた感触を覚えながら、聡太は振り返ろうとするが


「ダーメ。合わせる顔あるの?」


 そう言われるとできないのだった。かける言葉も見つけられない。聡美は返事を待たずに続ける。左手首を彼の顔の前に上げ、シュシュをめくりながら。


「ッ!」

「驚いた? 実はリスカしてたの。この傷をシュシュで隠すと、聡ちゃんに守られる気がしたから。でも実際は守ってくれなかったね」

「聡美……」

「正直聡ちゃんも酷いこと沢山言われてたから、仕方ないとも思った。そういう目に遭わせたくなかった訳だから、むしろ私が何とかしなきゃとも。それで結局すぐ追いかけたよ。なのに、それなのに……聡ちゃんいなかった……酷いよ」


 耳に吹きかけられる声に、背に感じる体温に、最早温度などなかった。あるものといえば、背後で液体が滴り落ちる音。そして、たった今左肩に落ちたナニカ。恐る恐る、左へ視線を移すと——


 聡美の「眼」と目が合った。


「ねえ聡ちゃん」


 心臓の音がやけに煩い。


「今度こそ」


 かと思えば静かになって


「一緒にカエロウ?」


 振り向けたと思った矢先、眼前に血で汚れた車が迫っていた。フロントガラスが鏡のように反射し、そこに写っていたのは聡太だけだった。

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