パウシュト・ダンジョン物語

あきのななぐさ

序章 滅亡の日、始まりの日

第1話 プロローグ

 まだ、あたりが夜の闇に包まれているはずの頃、自分の部屋で寝ていたアーデガルドは、メイド長の緊張した声で起こされていた。


 眠い目をこする間もなく、素早く抱きかかえられたアーデガルド。その近くに立っていたメイド長のもつ手持ち燭台の炎が揺れ、その影を大きく揺らしていた。


 予想もしていなかった出来事に、彼女は小さく悲鳴を上げる。だが、自分を抱えているのが師匠であるミュライアーであることがわかると、彼女は少し平静を取り戻していた。


 しかし、それと同時に、彼女の中で新たな不安が頭をもたげ始めていた。


 だが、そんな彼女には目もくれず、急に手持ち燭台を吹き消すメイド長。光源を絶たれたその瞬間、暗闇は再びその部屋の主となっていた。ただ、窓の外はそうではない。あろうことか、夜が明るく引き裂かれている。しかし、それをゆっくりとみている時間も、彼女には許されない事だった。足早に、部屋を出るミュライアー達。


 そのまま明かりがほとんど消えている廊下をひた走り、隠された階段を駆け下りるメイド長とミュライアー。どこに連れて行くのか告げることなく、二人はひたすら無言のまま走り続けている。そして、運ばれたままのアーデガルドもまた、その二人の意図をくみ取って黙り続けていた。ただ、その分不安は増すばかり。幼いアーデガルドとって、それはかなりの苦痛だったことだろう。そして、それにも限度というものが存在していた。アーデガルドがそれを迎えようとしたその時、ミュライアーの短く低い声がアーデガルドの言葉を素早く遮っていた。


「――先生?」

「静かに――」


 一瞬、不満の色をのぞかせたアーデガルド。だが、薄明りの中老騎士がみせた真剣な眼差しに、彼女は黙ってそれに従う。瞳に理性の色を浮かべながら。


――今、いったい何が起きているのか? 


 おそらく、彼女はおおよその見当はついているのだろう。


 弟の剣術修行に同行していたはずのミュライアーがここにいる。それは夢ではなく、まさしく現実。ミュライアーの金属製の胸当ての冷たい感覚が、夢であってほしいと願う彼女に、まざまざとそれを教えてくる。幼いころから聡明な子供として知られていたアーデガルドだからこそ、その事実を否応なしに理解し始めていた。


 戦いの音はまだここには届いていない。だが、彼女の住む城が攻撃されているという事実を――。


 恐怖と不安に襲われているにもかかわらず、アーデガルドは懸命にそれを耐えていた。そんな彼女を、ミュライアーは無言で強く抱きしめながら走り、彼女はミュライアーの金属製の胸当てに、その顔をただ押し当てている。


 さらに階段をかけ降り、暗い廊下をまた走る事を繰り返し、やがて二人はその途中で立ち止まる。


 メイド長が持つ鍵が、暗闇で光り輝いたその瞬間に――。


 突如起こったその光は、魔法で隠されていた扉を顕わにしていく。そこにあるのは、鍵と同じ淡い光を放つ隠された扉。アーデガルドがその光に気づき顔を上げたと同時に、メイド長がその扉を押し開けていた。


 一瞬、眩しさに目を細めるアーデガルド。ただ同時に、彼女は小さく安堵の息を吐きだしていた。


――ただ、それは露と落ちることになる。その部屋の空気を感じたことで……。


 しかし、時間は彼女を置き去りにして前に進む。ただ、アーデガルドは彼女を抱きしめる母の温もりの中で、ひと時の安らぎを得ることにもなっていた。 



「ミュライアー、すまない……。娘を……。――子供たちを、頼む」

「心配するな。ここからの抜け道は覚えている。あの子の事も心配ない」


 カイル王がミュライアーに頭を下げる。二人が立場を超えた友人であることは、周知の事実と言っていいだろう。だが、小国とは雖もカイル王は一国の王。普段なら、王が臣下の前で他人に頭を下げることなど許されるものではないだろう。しかし、今だけはそうではない。この場にいる誰もが、黙ってそれを見守っていた。


