1人だけのあなた

第1章 鼻歌

「るん。」


今日も楽しく朝ご飯の後片付けをしながら、鼻歌を歌う。お皿洗いが終わったら、食器乾燥機に食器を入れておく。帰って来たら、食器棚にしまうからね。心の中でそう呟いたら、ドレッサーで自分の身支度を確認し、戸締りを入念に行う。


「火の元もよしっ。」


全てチェックし終えたら、ヒールを履いて軽やかに外に飛び出す。蒸し暑い初夏の日差しが、すでに私を出迎える。会社まで徒歩10分。初めは戸惑いばかりだったけれど、半年過ぎると完全に慣れてしまった。


「おはよう。」

「おはようございます。」


会社の中に足を一歩踏み入れると、出社してきた人が大勢居て、朝の挨拶の声が飛び交う。入社3年目にもなると、毎日が同じリズムで繰り返され、月日が経つのも早く感じる。


「大島先輩!おはようございます!」


エレベーターで会ったのは、元気一杯な入社2年目佐々木柚ちゃんだ。


「おはよう。今日も元気だね。」

「へへっ!夏ですからね!」


私は夏だからテンション上がらないんだけどなあ。この炎天下の中で取引先に出向くのは、拷問ってもんだ。

「今日も宮本課長と一緒じゃないんですね。」


柚ちゃんが、ポツリとそんなことを口にした。


「ゆ、柚ちゃん!」


こんな大勢の人が居る中で、誰が聞いてるのか分かったもんじゃない!


「あ。すみません。」


眉毛をハの字にして謝る柚ちゃん。


「もう。可愛いから許すけど。」


柚ちゃんは、柚ちゃん達の期の中で人気ナンバーワンの可愛い女の子だ。


「でも一緒に来ても怪しまれないと思いますけど。」


謝ったはずの柚ちゃんは、まだ同じ話題を続ける。


「マンションが会社から結構近いからね。誰が見てるか分からないじゃない。」

「まぁ、そうですねぇ。でも同棲して半年くらいなりますっけ?」

「うん。ちょうど半年くらい。」

「いいなぁ。私も絶対イイ男見つけますから!」

「ふふっ。頑張って。」


柚ちゃんみたいにいい子は、絶対にいい人が見つかるよ。


「あれ。柚ちゃんとともみ、一緒に来たの。」


ロッカールームへ向かうと、三枝美香と出くわした。美香は私の同期かつ、なんでも話せる親友のような存在だ。


「エレベーターでばったり会ったんですぅ。」


柚ちゃんはそう言うと、ガバッと私に抱きついてきた。


暑苦しいから!


「やめなよ~。私のともみに~。」


美香もそう言いながら、くっついてくる。


「もう~。二人とも暑苦しいってば!」


だけど、こんな2人のノリも嫌いじゃない。むしろ、楽しくて好きだ。


「さ。今日も一仕事しますか!」

「そうですね!」

「頑張ろうね。」


いつの間にか、この3人で一緒に居ることが、多くなった。気が合うってこういうことなのかなと思う。


フロアに着くと、もう仕事の準備に取り掛かっている人は何人かいて、宮本課長も例外ではない。


宮本圭吾さん。独身、30歳。私の直属の上司。そんでもって、私のお付き合いしてる人で、現在生活を共にしている人。


圭吾さん、今日もカッコイイなあ。今朝も朝ご飯を一緒に食べたけど、会社での圭吾さんは一味違う。身長180cmのイケメンときたもんだから、そこらへんの女の子が黙っておくわけがない。


だから私は、自分の立場に甘えず、日々努力なのです。朝の職場の圭吾さんうっとりタイムを満喫したら、自分の仕事に取り掛かるのが私の日課になっている。


「大島先輩。おはようございます。」


パソコンの電源を入れていたら、後ろから声を掛けられた。椅子ごと振り向くと、そこには、この春に社会人になったばかりの恵庭和樹えにわかずきくんが居た。


「おはよう。」


私と同じ課で教えることも多いから、すっかり懐いてくれている。顔は可愛い系で、ちょっと犬っぽい。新人の男の子の中で人気があるらしいけど、私には圭吾さん以外の人をカッコイイなんて思えない。


