べとべとさん

鐘ノ星小夜

第1話

 夜間や小雨の日に後ろからつけてくる妖怪。

 振り返っても姿はなく、ベトベト、ペトペトという足音だけがいつまでもついてくる。

 無害だが、足音がどうしても気になるなら、足を止めて道の脇に寄り『べとべとさん、先へお越し』と唱えると、足音だけが先に行ってしまうと言われている。


「で、それがなんなの?」

 今年の春、中学一年生になった村島絢子はそう答えた。

「最近、この辺で出没するらしいよ。ネットで読んだの」

 クラスメイトの恵比寿萠はささやくように続けた。

 絢子は頭痛がした。どうして同小から一緒に進学した唯一の相手が、この救いようのない妖怪マニアなんだろう。

 学区の偏りとか、そもそも私立中学への受験に失敗したとかあるのだが、それにしてもあんまりだろうと絢子は失望を深くした。

「いちいちくだらないことで話しかけないでよ」

 会話を続けるのを拒否するような強さで言い切ると、絢子は下校した。

 萠が悪い子じゃないのは知ってる。ちょっとズレててトロいけど、やさしくて大人しい子だ。わけのわからない妖怪の話も、絢子に親切のつもりで教えてくれたのだろう。

 本意では無かった公立中学の、不安以上のすさみっぷりに、せめて同小の知り合いと仲良くなりたかった気持ちはわかる。絢子も同じ気持ちだからだ。

 でも絢子もまた、同じ不安にいらだつ自分を抑えられなかった。萠を傷つけたいわけじゃない。嫌われたいわけでもない。でも自分と違いすぎるタイプの萠を受け入れる余裕も、合わせる器用さもなかった。絢子もまた、険が強く友達を作りにくいタイプだった。

 そういう自分の弱さがなによりも絢子をいらだたせた。

 家について玄関に入り、後ろ手にドアを閉める。そうしてやっと、絢子は息がつけた。

 新しい学校でうまくやっていけるだろうか。いじめられたり目をつけられたりしないだろうか。今日学校で、変に見られるようなことを言わなかっただろうか。登下校中に、噂されるようなことをやらなかっただろうか。

 学校のほとんどが知らない相手で、なにが笑われてなにがおかしいのか全然わからなかった。不安に思えばなにもかもが怪しく見えて落ち着かなかった。

 小学校では考えもしなかったような心配で、この一ヶ月ずっと落ち着けるような時間が無かった。

「あやこー? 帰ったの? 学校には慣れた? 新しい友達はできた? あんた性格キツいから……」

 台所から姿も見せない、間延びした母親の声が聞こえる。もう何十回、何百回言われたかわからない。母にとってはおかえりの代わりのようなものだ。母も絢子を心配して聞かずにはいられないのだ。それはわかっている。わかってはいるのだが、絢子は耐えられなかった。

「もう! そういうことは言わないでって言ってるじゃないっ!」

 怒鳴るように言い捨てて、二階の自分の部屋へと駆け上がる。

 一番苦しいのは自分だ。変に媚びればそこからたかられたりパシリ扱いを受けるかもしれない。なめられないように、それでいて敵を作らないようにするのは大変だ。言い訳や、愚痴りたいことはいくらでもあった。

 でも母を安心させられるような返事が出来ない、自分のふがいなさが悔しくて一番きつかった。もう中学生なのに。

 部屋に戻ると崩れ落ちるようにしゃがみこむ。春先でまだ肌寒いのに全身に冷たい汗が浮かんだ。胸の中心が重く痛んだ。吐き気はするけど口の中に酸っぱい味がするだけでなにも出なかった。

 わけもなく涙があふれ出す。ひんやりとした悲しさに包まれて体が起こせなかった。泣き声を聞かれてこれ以上心配されないように、タオルを押し当ててなんとか声だけ押し殺す。

 しっかりしなきゃ。もっとしっかりしなきゃ。もう中学生なんだから。もう中学生なのに。なんで、なんで自分はこんなに弱いんだろう。

 受験失敗したことを咎められたことは無かった。口が重い父でさえも、ときおり不器用に中学の様子を気遣ってくる。

 絢子は自分に似て口下手な父の気持はわかった。自分に似て小心な母の心配もわかる。でも、でも周りを安心させる余裕がないことにいら立つ自分が、荒れて爆発するのを抑えられなかった。

 明日、萠と仲直りしよう。今日のひどい態度を謝って、友達になろう。

 萠はちょっと気持ち悪いけど悪い子じゃない。そのことはよくわかっている。すくなくても中学で初めて会った得体の知れないクラスメイトよりは。

 そうすれば両親も少しは安心してくれる。

 そう考えるとちょっと落ち着いて、絢子は普通に夕飯を過ごし、入浴して、眠ることができた。

 翌日登校すると、萠はずっと話しかけたそうにしていた。でも、絢子は時間が途切れることで、うまく謝れなくなるのを恐れて、それは無視した。萠はとろくて話が長いのだ。絢子も、人当たりを良くするのを長く続けられる性格ではない。

