君が泣く5秒前に。

棚旗夏旗

-僕は君が-


僕たちは、ただの友人だと思われる。


 思われる。なんて言ってみせても、実際ただの友人で、それ以上でもそれ以下でもない。僕と彼女の距離感は「クラスメイト」で「たまに話す」仲――それくらいだ。


「はじめましてっ。よろしくね」


五十音順で席を並べたとき、たまたま前後ろだった。それが僕と彼女の会話が始まった日。片側に結んだ茶色っぽい髪の毛と、くりくりした瞳が印象的だった。

 うちの中学には席替えという概念があまりないらしく、一年生の間は五十音順のまま授業が続いた。誰か異を唱えれば席替えも出来ただろうに、いい子ばかりだったんだろう。席替えは一度も行われずに一年が終わった。


 つまり、僕は一年間。後ろを振り返っては笑いかけてくるあの子の顔ばかり見て過ごしたのだ。

 大して取柄も特技もないし、僕は顔もそんなに良くない。話しかけてくれるだけじゃなくて、笑った顔を見せてくれる彼女が眩しかった。何がそんなに面白いのか分からなかったけれど。


「ねね、次の授業って小テストあるらしーよ? 自信ある?」


 どこからか小耳に挟んできた情報は、真っ先に僕に流れてくる。


「給食、好きなんだー。弁当と違って温かいからね」


 四つの席をくっつけて給食を食べる時も、何故かだいたい僕に話題を振ってきた。


 女友達がいなかったわけじゃない。むしろ友人関係の幅は随分広かったと思う。

 だから僕と話すのは、決まって席に腰を落ち着かせている時だけ。それ以外で僕たちが話す機会はなかった。


「セーラー服って好き?」


 いきなり、そんな質問すら投げてくることもある。

 何を言い出すんだと僕が狼狽えると、


「ふふふっ。かわいい」


 男としての尊厳を小バカにされた気がした。


 僕は小さな人間だ。ちょっとしたことで腹を立てるし、面倒なことからはすぐ逃げる。率先して物事に取り組むタイプでもなければコミュニケーション能力も高くない。友達だってそんなにいないし、今仲の良い人たちから省かれたらきっとぼっちになる。身長も心と同じくらいのものしか用意してもらえなかったのか、あんまり高い方じゃない。

 だから多分、誰かに馬鹿にされたり暴言を吐かれたりするとすぐにムカつく性格をしている。基準が分からないけど、短気なんだろう。


 でも、あの子の少しからかうような言い方に苛立ちを覚えることはなかった。

 むしろ、だんだん。話すたびに心が洗われていくような気さえしていた。いつしか僕は、あの子と話す時間をとても大切に――そう、一日の中で一番神経を注ぐくらいの気持ちで、彼女の話をしっかり聞こうと心がけていた。