「今日も色々聞いちゃうかもしれませんが、よろしくお願いします。」


彼はニコッと爽やかな人懐っこい笑顔を振りまいた。


「うん。私に分かることなら。」


私も新米の頃は、先輩達にたくさん助けてもらった。だからその恩は後輩達に返すことで、先輩達にも返していけると思う。なんて、まだまだ先輩達に助けてもらってばかりだけど。軽く会釈をした恵庭くんは、自分のデスクへと向かった。


よし!後輩にも恥ずかしいところは見せられないし、気合を入れていきますか!私は七分袖の夏用ジャケットだけど腕まくりをする仕草をして、自分の仕事に取り掛かった。






「大島先輩、お昼に行きましょう。」


ハッと気付くともうお昼で、柚ちゃんにお誘いを掛けられた。集中しすぎると、時間が経つのもすぐ忘れてしまう。


「うん。」


キリがいいところで切り上げて、フロアの入り口で待ってくれている柚ちゃんと美香のところに駆け寄った。


「ともみ、今日も残業したくないからものすごいスピードで仕事してたでしょう。」


社員食堂で今日のランチである豚カツを頬張りながら、冷やかす目で美香が言ってくる。


「だって早く帰って晩御飯作りたいし。」

「きゃー!もう、新婚さんみたいじゃないですか!」


柚ちゃんも、いちいちはやし立てる。“新婚さん”かあ。いずれ圭吾さんとそうなれたらいいなあとは思って居る。


「そういえば最近、私ともみの手料理を食してない!」


言われてみれば、私と圭吾さんが同棲始めてから、美香に料理を振舞ってないかもしれない。


「大島先輩って料理上手いんですか?」


驚いた柚ちゃんを見て、気付いた。こんなに仲良くなったけど、柚ちゃんには一度も手料理を振舞ってないな。


「2人の愛の棲家に泊まりに行くのは、さすがの私でも引けるんだよねぇ。」

「そうですかぁ?私は行ってみたいですけど!」

「……うん。来ないで欲しい。」


恥ずかしいから。あなたたち、絶対にガサいれとかするでしょう。


「あ。じゃあ、今度私の家に3人で泊まるっていうのは、どうですか?」


柚ちゃんが、名案を思いついたようにそう言った。


「柚ちゃんの家?」

「はいっ。大島先輩はまだいらしたことなかったですよね?」

「え。美香はお邪魔したことあるの?」

「あるよ。私のお泊りセット、今は柚ちゃん家にあるし。」


私が1人暮らししていたときにうちに置いてあった美香のお泊りセットは、今は柚ちゃん家にあるらしい。


「でも柚ちゃんって美香と一緒で実家暮らしじゃなかったっけ?」


柚ちゃんは、実家から通ってたはずだ。


「はい。でも私の部屋、離れなんで。」

「離れ?」

「そうそう。柚ちゃんの家、とっても大きいの。柚ちゃんの離れもバストイレキッチン付きで、ほとんど1人暮らしみたいな感じだよ。」

「ど、どこぞの娘さん?!」

「まぁ、デカいだけですよ。」


えへへっと笑う柚ちゃん。いや、どこの地主の娘さんなの?!


