ラストスパートの続きをともに
粟生真泥
ラストスパート
――残り1キロ。
コース脇に立てられた看板を横目に走り抜けていく。20キロのロードレースも佳境を迎えていた。いつもならゴール目前は気分が高まり、ラストスパートをかけるところだが、今はペースを維持する。
大学受験が迫った12月下旬、訛り切った体ではペースを上げるどころか、ここまでの1キロ5分半くらいのゆっくりとしたペースを維持するだけでも精いっぱいだった。
高校に入学して初めて陸上部に入部し、長距離ランナーとして練習してきた。中学までは文化部で体育の授業以外では運動とは無縁だったけど、三年生になる頃には各種目三人の枠に入り、学校代表として大会に出場できるようになった。そして、この夏の高校総体の県予選では決勝までは進めたものの、入賞はかなわず、それが高校現役ラストレースとなった。それからは受験体制となり、時々気分転換にジョギングくらいはしているものの、毎日走り込んでいた頃のコンディションには遠く及ばない。
「大丈夫、佐々くん?」
「なんとか、ね」
気分が上がらない原因は体の衰えを感じているからだけではなく、隣を走る古荘さんの存在もあった。気づかわしに掛けられた声に、残り少ない気力を振るって笑みを浮かべて見せる。
このロードレースは部活の行事というわけではなく、古荘さんから個人的に誘われたものだった。この古荘さん、我らが陸上部の女子エースであり、県大会から南九州大会も突破してインターハイに出場していて、その後、大学受験も早々に東京の大学の推薦を決めるという文武両道とか才色兼備がお似合いの人物だった。推薦が決まった後は普段通り練習をしており、今だって余裕な感じで隣を走っている。
そんな憧れの子から「よかったら気晴らしに」とお誘いをいただいたからには、勉強の状況はあまりよろしくないのだが、参加しないという選択肢はなかった。このロードレースはタイムや順位を競うものではなく、ファンランと呼ばれるものだったので、あまりペースは気にせず近況報告などをしながら走ってきた。
――せっかくのお誘いだったので、ちょっとした期待がないわけではなかったが、さすがにそれは夢を見すぎていたのかもしれない。
それでも、ひたすら勉強漬けの日々において、癒し効果は計り知れず、もうしばらく続いてほしかった。体力的にはしんどくなってきているのだけど。
「勉強は順調?」
「……ラストスパートで一気に巻き上げる予定です」
順調ではないことを前向きに表現してみる。古荘さんにはどういうことかすぐにわかったようで、少し表情に困りったような笑みを浮かべた。
「佐々くんのラストスパートだったら、心配いらないね」
「古荘さんにそう言ってもらえると、頑張れる気がする」
「佐々くんの頑張りは部活で証明済みだからね」
古荘さんからそう言われると、そこはかとなくこそばゆかった。今でこそ、県大会の決勝には出場できるようになったが、中学まで対して運動をしてこなかった人間が陸上部に入部した当初から練習についていけるはずはなく。1年生の夏ごろまでは練習のたびにフラフラになり、げえげえ吐きながら走っていた。どうにかまともに練習についていけるようになるまでには有部から半年間程経った秋頃だった。
「まさか自分が陸上部に入るとは、って感じだったけどね」
中学の部活を含めこれと言って入りたい部活もなく、しばらく様子を見てから決めようと思っていたところ、同じクラスだった古荘さんに勧誘されたのがきっかけだった。「すごく向いてると思う」との古荘さんの誘い文句をあっさり信じて入部したのだが、実は一年生には勧誘ノルマがあり、俺を誘ったのはクラスの中でまだ部活に入っておらず、なおかつ話しかけやすそうだったからとのことだった。
見学に連れてきた時点でノルマ達成であり――そうじゃないと終わらないだろうし――俺が入部する必要はなかったのだが、向いてるという言葉を信じてそのまま入部した。浅はかだったかもしれないが、この三年間のことを思い出すと後悔はしていない。。
「そんな佐々くんを見出した私の目を信じなさい」
茶目っ気を見せつつ古荘さんが胸を張る。見出した、と言ってるけど俺が入部してしまうとは思っていなかったようで、練習のたびに生ける屍となる俺に罪悪感すら覚えていた、ということは練習についていけるようになり、何となく遠い存在だった古荘さんが身近になってきた頃に聞いた。もっとも、それ以降も練習後に力尽きてぶっ倒れることは少なくなかったから、ずっと心配をかけているのかもしれないけど。
「……ねえ、佐々くんはどうして、東京の大学を目指すことにしたの?」