 終業のチャイムを待って、絢子は萠の席の近くに行った。

「恵比寿さん。今日は一緒に帰らない?」

「えっ? あ、あっ、うんっ!」

 無防備に顔をほころばせて萠は承諾した。

 校舎を離れて他の生徒が見えなくなってから、絢子は口を開いた。

「昨日はひどい態度をとってごめんなさい。あたし、あんまり人づきあい得意じゃないし、それに新しい中学に慣れなくてイライラしてたの」

「絢子ちゃんもそうだったんだあ。私もそうなの。私こそ、急に変なこと言ってごめんねえ」

 いきなり名前呼びなんて馴れ馴れしい。ちょっとムッとしたが、いまはその馴れ馴れしさがありがたかった。できれば、和解から友達になるまで今日で済ませたかった。そうすれば両親を安心させられる。

 萠は、ホッとしたのかいろいろと話しだした。中学の新しいクラスメイトは、みんな不良っぽくて近寄りがたいこと。この間話しかけられて、びっくりして逃げ出してしまったこと。でもさびしいから、せめて小学校で一緒だった絢子と知り合いになりたかったこと。

 でも接点がなかったから、萠としては面白いと思う話題を唐突に振ってしまったこと。

「ふつうは天気とか趣味の話からだよねえ」

「いや、それもどうだろう」

 思わず素で答えてしまったが、萠は気に留めずニコニコとしている。

「よかったら、明日からも一緒に帰ってねえ」

 萠は屈託なくそう頼んでくる。自分が望んでいたことを向こうが言ってくれた。改めて友達宣言するのも不自然だろう。

 萠が他のクラスメイトに『どう絡まれたか』によっては、巻き込まれないようにどう距離を取ろうか計算している自分と違って、萠は警戒するそぶりもない。そういう意味でもトロいのは知っていたが、他人へのガードが固い絢子にはやはり合わないように思えた。

 うっすらと自己嫌悪を感じ、萠に嫌われないようにしていることに疲れはじめた。

 帰り道も半ばになったとき、絢子は体育着を忘れてしまったのに気づいた。

「教室に置き忘れたかな」

「じゃあ戻ろうかあ」

「……いやもう大分来ちゃったし、別にいいよ」

「いいじゃない、もう友達なんだし」

 またズシンと胸が重くなる。萠の優しさに、自分はふさわしくない。逃げるように踵を返して、言い捨てた。

「ついてこないで!」

 がっかりしてるだろう萠の顔を見る勇気は無かった。でもこれ以上恩を感じたら、つきあうのもしんどくなってしまう。

 したら学校でまた一人だ。それは怖い。自分ながらひどい言い回しだと思いながらも、優しい萠なら許してくれるだろうという気持ちもあった。

 そう、萠ならきっと謝れば許してくれる。そう信じたかった。

 校舎から出ると雨の降った跡があった。教室で体育袋を取っている最中、通り雨があったようだ。濡れているアスファルトは、夜を映してるように黒く見えた。

 湿った地面を渡る風は、季節に不似合な程肌寒い。通り雨を避けたか人通りも少なくなっていた。

 通い慣れている通学路でも、人気の無さとうすら寒さ、肌をなでるゆっくりとした風になんだか気味悪くなってきた。

 自分の足音ですら粘りの重いものに変わる。

 ――ベトベト、ペトペト。

 自分の足音に合わせた音がずれて二つに聞こえ、思わず振り返る。

 しかしそこに人の姿は無い。気持ち悪くなって足を速める。

 ――ベトベトベトベト、ペトペトペト。

 早足になると足音のズレはハッキリしたものになり、自分を追うように急ぎ始める。

 だが何度振り返っても人の姿は無い。

「萠? あんたついて来てんの!?」

 返事は無い。自分の声の余韻が響き渡って、より孤独を感じる。あと数分の家路の距離がやけに長く感じた。

 萠のことを考えたせいか、聞かされた妖怪の話を思い出した。

 ――振り返っても姿はなく、足音だけがいつまでもついてくる。

 確か、追い払い方もなんか言ってたはず。

 ――無害だが、足音が気になるなら、道の脇に寄り『べとべとさん、先へお越し』と唱えると行ってしまう。

 絢子は妖怪なんか信じてないが、どうせ人目もない。家までついてきたらどうしようという不安と、一人である心細さが、おまじないを決行させた。

 車を避けるように道の脇へより、呪文を思い出してつぶやいた。

「べとべとさん、先へおこ――っ!」

 不意に大きな手で口をふさがれた。

 ギョッとして後ろを向くと、大学生くらいの男が背後から抱え込むように抱きついてきた。片手は胸の下へ回しもう片手は絢子の口を押さえていた。一軒家の間の、路地へ引きずり込もうとする。

