第10話
幼い頃、私の母は毎日泣いていた。
帰りの遅い父。
母は食卓の椅子に座って、作ったご飯が冷めていくのを見つめて待つだけ。
「ママ・・・?」
心配になり、声をかけると母は赤くなった目で私に微笑みかける。
「お母さんは大丈夫よ。ごめんね、心配かけて。」
「でも、ママ・・・泣いてる。」
「・・・・杏子は、好きな人を悲しませる事しちゃダメよ。杏子の事を大事にしてくれる人をちゃんと杏子も大事にするの。そうしたら、お母さんみたいにはならないわ。」
「ママ・・・・」
あの時、母の言う事はよく分からなかったけど、今なら痛い程分かる。
母の意思に背いている行為をしている事も。
「じゃあ、行ってくる。結構遅くなるから、先に寝てていいから。」
「わかった。気をつけてね。」
最近豪君は成績が認められ、建築会社の部長になり、たまに土曜日も出勤になる事が多くなった。
「いつもごめんな。来週は休みになると思うから。」
「ううん。大丈夫。沙莉も今日ピアノの稽古で半日は居ないし。ゆっくりさせてもらうわ。」
「・・・そうか。ピアノの発表会近いもんな。なるべく早く帰るから。じゃあ。」
「行ってらっしゃい。」
豪君の居なくなった玄関に罪悪感を感じながらも、沙莉を起こすため寝室に向かった。
豪君が仕事になって、沙莉のピアノの稽古が始まった土曜日の午後。
懐かしい駅を降りた私は、ある場所へと向かった。
それは一時期は死ぬほど目を背けていた場所。
雨の降る中、逃げるように出てきて入った公園。
あの時はこの場所から逃れたい気持ちと、救われたい気持ちで頭がぐちゃぐちゃになっていた。
なのに、私はまたこの場所に来ている。
懐かしいマンション。
部屋の前に立ち止まり、インターホンを押すとガチャッと鍵が開き、扉が開いた。
「待ってたで。」
あの保護者会の後、私は自分の欲に勝てなかった。
あの頃、毎晩母を泣かせていた父と同じだ。
扉が閉まり、玄関先で優しく抱きしめられる。
「遅くなってごめんなさい。」
「ええんや。こうして来てくれるだけで。」
そうやって好孝は前と同じような笑みを浮かべる。
やめて、優しくしないで。
どうせ他の女にも同じ事言ってる癖に。
でも、そんな安っぽい言葉に心が高揚している自分が憎い。
咄嗟に目の前の好孝に抱きつく。
「・・・・どないしたん?」
「本当に酷い人よ、好孝は。
分かってるでしょ、こんなの悪いことだって。」
「・・・・分かっとるよ。教師としても、人間としても、間違ってるって。
でも、俺は許せないんや。杏子をあの時傷つけて、杏子の事を追いかけられなかった自分を。」
「好孝・・・・」
見上げると好孝が真剣な眼差しで私を見つめていた。
「俺は本当に変わりたいって思っとる。他に関わってた人とも全部切る。全部無くなってもいい。俺は杏子と一緒になりたい。」
「そんなの、もう遅いよ。私には豪君も沙莉もいるし」
「分かっとるよ・・・でも、俺には杏子が必要なんや。」
懇願するように好孝は私を掻き抱くとそのまま寝室に連れ込み、荒いキスを繰り返した。
もうここに来ている時点で好孝も分かっているはずだ。
私も、もう後戻り出来ない事を。
私だって、もう分からない。
私はただ、幸せになれればそれで良かったのに。
服を脱がし始める好孝を受け入れながら、私は目を閉じた。
好孝の香り。私は好孝とずっと一緒に居たんだと、今は思い込むように。
「杏子、愛してる。」
私もと言う言葉を漏らさないように、好孝の唇に唇を重ねた。
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