 たとえば目を合わせる(すごく苦手)だとか、相手の言葉を遮らないだとか。

 そうしていくうちに少し、会話が楽しくなっていった。


「もうすぐ二年だね! おんなじクラスになれるといいね、私たち」


 社交辞令なのか、嬉しい言葉をくれる。彼女の言葉どおり、僕たちはすぐ二年生になった。

 席替えはないくせに何故かクラス替えはある。このまま同じ席のまま卒業まで進めたら幸せだったのに、とくだらないことに不満を覚えた。


 覚えたんだけど。


「やっほ! また同じだね、よろしくっ!」


 二年になっても、彼女は変わらず僕の通う教室にいた。

 今度の席は左隣。


「実はちょっと、首痛かったんだよね。これでいっぱい喋れるかなあ」


 いちいち振り向く必要がないことに喜んでいる姿を見て、ああ、今年も喋ってくれるんだ――なんて天にも昇る心地で新学期をスタートする。

 一年生のときとほとんど同じで、勉強の内容だけ難しくなった春夏秋冬が始まった。変わらないと思えたのはきっと、隣に君が居たから。


「やばーテスト勉強、微妙かも。一緒に勉強しよ?」


 しかし二年になってから、席に座った時だけ喋っていた僕たちの関係に変化が生じる。ある日突然、彼女がいきなりそんなことを言い出したのだ。

 それからは放課後、図書館で勉強する時間ができた。お互い帰宅部だったから時間はたっぷりあったし、家に帰ってゲーム三昧な日常より何百倍も有意義だ。


 まさか女の子と二人っきりで、放課後に図書館を利用する日常があるなんて。小学校の時の冴えない僕とは違うのかも、なんて思ってもみた。


「え、今もパッとしないんじゃない?」


 あんまりにも残酷だ。辛辣すぎる。

 別に好きというわけじゃないし、そんなことを言われたからって傷つかないし、そもそも君は中学で知り合ったのに僕の何を知っているっていうんだ。


「あっごめんって。ねーえーごめんって。うそうそ、パッとしないっていうかさ。かわいいなって思ってるよ」


 撤回したつもりだろうけど、かわいいは誉め言葉に聞こえないってちゃんと伝えておけばよかった。


 そして、女の子と二人きりでなにかしているという事実は、当然周りの生徒にもすぐ伝わる。中学生なんて浮いた話大好きな精神的に幼い子どもばかりなんだから、当たり前と言えば当たり前か。

 などと少し大人ぶった考え方をしようとしたのは、きっとからかわれるのが恥ずかしかったからだ。だけど彼女は、誰かに茶化されるたびにこういった。


「友達だよ。仲、いいでしょ」


 淡白に、朗らかに。可もなく不可もなく、それ以上でもそれ以下でも。

 彼女の中の「僕たち」がどういうものか、その日ではっきりと分かった。


 だから僕も心に予防線を張るみたいにして、たまに湧き上がる想いや口から飛び出そうになる言葉を必死に抑えて隠すことにした。


「ピアノ、弾けるんだ。最優秀賞はいただきだね」


 僕にはゲームくらいしか得意なものがないが、コミュニケーション能力の高い彼女はピアノまで弾けるらしい。

 合唱コンクールはクラスごとに指揮者とピアノ演奏者を選出し、他の生徒で合唱するものだった。一年の頃はまだ学校に慣れていないからと全員で歌ったが、二年からは違うようだ。


 当然、ピアノが弾ける人材がいるのなら、弾いてもらったほうが良い。だけど指揮者は誰もやりたがらなかった。

 指揮者がいない場合は演奏者もなしで、去年と同じように皆で歌うことになる。よくわからない制度だけれど、僕には関係のないことだ。


「あ」


 関係ないはずなのに、なぜか名乗り出てしまった。

 一日で十人くらいの相手としか会話しない、冴えなくて声も小さい僕。その右肩に付いているはずの腕が勝手に上がってしまって、口まで勝手に動いて僕を裏切った。


 かくして僕は皆の視線を集める指揮者をすることになる。最悪だ。やったところで恥をかくだけなのに。


「えへ、がんばろ」


 本番でもないのに緊張している僕を、彼女はいつもの笑顔で励ます。

 適当に腕を振るだけの指揮者なんかより、ピアノの方がずっとずっと大変だ。なのに彼女は余裕そうだった。


 普段の放課後も二人でいるのに、クラスの前でもそうやって共同作業みたいなことをしていると、周りからちょっかいをかけられる確率は大幅に上がる。彼女はそれでも全く動揺せず、平気そうに返す。


「だから友達だって。気の合う友達。あなたにもいるでしょ? そういうこと」


 喜んでいいのか、泣けばいいのか。悪意のない否定のような肯定のようなものを聞くたびに胸が締め付けられる。気の合う友達というのは何ら間違っていない評価だ。だって、気が合わなければここまで仲良くはならないし、恋人ならもっといろいろなことをしているはずだから。


