賢者たちのバレンタイン

朝倉 冬二

賢者たちのバレンタイン

「この人」

 そういって彼が指をさしたのは、ショートカットが耳の下あたりで繊細に切り揃えられた、柔和な笑顔が印象的な女性だった。女性は張るように背筋を伸ばし、両の手を太ももの上で重ねていた。足は当たり前のようにすらっと伸びていて、赤いドレスが良く似合っていた。彼女と一瞬、ポスター越しに目が合った。

 彼女は今の男子高校生からはあまり人気が高くないらしく、進藤くんの友達は、「一番好みに近い女性はこのポスターの中で誰か」という問いにそのアイドルを選んだことが意外に感じられたらしい。彼らは口々に進藤くんをからかった。そんな彼らを横目に、私は目にかかりそうな重たい前髪を鬱陶しく払った。隣を歩くミコが気を使ってくれたのか、歩くペースが少し落ちた気がしたけれど、私はそんな彼女の優しさに気がつかないふりをした。

 手袋をしてコートのポケットに手を入れているはずなのに、それでも指先は冷えていく一方だった。マフラーに顔を埋めた私の姿は、さながら首の入りきらない亀のようで、しかし寒さには敵わないから仕方なくこうする他なかった。髪はマフラーに入りきらないほど伸びきっていたので、幸いなことに背筋が冷えるようなことはなかった。また伸びた髪は背後から私のみにくいシルエットを隠してくれているようで、少しだけ安心感があった。声は聞こえないけれど、進藤くんたちが少し後ろで歩いているかもしれない。そう思うと歩き方まで不自然になるようだった。

「詩織。バレンタイン、渡すの?」

 ふいにミコが訊ねてきた。なんの脈絡もなく投げられた質問に、思わず「へ」と間抜けな声が洩れた。

「なんの話……?」

 ミコの顔を見て淡白にきき返したつもりが、自分でも驚くほど目の焦点が合わず、あせっているのがバレバレだった。

「進藤に、に決まってるでしょ。今年を逃すともう、チャンスないよ」

 わかりやすく動揺しているうちに、さらに追い打ちをかけられた。唯一ミコだけが、私の好きな人が進藤くんであることを知っていた。だからか、彼女は消極的な私の背中を押してくれることが度々あった。もちろんそれを迷惑だなんて思ったことはないけれど、私はあまり恋に積極的になれなかった。

「でも、今は多分忙しいだろうし……」

 私やミコ、隣のクラスの進藤くんは特進コースで、普通科とは違い進学率に重きを置いている。そのせいで私たち特進は、部活動は三年生の春までと決められている。つまり、部活動に励める期間はあと三か月も残されていないのだ。私もミコも美術部であまり活動らしい活動はしていないけれど、進藤くんのように運動部に所属している人たちにとっては、今が一番重要な時期なのかもしれない。

「何も告って付き合えって言ってるわけじゃないの。チョコレート渡して『頑張ってください』の一言でも添えりゃ十分よ」

 それは告白と同義ではないのだろうか。少なくとも私は、好意のない相手にバレンタインデーでチョコレートを渡すほどお人好しではなかった。

しかしミコの言う通り、来年の今頃は受験の真っ只中で、自由登校になっているはずだ。進藤くんは分からないけれど、少なくとも国公立の大学を目指している私にとって、今年と同じようにバレンタインのチャンスがあると思わない方がよいのは確かなことだった。

「……頑張ってみるよ」

 自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。ミコは少しだけ驚いて、それから嬉しそうに、応援するよ、そう言ってくれた。

バレンタインデーは、私の誕生日でもあった。


 こんな言い方をすると彼に失礼かもしれないが、進藤くんは決して明るい人ではなかった。確かに彼はサッカー部で、授業も真面目に受けていて、いつも友達と一緒に楽しそうに話しているけれど、それでも彼自身が愉快な人、というわけではなかった。むしろ彼はかなり寡黙な人で、一人でいる時なんかはちょっと怖い。早川くんや伊瀬くんと違って彼があまり女子の間で話題に挙がらないのは、そういったところが原因なのだと思われた。