「電車で10分くらいですから、嫌な距離でもないでしょ?」

「じゃあ、今度お邪魔しようかな。私の手料理、振舞うし。」

「やった!じゃあ、決まりですね!」

「じゃあ、休みの前日にしなきゃね。飲んだくれるから。」

「げー。飲んだくれるのは美香でしょ~。」


なんだかんだ言って、最近休日も友達と遊べていなかったから、嬉しい約束だ。むしろすっごい楽しみだ。今日の夜、圭吾さんに早速報告しなくちゃ。






午後の仕事は、ハイスピードで終わらせた。17時50分。今日の仕事を終わらせ、明日の仕事の準備をする。明日は先輩と取引先に行かなければならない。


この暑い中しんどいなあと思う。基本的にデスクワークが多い私の仕事だけど、たまにこういうことがある。明日の取引先はコスモ商事が懇意にしているところだから、そんなに緊張しなくても大丈夫だから助かるけれど。


「お疲れ様でした。」


18時10分。今日もほぼ定時であがることができた。


私はそのまま、スーパーに直行した。圭吾さんに、美味しい物をすぐに食べてもらいたいからだ。スーパーで買い物を終えると、ダッシュに近い早歩きでマンションへと駆け込む。


誰も居ない私と圭吾さんの愛の棲家に電気をつける。ルームウェアに着替えてエプロンを着けると、キッチンに立って今朝の食器を食器棚に入れてあげる。そして早速夜ご飯の準備に取り掛かる。


今日は、冷やし中華にところてんと、わかめスープです!今日は暑かったから、食べやすくて、たくさん野菜を取れるものにした。





ピーンポーン


もう少しで料理が終わるというところで、下のオートロックのチャイムが鳴った。そういえば、荷物が届くって圭吾さんが言っていたな。インターフォンで確認すると、やっぱり宅配屋さんだった。


「サインお願いします。」

「これでいいですか?」

「はい。ありがとうございます!」


家まで荷物を運んでもらって手続きをすると、宅配屋さんは爽やかに帰って行った。このダンボールかなり重いけど中身はもしや……。


送り主が圭吾さんのご実家になっている時点で、あらかた予想はついていたけど、ダンボールを開けてみると、そこに入っていたのは大量の新鮮な野菜だった。そして“ともみさんへ”と書かれた手紙が同封されていた。


ともみさんへ

野菜がたくさん採れたので、送ります。

色んな料理を作って、圭吾に食べさせてやってください。

お米はまた、後日送ります。

暑い日が続きますが、お体を大事に。

           母、桜子より


圭吾さんと同棲を始める前、私と圭吾さんはきちんとお互いの両親に挨拶をした。それで、圭吾さんのご両親は、私にも良くしてくれている。農業をされている圭吾さんのご実家は、最低1ヵ月に1回はこうして、食料を送ってくださる。


なんてありがたいんだろうって思う。うちの実家は、普通のサラリーマン家庭で、お母さんもパートだから、何か荷物を送ってくることはほとんど無い。


お礼の電話、しておかなきゃね!


夜ご飯の仕上げをしたところで、玄関の方からガチャンという音が聞こえた。きっと圭吾さんだ!