「ムムッ――」

 悲鳴を上げようとしたが口を強く圧迫されて声が出ない。息をするのも苦しく鼻から吸う息に混ざる男のにおいが脂臭くて気分が悪くなる。

「へへっ、うまく行くもんだな。あんな書き込みに騙されるバカな女が結構いるなんて」

 男の言葉に絢子はいろいろ理解した。萠が見たネットの情報は、この変質者がターゲットを襲いやすくする罠なのだと。

 普段なら信じない与太話を真に受けた自分の間抜けさと、そんなことを知らせた萠への恨み、これからなにをされるかの恐怖と嫌悪で頭がぐらぐらした。

 そのとたん怒鳴り声とともに絢子は突き飛ばされた。

「オマエジャナイ! オレガサキダ!」

 唸り声とも咆哮ともつかないいびつな声。道路に投げ出され四つん這いになるほどの衝撃。

 そして、道の真ん中に転がる先程の変質者。

 その顔は、唸り声が聞こえる中空を見つめうろたえている。

「な、なんだ?」

「オレダ! オレノミチダ! オレガユズラレタンダ! オマエジャナイ! オマエジャナイ!」

 怒鳴り声のたびに、変質者の体が弾み、ミルクの王冠のような水しぶきが飛ぶ。

 十数度怒鳴り声とバウンドが続き、変質者がぐったりとして、騒ぎを聞きつけた近所の人が駆けつけてきた。

「あら、絢子ちゃんじゃない? どうしたの?」

「ち、ちかんが……」

 変質者を指してたどたどしくそう言うと、顔見知りのおばさんが察したらしく、警察には後で連絡してあげるから早く家に逃げなと引き受けてくれた。

 家に着くと母親が出迎えてくれて、汚れた服を脱いでシャワーを浴びてる間に、電話があって事情を把握したようだ。

 その夜警察も来て、いろいろ細々とした手続きの説明を受けた。そのときの様子を詳しく聞かれたが、絢子も混乱してうまく説明できなかった。

 謎の怒鳴り声とその後見たものについてはなにも言わなかった。とても信じてもらえるとは思えなかったし、自分も幻覚を見たのかと信じられなかったからだ。

 翌日、学校は事件の話題でいっぱいだった。幸い被害者が絢子であったことは知られてないようだ。ただ、近所の萠だけは違ったようだ。

 帰り道、二人っきりになると萠が話しかけてきた。

「……ごめんね。私が変なこと言わなかったら、事件に巻き込まれなかったのに」

 そう思わないこともなかったし、恨まなかったわけでもないけれど、絢子は萠に別の意味で感謝していた。

「ううん。変な奴がいつまでもうろうろしてるのも怖いしさ、本当に変なこともされてないし。それに……これから言うこと、絶対に秘密にできる?」

 じっと萠を見ると、ウンと真剣にうなずいた。

「実は、本当は遭ったんだ。ベトベトさんに。それに助けられてみたいなもんだった」

「うそーっ! 会ったの? 本物に!?」

 この言い方じゃ別の疑いを持たれるとあわてた絢子は萠の口を押さえる。萠も遅れて気づいたのか、その上から自分の口を押さえた。

 絢子は、警察にも言わなかった事件の様子を伝えて、その後もしばしば遭遇していることを教えた。

 おまじないを唱えて道を譲ると、足音だけが先に追い越していく。

「どこどこ。今度連れてって」

「うーん、一緒でもいいけど、一人の方が会いやすい気がするな。他の誰かが居るとき会えたためしないし」

「そうなんだー」

「でもあたしが会ったって話は秘密ね。妖怪信じてる変な子だと思われたくないから」

「うんわかった。絶対秘密にする」

 萠は疑うこともなくニコニコしている。おまじないのお礼のつもりで教えたのだが、ここまで喜ばれるとは思わなかった。


 そして、教えてないこともあった。

 追い越していく足音がちょっと得意そうに聞こえたので、絢子は事件後に学校へ向かうことを決意できたからだ。

 知らないことはある。知っても理解できないこともある。でも、その全てが自分に敵意があって脅かすとは限らない。

 学校でそれを試してみよう。そうじゃなかったら、そのときまた考えればいい。

 そう思えたから学校に出る気になった。

 人生で、これからたくさんのよくわからない不安や心配に出会うだろうけど、きっとその全てに深刻になる必要は無いんだ。

 それを教えてくれたベトベトさんと萠に絢子は内心ひそかに感謝していた。

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べとべとさん 鐘ノ星小夜 @kanenohosi

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