 そんな彼のツンとした横顔が、私は好きだった。早川くんや伊瀬くんのような明るくてハツラツとした人達は、私には眩し過ぎて、ちょっと難しい。でも進藤くんは優しさのある暗さで、何でも真面目に取り組んで、横顔の、目から鼻先にかけてキリッとしていて、なんて言うか、すごく憧れた。ふわっとしたイケメンではなくて、キリッとしたイケメンなのだ。静かな仕事人なのだ。彼が近くにいると、不思議と背筋が伸びる。私も頑張らなくちゃ、そう思えるのだった。


 そんな彼が指さしたのは、髪が鬱陶しく伸びた私とは正反対の、ショートカットの女性だったのだ。


 バレンタインデーの前日、日曜日。私はミコの強い勧めで美容院へ行くことになった。当日、少しでも可愛く見てもらうために、毛先だけでも整えてきた方が良い、というのがミコの言い分だった。普段地元で簡単にすませている私にとって、街の美容院は予約をするところから勇気が必要だった。幸いネット予約に対応した店だったので、ミコに教えてもらいながら予約を済ませたのだった。

 電車を乗り継いで三十分、駅を出て徒歩五分。繁華街の大通りから一本外れた雑居ビルの五階にその美容院はあった。エレベーターに乗っている間、本当にこのビルであっているのか不安になっていた。扉が開くと、白い西洋風のドアと椅子に立てかけられた看板が目に入った。看板には「WELCOME」という大きなポップ体の文字と、多種多様な髪型をした六、七人の丸い顔のイラストが可愛らしくデザインされていた。鼻だけを使って静かに深呼吸をしてから、音のならないように恐る恐るドアノブを捻って店に入った。中は思ったよりも広く、並ぶ鏡と黒い椅子のおかげでそこが本当に美容院であることを認識できた。

 奥から清潔感のある、白いシャツを着た女性のスタッフがこちらに寄ってきた。

「ご予約ですか?」

 私は彼女の言葉をゆっくり咀嚼して、たっぷりと時間をかけてから「十三時から予約の野浜です」とはっきりとした口調で告げた。

「野浜様ですね。お待ちしておりました」

 それから私は席に案内されて、シャンプーは先か後か、来店は初めてか、普段の髪の手入れはどのようにしているか、など様々なことを聞かれた。その度に、ミコと前もって準備しておいた言葉をしっかりと告げるよう努めた。

「本日のカットはどのように致しましょうか」

 その時、ふと進藤くんの顔が脳裏にちらついて、散々確認したはずの台詞が飛んだ。頭が真っ白になってしまった。そして私は、用意していたこととは全然違う注文をしてしまっていた。

「えっと……」


 二月十四日、月曜日。

 昨日の夜から朝にかけて降っていた雪は止み、校庭は土色と薄い白色が溶け合っていた。雪の降るバレンタインデーというロマンチックな期待は外れたものの、むしろ豪雪にならなくてよかったと安堵する人の方が多いようだった。何より私もその一人だった。

 教室には、橙色の鋭い夕日が差し込んでいた。冬の空気が澄んでいるということが良く分かるような陽射しだった。そんな教室の中で、私は進藤くんを一人で待っていた。昨夜、彼の部活終わりに教室で会う約束を、メッセージを介して取りつけたのだった。

 カラカラッと、耳触りの良い音が教室に響いた。入ってきたのは進藤くんに間違いなかったけれど、彼は学ランを着用していた。時刻はまだ十七時を少し回ったくらいで、いくらなんでも部活が終わって着替えたにしては早過ぎる時間だった。