「お帰りなさい。」


私はエプロンのまま玄関に行き、圭吾さんを出迎える。


「ただいま。」


そしたら圭吾さんは、ただいまのキスをしてくれる。


「今日もお疲れ様。」


圭吾さんのスーツの上着を受け取りながら、彼を労わる。


「ともみもな。」


そして、圭吾さんも労わってくれる。


「さっきね。圭吾さんのご実家から、野菜が届いたよ。お礼の電話したいんだけど。」

「あぁ。やっぱり野菜だった?分かった。後で電話掛けよう。」


ネクタイをほどきながら、圭吾さんは寝室へと入って行く。私はその間に、できあがっている夜ご飯の配膳を行う。


「お。うまそう。」


スウェットに着替えてワイシャツを洗濯籠に入れてきた圭吾さんは、目を輝かせながらダイニングに着席してくれる。


「暑かったから、こういうものの方が喉を通るでしょ?」

「俺、ちょうど今日ところてん食べたいと思ってた。」


ニコニコしながら、2人で食卓につく。


「「いただきます。」」


冷やし中華を口に運びながら、圭吾さんを盗み見る。


「ん。上手い。」

「良かった。」


夏こそ栄養満点の野菜をたくさん食べなきゃいけないからね。


「あ。そういえばね。いつになるかは分からないんだけど、今度の休みに柚ちゃん家に美香と2人で泊まりに行こうって話になった。」

「佐々木さん家に三枝さんと?」

「うん。最近、私が美香に料理を振舞ってないから食べたいって言い出して。」

「え。俺以外の人にともみの料理を食べさせたくないなぁ。」


圭吾さんは、冗談めかしてそんなことを言ってくれる。


「ふふっ。なにそれ。」

「冗談だよ。楽しんでおいで。日にち決まったら教えてくれればいいから。」

「うん。」


今日も楽しく夜ご飯を一緒に食べ終わった。



ジャー


「るん。」

「もしもし?母さん?」


私が鼻歌まじりで洗い物に取り掛かったと同時くらいに、圭吾さんはご実家に電話を掛けた。


「うん。届いたよ。ありがとう。ともみもよろしく言っておいてくれって。」

「るん。」


圭吾さんの心地いい声をBGMに、私の鼻歌も調子よくなる。


「うん。またともみと一緒に実家帰るから。え?何日かは分からないよ。色々と都合もあるし。そうそう。うん。大丈夫。ともみが料理作ってくれてるおかげ。あぁ。分かってるよ。うん。」


圭吾さんはお母様と話すとき、声がすごく優しくなる。それくらい親思いってことだよね。そんな圭吾さんを見て、私も嬉しくなる。私も、圭吾さんのお母様を大事にしたいって思う。


「うん。ありがとう。じゃあまた何かあったら連絡するから。うん。おやすみ。父さんと兄ちゃん達にもよろしく言っといて。うん。じゃあね。」


電話が終わると、圭吾さんはキッチンに入って来た。


「母さんがともみにもよろしく言っといてって。そんでたまには2人で顔を見せなさいだって。」

「わぁ。そんな風に言って頂けるなんて、ありがたい。」

「今度行かなきゃな。もちろん、ともみの実家にも。」

「そうだね。」


圭吾さんは、私の腰に腕を回してきた。


「なに。水、跳ねちゃうよ?」

「いいよ。」


私の背中はすっぽり圭吾さんの胸の中に収められ、心臓の鼓動が速くなる。


「母さんに電話する度に思うよ。ともみと付き合えてる俺は幸せだなって。」


そして、耳元で甘い言葉を囁いてくれる。ゾクゾクっとしたものが、体中をかけめぐる。


「っ、うん。ありがとう。」


ちょっと待って!もう少しでお皿洗い終わるから!


「……ともみ。」


圭吾さんは更にぎゅうっと私を抱きしめる。もう!10点満点中これは8キュンです!


「キッチンで後ろから抱きしめるって、やばいね。」


お皿洗いが終わったのを見計らって、圭吾さんは私の首筋にキスを落とした。


「んっ。」


堪らず、声が出てしまう。そして体中がびくんと震えて、右肩のエプロンの紐が肩からずり落ちた。


「ともみ、エロい。」


いつの間にか圭吾さんの両手は、私の両胸を包んでいた。


「っ。」


なんかやばい、なんかやばい!キッチンだから!ここ、キッチンだから!


「圭吾さんっ。」

「ともみ。」


そして圭吾さんは、私の身体を反転させて圭吾さんの方に向かせた。


「エロい顔になってるよ。」

「エロ……?!」


そのまま私の口は圭吾さんの唇で塞がれ、体中の力を抜かされる。


「ともみ、ベッドに行こうか?」


先にお風呂へ入りたいけれど、耳元でそんな甘い言葉を囁かれたら、もうコクンと頷くしかない。そして黙って、圭吾さんに腕を引かれて寝室へ向かう。


「ともみ、愛してる。」

「私も。」


その後は丹念に体の隅々まで圭吾さんに愛される。もうきっと私は、圭吾さん以外に心も体も感じることはできない。



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