 所詮、二年間同じクラスで近い席同士で、放課後に会話する機会があるだけの仲。

 SNS上でのやり取りもないしお互いの家も知らない。学校以外の場所で彼女に会ったこともない。


「君がケータイ持ってたら、もっと話せたのにね」


 少し残念そうに言われて、嬉しくなってしまった。

 彼女は自分のケータイを持っているけれど、僕は高校に入るまでは持たせてもらえない。子どもが持つには早すぎる、と考えを変えない親を少しだけ憎く思ってしまった。

日頃生活を支えてもらっている相手に対して抱く感情でないことは分かっている。でも、僕だってあの子とメッセージを送り合ってみたかった。電話もしてみたかった。


「だけどいいんだ。家に帰ってから君と話せないぶん、学校に来たら話すこといっぱいあるから」


 そんな言葉を受けて、どうしても頬がだらしなく緩んでしまう。彼女はいつだって、初々しい僕の心を満たしてくれる。一番欲しい言葉で。

 何故、そうまでして僕と関わってくれるのか分からない。でも、彼女は僕と“話したい”と常に思ってくれているのだけは確かだった。ならば同じ気持ちで答えようと、僕も毎日彼女に何を話そうかと常に考えて過ごした。


 一年生の頃より、会話に気を遣って。

 朝食べたもの。授業の内容。難しかった課題。帰り道で見た景色。ちらと見えたニュース。今まで一度も読まなかった新聞紙。数少ない友人の話。小さい頃の話。ゲームの話は出さない。唯一僕が幾らでも喋れる内容だけど、きっとあの子を退屈させてしまうから。


「へー。なにそれ、ふふふっ」


 面白おかしくなるように、聞いていて笑える話になるように。

 声に抑揚をつけることを意識してみたり、身振り手振りで少しでも情景が浮かべやすくなるようにしてみたり、色々。

 今までしたことないくらい、コミュニケーションを頑張った。こんなに人と話すために頭を使ったことなんてない。


 そうしているといつからか、誰と会話するときも“面倒くさい”と思ってしまうことが減っていった。


「楽しそうだね」


 美人で器量が良くて交友関係も広い彼女と話すことで、コミュニケーション能力が身についてきたのかもしれない。加えて、そんな人気者と話しているから僕自身に興味を向けてくる人も増えていった。


 友達が増えて、話す人が多くなって。学校に行くことが嘘みたいに楽しくなる。

 僕がどれだけ話す相手が増えようとも、彼女と話すときは席に着いたときと放課後だけだった。


「話しかけなくても、座ったら話せるし、放課後も来てくれるからさ。これでいーの」


 僕に友達がたくさんできたことをまるで自分のことのように喜んでくれた。

 彼女を中心に交流の幅が広がった僕の学校生活は、そうこうしているうちに最後の年へと移って行く。


 三年。


 きっと、この年もすぐに終わる。

 彼女とは別のクラスになった。あれだけ毎日飽きもせず話していたというのに、クラスが変わった途端に僕たちの関わりは消失してしまった。


 日々が色褪せ始める。

 自分はこんなにも、人と話さない人間だったのかと思い知らされた。


 放課後に図書館へ行ってもあの子は居ない。

 たまに廊下ですれ違って、声をかけようとしてみるけど、言葉が返ってくるような気がしていつもやめてしまう。


「えー、なにそれ。ホント? 面白いね」


 内容なんて分からない会話の中、毎日のように聞いていた声が稀に鼓膜を揺らす。話しかけに来てくれないことと、ほかの人と楽しそうに話していることに僕の心はズキズキと痛んだ。


 あれだけ楽しそうにしていた生活の中に、僕が居なくても大丈夫だと言われた気がして。


 変に落ち込むことはなかった。学校で陰鬱な様子をみせたら、きっとあの子は落胆して本当に話しかけてくれなくなってしまう。そんな予感がした。

 入学当初と比較して圧倒的に増えた友達と、表面上は楽しく、どこか満たされない日々を送り続けて半年。ぽっかりと胸に穴が空いたまま、僕はついに進路を決めなければならない時期に踏み入っていた。