「待たせてごめん」

 彼は律儀に頭を下げて、それから少し驚いたようにこちらを見た。

「髪、切ったのか」

 彼は遠慮なく私の顔を見ていて、少し恥ずかしくなった。ぽかんと小さく口が開いていて、そんな彼の顔を見るのは初めてだったから可笑しくてつい笑ってしまいそうになった。

 昨日、結局私は髪を肩の長さまで切ることにした。背丈の半分はあったであろう重たい髪は、美容師の手によって耳の下辺りで繊細に切り揃えられていた。鏡で見る自分には、今までの暗くて陰鬱そうな印象はなく、ハツラツとした笑顔が似合いそうな髪をしていた。まるで自分のそっくりさんのように思えて、鏡に映るこの少女のように生きなければ、そう思えた。だから昨夜、進藤くんにメッセージを送ることにも、特に抵抗はなかったのだ。

「似合う、かな?」

 毛先を指で触りながら訊いてみた。彼は黙って私から目を逸らした。夕日のせいか、顔が少し赤らんでいた。

 私は鞄の中から、ラッピングされた贈り物を手に取った。

「来てくれてありがとう。今日、バレンタインだから、進藤くんにこれを渡そうと思って」

 そういって彼の方へ歩いていき、小袋を渡した。彼は袋を結んでいた紐を丁寧に指でほどき、中の物を確かめた。

「ミサンガか、これ」

 中から出てきたのは、白と黒と青色で編まれたミサンガだった。土曜日と日曜日の二日間を使って、ミコに教えてもらいながら何度も失敗して作ったものだった。

「初めはチョコレートにしようと思ったんだけれど、もうすぐ進藤くん、部活引退でしょ? だから最後まで試合に勝てるように、願をかけたミサンガにしようと思って。切れるのに時間がかかるから、ちょっと遅すぎたかもだけれど……」

 進藤くんは手に持った私のミサンガをしばらくの間、じっくりと眺めていた。もしかしたら気に入らなかったかもしれない、出来の悪いところがあったのかな。長い沈黙はそういった不安を私に感じさせた。

 彼は一瞬寂しそうな顔をした。それから「ふっ」と笑って、

「嬉しい。ありがとう」

 そう言ってくれた。それから彼は、鞄の中から小包を手に取った。

「実は俺も、プレゼントがあるんだ」

 予想していなかった彼の言葉に、私は驚いた。受け取った小包を、几帳面に、破れないように慎重に開けた。「思いっきり破れば楽なのに」苦戦する私を見て彼は笑った。

 それは、ガラスに桜がデザインされたヘアゴムだった。光に照らされると、中のラメでできた花びらがキラキラと輝いて美しかった。髪の長い女性がつけると、さぞ映えるだろうと思った。そして、思わず「あっ」と声が出た。先ほど見せた進藤くんの悲しげな顔はこれだったのだ。私の髪はもう、この大層なヘアゴムをつけるのに相応しくなかった。

「それから俺、さっき部活辞めてきたんだ」

 彼はミサンガに視線を落としながら、小さく呟いた。呆然としていた私はその言葉ではっとして、「なんで……?」そう彼に訊いた。

「詩織と同じ大学にいきたいから」

 彼は真っ直ぐ私を見ていた。その瞳は朱く輝いていて、ほんの少し潤んでいるようだった。

「だからこのミサンガは大事にしまっておくよ。大学でまたサッカーを始めた時のためにね。詩織も、今すぐそれを使うことは無いよ。お互い、ちゃんと大事にしまっておこう」

 そう言う彼の笑顔は、大人しくて、とても静かだった。私は喉の奥が熱くなるのを感じた。

「じゃあ、ミサンガありがとう」そう言って教室から出ようとする彼の手を、私は急いで握った。この先のことは何も考えていないけれど、それでも今、このまま別れてはいけないような気がした。彼の寂しそうな背中を見届けるだけなんて、できなかったのだ。

 私たちは手を握ったまま、またしばらく沈黙していた。運動場から野球部の甲高いバットの音が聞こえてきた。夕日は先ほどまでの輝かしさを失い、薄暗い紫色と同化し始めていた。

 私は意を決して、しっかりと進藤くんの目を見た。今まで心の中に大切に留めていた言葉を、大切にしたまま伝えたいと思ったのだ。

「ねぇ、進藤くん。もう一つ、大事な話があるの」

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賢者たちのバレンタイン 朝倉 冬二 @asakura_12

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