もし、あと5分あったら
朝永雨
もし、あと5分あったら
♢
十二月の中旬、授業もホームルームも終わり午後四時。教室は閑散としていた。明るいとも暗いとも言えない微妙な空色を、灰色の雲がさらに覆い隠していて、何となく憂鬱な気分を呼び起こさせた。
窓からは、校舎周りを走っている運動部や、友達同士、あるいは恋人同士で帰路につく学生達の姿が見えた。窓越しに見る彼らの姿を見て少し寂しい気持ちになる自分に気づいて、視線を携帯の画面に向けた。
「ねぇ、なんでいんの?」
「え?」
話しかけられたのが少し唐突で、思わず聞き返してしまった。
「いやだから、なんでまだ教室に残ってるのって訊いてるの」
教室に残ってるのは俺と、今話しかけてきた彼女の二人だけだった。
「えっと、なんとなく……」
答えに困って中途半端な返答をしてしまう。
「そ。なんでもいいけど」
彼女は呆れたように、低い声で言った。
「お前こそ、なんでいるんだよ」
「勉強してるだけ。家だと集中できないから」
彼女の机には筆箱とノート、教科書が置いてあった。ノートと教科書が、まだ閉じているところを見ると、今から始めるところだったのかもしれない。
「そっか」と俺が言うと、再び沈黙に入った。教室の冷たい空気が徐々に身体の中に入り込み、思わず制服の袖を引っ張って手首を覆った。
「――溜息」
「え?」
またも唐突に話しかけられて、先程と同じ返事をしてしまう。傍から見たら間抜けに見えただろうと思って少し恥ずかしくなった。彼女の方を向くと、頬杖をついて俺のことをじっと見つめていた。
「窓を見てるときに一回、私が話しかける前と後で一回ずつ。さっきからなんなの。辛気臭い」
彼女の呆れたような声色は心に刺さったけど、それでも一人で寒がっているよりはいくらかマシだと思った。
「ごめん。まあちょっといろいろあってさ」
「ふーん」
彼女はどうでもよさげだったが、それでも会話を続けたのは彼女の方だった。
「彼女のこと?」
まるで心の中が見えているみたいに、彼女の眼は鋭かった。
「まあ、そんなとこかな」
その鋭さが痛くて目線を再び窓に向ける。
「喧嘩でもしたの?」
「喧嘩。うーん……。喧嘩といえば喧嘩なのかも?」
「なにそれ」
今度は彼女の方が小さく溜息をついた。
「どうせあんたが何か変なこと言ったりしたんじゃないの?」
彼女は妙にわかったような口ぶりだった。彼女とは今年度に入って初めて同じクラスになった。最初の席が隣同士だったこともあって、話すようになったのは四月からだったが、それでも特別長い付き合いではないだろうと思う。少なくとも俺の方は彼女について詳しいとは言い難かった。
「別に変なことを言ったわけじゃないと思うんだけど……」
「けど、なに?」
「昨日一緒に帰った時に、私のことほんとに好きなんですかって言われたんだよ」
彼女は目を細めて、少し嫌そうな顔をしていたけど、無言を保って続きを促しているのがわかった。
「好きだよって言ったけどなんかあんまり信じてもらえてない感じだった」
「それで今日謝ろうと、部活があるわけでもないあんたが放課後まで彼女の部活が終わるのを待ってるんだ」
彼女の言い方は少し皮肉めいて聞こえた。
「悪いな。勉強の邪魔して」
「別に」と、彼女は窓の方を向いた。
「でも、理由もわからないのに謝ったってかえって逆効果なんじゃないの」
「それはそうかもしれないけど、謝りたくて」
そ、と彼女は短く返答した。
「というか、放課後話したいってメッセージ送っちゃったし」
俺が自嘲気味に言うと、また彼女は溜息をついた。
「なんで、なんだろうな」
でも彼女に謝るとっかかりが掴めないのは事実で、そもそも謝るべきかどうかもわからないというのが本音だった。
「それ、私に訊くことじゃないでしょ」
言い返す言葉も見つからなかった。
「付き合ってから、何か月だっけ」
唐突な話題に思わず驚いてしまう。
「えっと、二か月だけど」
「それで? 何かしたの?」
彼女にしては随分直接的に訊いてくるものだと思った。彼女がそういう人でないと