 進路。


 進路。


 あの子にばかり夢中で、全く一度もそんなことを考えてもみなかった。これからもずっと楽しく話し続けられるのだとばかり思っていたから。

 だけど現実は違う。半年も経てば分かる――僕は多分、あの子に嫌われてしまった。そうでなければ半年間、一度も話さないなんてことあり得ない。


 だからもう、半分以上諦めていて、期待なんてしてなくて。

 親が転勤するという突然、見計らったように湧いて出た話にも一切反対しなかった。

 引っ越すから学校もずっと遠いところになる。学校で充実した生活を送っていたのがバレていたのか、親はすんなりと了承する僕をびっくりするくらい心配した。


 良い。

 十分、楽しかった。これだけ人と話せるようになったんだから、どこに行っても上手くやっていけると思う。


 根拠のない自信は、決して胸を張れるものではない。虚栄心。本当は寂しくて仕方がないけど、女の子に向かってそんなことをいうやつは多分情けないやつだ。

 どうして話しかけてくれなくなったのか、くらい聞けばよかっただろうか。無理やりにでも引き留めて、少し怒ってみせてもよかっただろうか。


 悶々と考えながら受験勉強をしていると、三年生というラベルもあと数か月で剥がれ落ちる頃になってしまった。

 受験に問題はない。そこまで難しいものでもなさそうだし、成績も悪くない。

 頭の中は完全に次の生活のことばかり考えるようになっていた――というのに。


 ある日突然、あまりにもくだらない、要らない情報がやってきた。


『交際』

『先輩』

『卒業』

『隠蔽』


 なんというか、笑うしかなかった。

 あの子の話だ。ほとんど丸一年間、僕と彼女が喋っていなかったのを心配したのか、友人がしびれを切らして僕にその情報を伝えてしまった。


 聞いたうえで理解するのに一時間以上かかった。

彼女には一年の頃から交際している先輩がいたという。一つ上の先輩で、後輩のほとんどがあんまり顔を覚えていないくらいパッとしない人だったらしい。その先輩が卒業するまでの二年間――交際関係を周知されたくないから、適当にめんどくさくなさそうな男と仲良くしておけ、と指示されていた、ということ。


 馬鹿だ。


 ばかだ。


 馬鹿だ。


 つまるところ僕は、僕が心を揺さぶられ続けた二年間は――本来の交際関係を隠すためのカモフラージュに利用されていたということだ。

 馬鹿馬鹿しい。人の純情を弄んだやつも、それを指示するやつも。何よりも、理由もなく好かれていたことに疑問を持たず浮かれていた馬鹿が一番馬鹿だ。


 全てが一瞬だけ憎くなって、次にはすべてがどうでもよくなった。

 寧ろせいせいした。最後の一年はもやもやこそしていたけれど、それでも有意義に過ごすことが出来たのだから。三年間を棒に振ったわけではない。

新たな生活への抵抗も虚しさが払ってくれた。結果的に見ればそんなに悪いことでもないはず。


 だから考えるのをやめて、僕は残りの数か月をただひたすらに楽しんだ。


 そしてそのまま、受験当日がやってきて、合格発表が行われて。無事に受かったから家族や親戚に祝ってもらえた。祝いのお金だってもらえた。早く彼女つくれとか少しうるさかったけど。

 クラスの友人たちにも、遠い所へ行くことを伝えきった。中には泣き出すヤツまでいて、なんて良いところで過ごせたんだろうとこっちまで泣きそうになる。ケータイを持っていないのが本当に惜しいくらいだ。


 ――卒業式。


 泣いて笑って、歌って喋って肩を組んで。三年間、あっという間だったなと振り返る。一、二年時の体育祭も文化祭も記憶にあまり残っていないのは、やっぱり日常生活の方が楽しかったからなんだろうか。