突然の話題の転換に、少しだけぎくりとしつつ横目で古荘さんの様子を窺うと、古荘さんはこちらを見ず、前を見たまま言葉を紡ぐ。
「部活を引退した頃は、志望は九州の公立大学のどこかって感じだったよね。でも、この前、藤村先生から佐々くんが東京の私立大学に志望を変えたって聞いたよ」
あの先生――担任なのだが――生徒の個人情報をペラペラと。まあ、3年生でも1年ぶりに同じクラスとなり、教室でもよく話していた古荘さんは俺の志望変更も知っていると思ったのだろうけど。
元々大学の志望といっても、センター試験を利用した方が合格率が高そうだったから公立を志望していただけで、特別行きたい大学があるというわけではなかった。九州というのも、地元からあまり離れるのもなというくらいの理由であった。
そんな志望を変えた理由は、部活を引退してから勉強に取り組む中で不意に思い出す風景だった。
授業後の夕暮れのグラウンド、パート毎に各々の練習をする部員、そして、女子長距離の先頭を引っ張る古荘さんの姿――もうそんな光景を見ることはないんだということに気づいたとき、思いがけないほど胸を締め付けられた。その衝動は自分でも意外なほど激しく、そのまま放置できる類のものではなかった。
「俺がここまで頑張ってこられたのは古荘さんのおかげだから……だから、もう少しだけでもこうやって同じところで走ることができたらって、思ったからかな」
そうして志望校を東京の大学――直球では古荘さんと同じ大学――に変えたことは、古荘さんに伝えていなかった。伝えたときにどんな反応をされるかと想像すると、なかなかタイミングを見出せず、そうこうしているうちにこんな時期になっていた。
「隠すつもりはなかったんだけどさ。でも、本当に受けられるほど成績が伸びるかもわからなかったし……それに、古荘さんはどう思うのかな、って」
きっと拒絶までされることはない、と信じてみても、もし戸惑ったり困ったような表情をされてしまったらそこから先変わらず受験勉強に励める自信はなかった。
だから、こんな思いもよらないタイミングでのカミングアウトに、ただでさえ上昇している心拍数が更にバクバクと鼓動を早める。緊張しながら隣を走る古荘さんの顔を見ると、古荘さんは変わらず前を向いていてその表情を読み取ることはできなかった。
「佐々くん」
「……うん」
「せっかくだし、景気づけにスパートしよう!」
「……えっ?」
それは確認ではなく確定事項だったようで、俺の声に返事することなく古荘さんはペースをあげた。スピードは加減はされているようだけど、訛った体を騙し騙しここまで走ってきた身としてはたまらない。必死についていくが、足が重く、息は上がり、肺がギリギリと締め付けられる。景気づけどころか、止めをさされそうだった。
――残り、300メートル。
これまで走ってきた距離を考えればゴールはもう目の前だ。気力を振り絞り、半歩ほど先に行く古荘さんにどうにか食らいつく。
「今でもね、佐々くんがどうしてそこまで限界を出し切れるのかわからないの。練習のたびにどれだけ遅れても、一秒を削り出すような走りをして――終わったら倒れ込んじゃうくらいまで」
一秒を削り出す、というほどの自覚はなかった。ただいつも必死で、ゴールにたどり着くころには動けなくなっていただけだ。顧問や先輩からペース配分ができてないと怒られることも少なくなかった。
「はじめのうちはスゴいなって思ってたくらいだったけど、いつの間にか、そんな佐々くんの姿から勇気をもらってた。たとえ調子が悪くても、頑張っていれば何とかなるかも……って」
「そんな、俺なんか――」
引退直前の時期でさえ、部内に俺より速い人はいたし、俺は勇気とかをもらう側であっても当てる側ではなかったと思う。でも、少し前を行く古荘さんは言葉の途中で首を左右に振った。
「いつの間にか、練習中に佐々くんを目で追うようになってた。そうだったって気づいたのは、みんなが引退してからだったけど……」
俺もだよ、という言葉が古荘さんに届いたかはわからない。ぜえぜえと荒れる呼吸の中に声は溶け込んでしまう。何度も足がもつれそうになるのをどうにか持ちこたえる。練習の後半はよくこんな状態になっていて、それが少しだけ懐かしい。
緩やかに続く坂を上り切ると、視界にゴールのゲートが飛び込んできた。その距離はもう100メートルも残っていない。
「佐々くん、ラストだよ」
スピードがさらにすっと伸びる。いつも俺を後押ししていたその声が、この時は少し寂寥感を含んで聞こえた。
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