いう確証があるわけではないから、単に今までそういうことを訊かれてこなかったというだけなのかもしれないけれど。
「何もしてないって。やましいことは何も」
俺がそう言うと彼女は再び溜息をついた。今までで一番大きな溜息だった気がする。
「それじゃないの? 付き合って二か月で手も繋いでないんじゃ、彼女の方だって不安にもなるでしょ」
「そう、なのかな」
勿論そういうことに興味がないわけではなかったし、手を繋げないような特別な理由があるわけでもなかった。だけど彼女が一学年下ということもあって、なんとなく気が引けていた。
「それで嫌だなって思われたら嫌っていうか……」
「それが嫌じゃないから付き合ってるんじゃないの?」
彼女の声は少し怒気が混じっているように感じた。
「手を繋ぎたいって思ってるなら繋げばいいでしょ。たぶん、嫌だなんて思われないから」
彼女はずっと窓の方を見ていた。
「お前って優しいよな」
本音だった。今日に限らず、彼女の言葉はだいたい冷たかったけれど、実際のところは優しい人柄なのだろうと思っていた。まさかクラスメートの、おそらく彼女からすればどうでもいいような相談事に真摯に乗ってくれるとは思わなかったけれど。
「別に」
今日のこの放課後で、少しは彼女のことを知れたような気分になった。気のせいかもしれないけど。
ふと、雨だ、と彼女が言った。
俺も窓を見ると丸い水滴がいくつかついていた。その数はぽつぽつと増えていって、少しもすれば窓には水が垂れた歪な縞模様が描かれていた。
「別に、私は優しくないよ」
窓の外の、どこか遠くを見つめたまま、彼女は言った。
「私は別に優しくないんだよ。いつも自分のことしか考えられてないし、他人に優しくするのも結局それの一部だよ」
「でも、俺の相談を聞いてくれただろ」
「それも、私のためかもしれない」
「そうなの?」
さあね、と彼女は笑った。見慣れない彼女の笑顔は、どこか悲しそうに見えた。
「どこが」
「え?」
「どこが好きなの?」
彼女は此方を見ることもなく、呟くように言った。
「どこ、なんだろう……」
具体的な言葉を頭の中で探してみるが、形のないものを掴むかのように上手くいかなかった。
「わからないの?」
「うん。でも好きなんだ」
そこだけは確かだった。
ふーん、と彼女はまたどうでもよさそうだった。
「じゃ、彼女にもそう言えばいいんじゃない」
「そうだね。ありがとう」
顔の向きを窓に向けたまま、彼女は横目で俺のことを見た。
「私はさ」
どことなく暗く、吐き出されたような声のせいで、その言葉は独り言のようにも聞こえた。
「私は――」
どこかひんやりとしたこの教室の雰囲気にはおおよそ似つかわしくない、ぴろん、という軽快な音が彼女の言葉を遮った。
「彼女から?」
携帯画面を見ると彼女からのメッセージが届いていた。
「うん。雨で部活早く終わったから、もう帰れるよって」
「そう、よかったじゃん」
彼女は少しだけ顔をうつむかせて、ふう、と小さく息をついた。
「行ってくれば?」
「うん、ほんとありがとう。勉強頑張れよ」
ああ、と思い出したように彼女は自分の机を見た。ノートも教科書もまだ閉じたままだった。申し訳ないことをしたかもしれないと思った。
急いで自分の荷物をまとめて教室から出る。校門のところで待ってるというメッセージは、着信が来てから直ぐに送った。
「そういえば、さっき何か言いかけてたよな?」
教室のドアを開けて出ようとしたところで、ふと思い出して尋ねてみる。
「別に。寒いから、早く閉めて」
彼女は不機嫌そうにそう言った後、ノートを開いて筆箱からシャーペンを取り出していた。
「じゃあね」
そう言ってドアを閉めて、校門へ向かった。ドアの窓からは、彼女が視線をノートに落としたまま、手を振っているのが見えた。
もし、あと5分あったら 朝永雨 @tomonaga00ame
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