 多分そうだ。三年時のイベントはすごく楽しかったと記憶している。少しもったいないことをしたかもしれない。


 式が終わって、最後のホームルームも終わって、卒業アルバムの一番後ろにメッセージを書き合うだとか写真を撮り合うだとか、色々して時間が過ぎる。

 楽しい時間はすぐに終わる――気が付けば、僕は意味もなく皆が還った後の教室に一人だった。

 両親は先に帰っている。夜までには帰るとだけ伝え、本当に何もせずに夕方になってしまった。


 こんなことをして何の意味が――何の意味もない。


 何かを待ちたかったのかもしれないけど、待っても何も来なかった。

 もういい、帰ろう。今日は御馳走だ――そう思って振り返ると。


「……。……やっほ」


 ばつが悪そうに、扉の向こうからひょっこりと顔だけのぞかせたあの子がいた。

 相変わらず綺麗な髪や瞳や肌と、優しい声。だけど僕はそれを見ても何も感じない。


「怒ってる……よね。そりゃあ、そうだ」


 話が僕に伝わっているのは、彼女も認知しているらしい。


「うん、ホントは自分から言いに行きたかったんだけど……ごめんね。……ごめんね、本当に」


 何を謝っているのか分からない。別に、許されないことをしたわけじゃないだろう。

 ただちょっと、皆馬鹿だっただけで。勝手に騙された気になっていた僕のせいだ。


「優しいね、もっと怒っても良いんだよ……?」


 怒ったところでどうにもならない。

 別に失恋したとかじゃない。そもそも恋なんて始まっていなかった。


「……先輩、幼稚園からの幼馴染でさ。ここに入る前に告白されて、恋愛ってなんなのか分かんないままオッケーしちゃって」


 いきなり語り始める。今更何を聞かされるんだろう。

 室内に入ってきた彼女は、淡々と進めた。


「なんか、男の子って彼女いるといじられやすかったんだって。恥ずかしいから二人だけの秘密にしてほしい、って言われた。真面目な顔で言うからさ、守ったよ。約束だし」


 約束。

 随分と面倒くさい約束だ。


「ね、めんどうだよね。知ってる。おまけに違う男と適度に仲良くして隠せって……変だよね、分かってたよ。でも、断り方を知らなかったの」


 彼女が言うには、付き合っていた相手はだいぶ難のある性格をしていたという。

 思い通りにいかないとキレ散らかすし、たまに強めに叩いてくる。最低野郎だし、なんでそんな奴の言いなりになっていたのか――と聞けば、家が隣同士で、お互いの両親に変な心配を掛けたくなかったとか。


「―――。で……二年の終わりくらいにね、ヤりたいって言われたんだけど」


 僕の知らない世界が展開されてしまった。

 帰りたい。


「あっ、まって、待って! ……そういうの、すごく好きな人とするものだし……二年間話してたけど、その人のこと好きじゃないんだなって分かって、思い切って振っちゃった」


 ギリギリ僕の知っている世界に戻ってきた。

 それでも、早く帰りたい。


「そしたらなんか、ストーカーされ始めちゃって……仲良くしてた男子のこと好きになったからだろ、とか。あいつのせいか、とか。それで話せなくなっちゃった、君と。ずっと」


 ――。


「ごめんね、ずっとずっと、何にも言えなくて。だけどちょっと前に、その人にちゃんと言ったから、もうやめて、って。約束もしてくれたし、だから――」


 ――そろそろ帰ってもいいだろうか。


 僕は教室から出ようとする。


「……一つだけ、今日は……聞いてほしくて。あの、あのね。君と話し始めたときは……友達少なそうとか、ある程度仲良くなっても変な気起こさないだろうなとか、色々勝手に、思っちゃって……だ、だから」


 珍しく言葉に詰まっているらしい。この三年間で一度も見たことのない表情に、少しだけ心が痛んだ。彼女はいつだって笑顔で、楽しそうで、明るくて――奥底で何を考えているのか見えない人だったから。


