銀ノ鏡界【Thousand Testament Ⅺ】

たれたれを

鏡像の学園編

第1話 雨の夜の契約


     /夕貴


 雨の日だった。


 降りしきる雨の中、目の前の光景に思考が唐突に止まる。

 バチャバチャと、傘を叩く雨音が遠くに聞こえてくる。


「なんだ……?」


 無意識に、声が洩れた。

 事態が掴めない。把握できない。


 人気のまったく無い路地裏に、女が倒れている。

 それも二人。


 一人はよく知っている。

 先ほどまで尾行し、監視していた相手だ。


 途中で見失い、さして熱心に探したわけでもなかったが、その結果がこれだった。

 見失っていたのは、三十分ほどだろう。


 その間に何かが起こった。

 何か、など考えるまでもない。

 もう一人の女が、その答えだ。


「――――」


 息を呑む。

 暗闇の中で降りしきる雨のせいか、気づくのが遅れた。

 路地裏がすでに血溜りと化していたことに。


 大量の出血。

 たったそれだけで、考えるよりも身体が動いてしまっていた。


「おい!」


 しゃがみ込み、呼びかける。

 自然と、見知っている女の方から声をかけてしまっていた。


 青白い顔は、雨と血に塗れて最悪に見えた。

 生気が無い。

 女の腹の部分が真っ黒に滲んでいる。


 いや、実際には真っ赤のはずだった。

 出血が続いていて、致命傷にも見えた。


「……いったい何だっていうんだ……!」


 俺は苛立たしげに舌打ちした。

 そうだ。

 いったい俺は何をやっている……?

 この女はそもそも――


「!」


 悪寒がした。

 冷たい何かが、腕を掴んでいる。


 振り返れば、もう一人倒れていたはずの女と目があった。

 ぞくりとする。


 こいつは……?


 紅い瞳だった。

 流れ出している二人の血液よりも遥かに紅く、毒々しい色彩。


 二人……?

 ようやく気づく。


「おまえ――大丈夫なのか」


 その女も、全身のいたるところから出血していた。

 そのぼろぼろの様子からは、むしろこっちの方がもう一人よりも重傷に見える。

 それが、何かしゃべった。


「――――」


 途切れそうな声で、ささやくように、言葉をつむぐ。

 ただ必死に、声を発していた。


「…………」


 今、思い返せば。

 それはむしろ、呪いだったのかもしれない。


     /ベファーリア


 ――二時間前――


 剣戟。

 つんざく悲鳴が木霊する。


 激音の発生直下にて、わたしは死神と睨み合った。

 ぎりぎりと、互いの武器を削り合う。


 金色の髪に、紅い瞳。

 観測者の証左でもある赤眼は、わたしと同じもの。

 しかしその純度は恐ろしく深く思えた。


 その黒衣の死神は、まだ少女の域を脱しようともしない容姿でしなかい。

 それでもその存在感は、これまでわたしが知り得たあらゆるものを凌駕していた。


 これが、死神……!


 戦慄に似た何かが背を走る。

 この死神を見るのは、これで二度目だった。

 当時はさほどに思わなかったが……今は違う。


 何かがこの少女を変えた?

 月日――それとも環境か、経験か。


 何にせよ、今のわたしでは勝つことはできない。

 そんなことは初めから分かってはいた。


「――――っ!」


 手にした武器を、最大限の力で振るう。

 弾かれる。


「――どうして」


 死神の表情には、明らかな疑問が見て取れた。

 突然のことに混乱している様子は無かったが、戸惑っているのが分かる。


「それは――かえでのもの。どうして貴女あなたが持っているの……?」


 わたしは答えない。

 そんな余裕は無かった。


 振るう。

 弾かれる。

 少女の持つ、死神の鎌タルキュートスに。


 わたしの目的は、まさにそれだった。

 それ以外はどうでもいい――


「……何も答えないのなら、殺すよ?」


 初めて、死神の声に殺気が滲んだ。

 殺意が溢れ出す。


 怖い、と思った。わたしが唯一感じるであろう、恐怖の対象。

 それがこの――死神。


「あぅ……!」


 裂かれる。

 いくつもの裂傷を負う。

 血が吹き出し、体力を奪っていく。この身体を壊していく。


「…………っ!」


 武器の扱いに関する技能では決して負けてはいない。

 しかしやられてる。

 それは、わたしが恐怖に負けているからだ。


「……ふふ」


 なぜか、笑みがこぼれた。

 自嘲に似た、笑み。


 器が知れるというものだ。

 わたしも、そして実像のわたしの。


「――違う! わたしはあんな程度のものじゃない……!」

「!」


 死神が目を見開く。

 わたしの声にではなく、わたしが受けた弓状の武器が、死神の鎌タルキュートスと刃を重ねた瞬間に、砕けたことに。


「っく……!」


 抵抗を失った大鎌の刃は、迷うことなくわたしの腹へと突き刺さった。

 ただの金属などの一撃では決してないそれは、まさに世界を壊す力。

 わたしが……求めるもの!


 その刃がわたしを両断するまでの刹那の瞬間に、全てを為さねばならない。

 今まさにこの瞬間にしか、わたしにとっての機会は無い……!


 掲げた両手に、再び鏡像を創り出す。

 現れたのはそう――たった今、死神に砕かれたはずの、三日月の弓ベファーリア……!