 いや、それだけではないのかもしれない。そのそばで抱き合う母と娘の姿に見入っていたのかもしれなかった。


「ああ、アーデ……」

「お母さま……」


 ミュライアーから我が子を受け取ったあと、ユーミリア王妃はずっと強く我が子を抱きしめていた。そんな母と娘の姿に、その場にいたメイド達が小さく鼻をすすっている。悲しみがその世界を形作っているその場所で、しばし無言で抱き合う母娘。まるで、そこだけ時が止まったと思える程、彼女たちはずっとそのまま抱き合っていた。


 だが、それは無情にも引き裂かれる。ミュライアーの告げたその言葉で――。


「急がれよ。包囲が完成しては、抜けれるものも抜けられぬ」

「アーデ……。辛くても、生きて……。生き抜いて。――カールの事、お願いね……」


 泣く泣く我が子を解放したユーミリア王妃。寂しさを無理やり押し込めた笑顔のまま、彼女はすっと立ち上がり、そのままアーデガルドに背を向けていた。


 抱きしめられて感じていた母の温もり。それを手放したくなかったのだろう。聡明とは言われていても、アーデガルドはまだ幼い。そして聡明だからこそ、そのあとの事もわかっている。


 声こそ出さなかったが、アーデガルドは必死にその手を伸ばしていた。


 だが、それは叶わずに終わりを迎える。伸ばしたその手を、ミュライアーが握りしめてしまった事で――。


「さっ、姫様はこちらに。セーラマルテ、見事にその大役を果たせよ」

「はい、おじいさま」


 アーデガルドが手を引かれて連れられた先。そこには涙ぐむメイド長が待ち構えていた。アーデガルドに向けて、何かを唱えるメイド長。その瞬間、彼女の持つ短杖が音もなく崩れ落ち、アーデガルドの自由は完全に奪われていた。


 ただそこに立つアーデガルド。その瞳に、彼女の意思は宿していない。


 だが、メイド長はその事を気にもせず、その悲しそうな顔とは裏腹に、瞬く間に仕事をこなしていく。


 あっという間にみすぼらしい服に着替えさせられるアーデガルド。その一方で、セーラマルテが『アーデガルドが脱いだ服』を受け取り、何の躊躇もなくその身にまとっていた。


 自らの自由を奪われ、混乱の中にいるアーデガルドを放置して、メイド長はセーラマルテの服を素早く確認する。メイド長の頷きを待っていた少女は、入ってきた扉とは別の扉の前で待つカイル王とユーミリア王妃の元に駆け寄っていく。


 その全てを、ただ見つめるアーデガルド。心の悲鳴は誰にも届かず、彼女の体も、彼女に応えることはできなかった。


 そんな彼女を小脇に抱えたミュライアーは、それとは反対に向けて歩き出す。彼が向かうその先には、今までなかった通路が口を開けて待っていた。


「いや! 放して! お父さま! お母さま!」


 この時になってはじめて、アーデガルドはようやくその呪縛から解放される。予想外に激しく抵抗するアーデガルドを、ミュライアーが危うく解放しかけたその時。何かを抱えていたメイド長は、それを大事そうに床に置くと、また別の短杖を用意し始めていた。


 その瞬間、暴れるアーデガルドは確かにそれを目にしていた。


 ほんの少し振り返ったユーミリア王妃の悲しそうな微笑み。

 そして、同じように振り返った少女の凛としたその姿を――。


 それから叫び声さえも封じられたアーデガルドは、唯一自由になるその手を暗闇の中で伸ばし続ける。


 だが、それは永遠に届かない。それでもアーデガルドは、いつまでもその手を伸ばし続けていた。



 ゆっくりと瞼を開けて、アーデガルドはそれが夢であることを確認していた。それと同時に、頬を伝って落ちていた涙をまっすぐ天井に向けていたその手で拭い去る。


「もう、十年になるのよね……」


 大人になったアーデガルドの瞳は、まだ何もできていないという後悔の色で満ちていた。それと同時に、この夢を見たことでアーデガルドはこれから何かが起きることを予感していた。


「今度こそ、守ってみせる。そして、いつかはカールを……」


 あの時、アーデガルドはただ守られるだけの存在だった。だが、今のアーデガルドはそうではない。自分の身代わりになった少女のためにも、彼女は再びその決意を口にしていた。


「絶対――、守り抜く」


 まだ、夜は明けていない。そして、誰もいつ明けるかは教えてくれない。

 だが、もうすぐ夜明けだという事を、アーデガルドは感じていた。


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