「だからね、あの……。言っても、いいかな」


 何を、とは返さずに無言で待った。

 一分くらい経っただろうか、ついに沈黙に耐え切れなくなったみたいで、彼女は口を開く。


「……君が、好きです」


 ……。


「ちょっとしたことでも笑ってくれて、すっごく真面目に相槌も打ってくれて、話すとき、目を合わせようって意識してくれてたんだよね。君と話している間は、この人はこの時間を大切にしてくれてるんだなって思ったの。ホントは……本当は、途中から君に気持ちが向いてるんだなってことも、気づいてた」


 ……。


「放課後、勉強に誘ったのもそう。もっと話したいなって……でも、あんまりいっぱい喋ると怒られちゃうから……二年のはじめに交渉したんだ。そのくらい仲の良い男子が一人いてもおかしくないよって――あ、えっと。何の話だったっけ」


 何の話かなんて、こっちが聞きたい。


「ごめんごめん。えっと、だから……」


 彼女はたどたどしく繋いできた言葉に終止符を打つため、ひと呼吸おいてから真っ直ぐ僕を見た。

 いつも僕たちが話すとき、目を合わせていたように。


「――好き。もっと一緒に居たい。今年もずっと、君のことばっかり考えてた。これからはまた、一緒に居てくれませんか」


 最後まで聞き終えてから僕は自分の唇を噛みしめた。

 願ってもない言葉だ。一年以上前の僕が聞けば喜んで受け入れただろうし、ちょっと勇気を振り絞ってその場で抱きしめてやることだってできた。

僕はついに、ついに。女の子から。意中の相手から告白されたんだ。


 なのに、唇が痛い。


「……ど、どうした……の?」


 困ったような表情で覗き込んでくる顔もまた可愛い。今ならそっと両腕を回しても罰は当たらない。あの笑顔が一層特別なものにだってなる。受け入れれば、人生は豊かになる。


 だけどできない。もう全てが遅いんだよ。

 全部、もっと早く言ってほしかった。


「――え?」


 それから僕は、今まで溜まっていた鬱憤を晴らすかの如く全てを彼女にぶちまけた。


 全て、なんて言っても伝えることは単純だけど。

 今更好意を寄せてくれることは別に良い。むしろ嬉しい。でも、受け入れられないんだ。もう卒業式なんだぞ、進路だって決まってるし一か月後に僕はこの街には居ない。

 今から高校を変更するなんてできるものか。受験して合格して祝われて卒業式も終わって、本当にどれだけ今更なのか分かってない。


「……知らなかった。遠くに、行っちゃうんだ」


 そうだ。

 好きですと言われてよろしくお願いしますなんて軽々しく言えないくらい遠い場所に行く。


「……誰も教えてくれなかったな」


 僕が言うなって言ったんだ。

 だってきっと、僕の情報なんてどうでもいいだろうと思っていたから。


 あーあ、本当に馬鹿馬鹿しい。


「ずっと話しかける勇気がなくて、元カレも怖かったし、えっと、えっと……ううん、関係ないよね、君には」


 今しがた振られたばかりだというのに、彼女は平気そうに笑いかけてくる。そういうところは変わってないんだな、と呑気なことを考えた。


「ありがとね、ずっと、今まで。元気でね」


 最後に聞いた言葉。僕は居心地の悪さに耐え切れなくなってその場を後にした。

 教室、廊下、昇降口、校門、帰り道。そそくさと、逃げるように去る。悪いことをしたわけでもないのに。

 家はそれほど遠くないので、十五分くらいで到着した。普段の倍速いタイムに自分でもびっくりして、同時に若干息切れしていることを自覚する。


 家の前。

 遅れたけど、これから晩御飯を作ってもらう。忘れかけていたけれど今日は卒業式だったんだ。きっと豪勢な料理が並ぶんだろう。楽しみだ。

 だけど、マンションの入り口でしばらくぼうっと立ちっぱなしだった僕は、心がすごくもやもやしていることに気付いてしまっていた。


 ――このまま帰っていいのか?


 帰れば、中学生活は終わる。教室に意味もなく居座り続けたのは、どこかでもったいなさと断ち切れない思いを抱いていたから。

 最後の最後に会えたのに、話せたのに――あんな別れ方でいいんだろうか。もう二度と会えないかもしれないのに。


 でも、もう家まで来てしまった。彼女も帰っただろう。

 そこまで落ち込んでいる様子もなかった。心配する必要もない。

 仮に心配したとして、女の子が悲しそうにしているところに掛ける言葉なんて知らないんだ。いくら友達が増えても経験のないことにすぐ対応できるわけがないだろう。


 僕は所詮、誰かの人気を借りて人の輪を広げただけの会話下手。ゲームくらいしか得意じゃない、ただの一般人。一瞬でも女の子に告白されるという夢を見られて、それだけでも儲けものだったと思うべきだ。



 ――思っておけばいいものを、いつの間にか僕の足は来た道を引き返していた。



 今までと比べ物にならないくらい速く百メートル走でもやってるのかってくらい全力で疾走する。多分、十分も掛からずに到着すると思う。

 卒業式で貰った黒い筒を片手に持ったまま走る。なんて不格好だ。

 制服も汗で蒸れている。今日を最後に二度と着ないだろうけれど、すごく気持ちが悪かった。


 その一切を思考から切り捨てて走って、走って、走った。


「――、ぁ」


 夕日が差し込む午後17時。せっかちな春風と一雨降る前の独特な匂いと、かすかな虫のさざめきとがせめぎ合っている。

 黄金に照らされる机と椅子と、豪華に彩られた黒板と、さっきと同じ場所に立ったままの女の子。二十分以上経つのに教室はさっきのままで、変わったことと言えば僕が汗だくで髪もぐちゃぐちゃになっていることくらい。


「……忘れ物?」


 にこりと微笑む顔を見る。最後の一年間話せなかった分も、穴が空くくらいの眼力で見る。相手からすればちょっと気持ち悪いかもしれないけど、そのくらい真剣に見つめた。

 整った顔、でも大人から見ればまだまだ子どもなんだろう。手入れの行き届いた髪、綺麗だ。近づくだけで良い匂いがする、僕は変態かもしれない。セーラー服がよく似合う、これで見納めだと思うと辛い。細い足や袖から覗いた手指、いつも爪が綺麗だと思っていた。僕と同じ卒業の証を持っている、おめでとうって誰よりも早く言いたかった。夕日に照らされてちょっと赤っぽくなる頬、ああ――




「僕も、好きだ! ――君が!」




 言うだけ。

 汗まみれで息を切らして。窓も全開だし多分誰かに聞かれた。恥ずかしすぎる。どこからそんな大声が出るんだ。無駄にうるさいし、暑苦しいというより汗のせいで湿っぽいし、爽やかさのかけらもない。ダサすぎる。


 でも言った。


 ずっと、言えなかったものを吐き出した。


「……そう、なんだ」


 一瞬ぽかんとしていた彼女も、すぐにくすくすと花が咲くみたいに笑ってみせる。


「うん、好き。同じで良かった」


 相変わらず余裕そうに返して、次の瞬間――彼女の瞳から涙がぽろりと零れ始めた。


「うん、うん――よかった……よかったぁ……っ」


 ああ、もう。

 だから人と話すのは嫌いだったんだ。

 何考えてるか分かんないし、めんどくさいし、泣きそうだし。


 それから彼女は、数えるとだいたい五秒くらいしてからぼろぼろに泣き始める。何も傷つけるような発言はしていないけれど、多分僕が何か言わなくても泣いていたんだと思う。僕が去ってからの時間、ずっと溜め込んでいたものがついに決壊してしまったんだ。


 君が泣く前に、言えてよかった。

 今はただ、それだけを想った。



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君が泣く5秒前に。 棚旗夏旗 @chocochoose00

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