 それを、肉薄していた死神へと振り下ろした。


「え……?」


 溜息のような小さな悲鳴が、死神の少女の口から洩れる。

 三日月の弓ベファーリアは、あっさりと死神の身体を貫いていた。

 半ば呆然と、少女は自らに突き刺さったそれを見返す。


「砕けろ……!」


 残る力を振り絞って、わたしは声を張り上げる。

 瞬間、閃光が闇を切り裂いた。


 炸裂する空間に、死神はもちろん、わたしもでたらめな方向へと吹き飛ばされる。

 後はわたしの運次第……か。


 閃光の中、そう思った。


     ◇


 いつの間にか雨が降っていた。

 その雨に起こされるように、わたしは目を開けた。


 激痛に顔をしかめる。

 それも当然――確認するまでもなく、わたしの身体は半分千切れかけていたのだから。


 だけどそんなことは些細なことだ。

 右手の感触。

 わたしがあの瞬間に離すまいと握り締めた大鎌の柄が、右手の中にある。


 手に入れた。

 このわたしをここまで破壊することのできる、崩壊の楔。


 後は何としてもこの場を逃げ延びることだ。

 死神も決して無事ではないだろうが、死んだとは思えない。

 少しでも、離れないと……!


 思い、立ち上がる。

 もちろんそんなことは不可能で、すぐに無様に水溜りの中に突っ込んだ。


 身体が半分切断されている状態のせいか、バランスが取れない。

 痛みなどいくらでも我慢できるのに、立つことができない。

 出血だけがどんどん続いていく。


 ……落ち着け。

 いかに死神の鎌タルキュートスによる破壊といえども、この身体なら何とかなる。

 映し直せばいいだけのこと。

 決して容易ではないけれど、時間さえかければ――


「!」


 そこで、思考が止まった。

 視界に何かが映ったのだ。


 靴――人影。


 死神かと思った。

 こんなにもあっさりと、追ってきたのか。これでは、もう――


 見上げて。

 言葉を失った。


「……あなた」


 まず視界に映ったのは、驚愕を隠せないでいるその顔だった。

 重傷を負ったわたしの身体よりも、わたしの顔を見て驚いている。


「あ……」


 嬉しかった。

 これは、わたしを知っている――覚えてくれている顔だ。


 やっぱりわたしは間違っていなかった。

 この人は紛れも無く――


「ネレ……ア、さま」


 そう呼びかければ。

 僅かに顔をしかめた後、この人は小さくつぶやくように言った。


「やはり……ベファですか」

「――はい!」


 激痛など無視して、抱きつく。

 血塗れのわたしに抱きつかれて、彼女にも血が滲む。

 でもそんなことを気にする余裕など無かった。


 ただ嬉しくて、嬉しくて。

 今わたしを満たしているものは、ただそれだけだった。


「なぜあなたがここに……いえ、それよりも」


 喜ぶわたしとは対照的に、彼女は静かにこちらを見据えたまま、ゆっくりと引き剥がす。


「あなたが勘違いしたのも無理は無いのかもしれませんが、私はネレアではありませんよ」

「知って……います。九曜くよう、楓。それが現世におけるあなたの……名前だということは。ですが、魂の色は紛れも無く……あの人と同じ。わたしには……わかります」


 九曜楓。

 わたしの目の前に立つ人の名は、今はそう呼ばれている。


 わたしが呼んだネレアという名の人物とは容姿も違う。

 それでもこの人が内に宿す魂は、あの人そのものだった。


「……かつてイリスも、私と初めて会った時にそう言いました。私をネレアだと。確かにあの時は区別することすらできないほど、同化していました。ですが、今は違う」

「え……?」

「私は――私の中の彼女は、イリスによって否定されました。完全に否定されたのか、それともはじき出されただけなのかはわかりません……ですが、もうこの身に無いことは確かです」

「で、でも……っ」


 そんなはずはない。

 だってこの人の魂、その色は――!


「私は出生の段階で、ネレアだったものに憑かれていました。その際に染め上げられた結果でしょう。ですが、それでもやはり、私はネレアではありません」

「あ……う」


 嫌だった。

 そんなのは信じたくなかった。わたしがこの世界で唯一頼れる人――それどころか、わたしの人生において唯一とすらいっていいかもしれない。


「私には彼女の記憶も知識もある……それでもこれだけははっきりしています。彼女、ネレア・ラルティーヌは千年も前に死んだんですよ」

「――――!」


 声にならない悲鳴を、わたしは上げていた。

 全身の何かが沸騰する。思考が真っ白になる。


「それよりも、傷の手当てを。……常人ではとても生きていられるような傷には見えませんが、あなたならば何とかなるでしょう。今は手当てを優先しますが、後で話してもらいますよ。どうしてあなたが、イリスと戦っていたのか」


 ネレア――九曜楓が、何かしゃべっていた。

 だけどそんなことは、少しもわたしの耳になんか入ることはなくて。


「――あなたが持つ死神の鎌タルキュートスについても」

「…………っ!」


 駄目だ。

 これは渡せない。

 命を賭けた意味が無くなってしまう。


 だから、わたしは。

 何も考えずに、ただ条件反射だけで、手にしていたものを振るってしまっていた。


「――――」


 楓の瞳に、驚きが染まる。


「ベファ――あなた……」

「あ……」


 自分がしたことに自分が気づくのに、どうしてこんなにも時間がかかってしまったのだろう。


 数秒か、数分か。

 とにかくわたしの思考は真っ白だった。


 我に返ったのは、楓が血を吐きながら前のめりに――つまりわたしへと、倒れてきたから。


「え? え、あ、あああああああっ!?」


 自分の悲鳴にこそ、驚いてしまった。


 わたしは何をした?

 彼女に何を――――


 倒れてきた楓を支える――支えようとしたけれど、できなかった。

 立っているのが不思議だったくらいのこの身体に、力など微塵も残っているわけもなくて。


 彼女共々地面へと倒れこむ。


「あ……ぅ……」


 もがく力も無く、ただただ嗚咽する。

 こんなにも泣いたのは初めてだったのに、その涙すらこの雨に紛れてしまい、何の意味も無かった。


 意味が無い。

 この世界において、わたしの存在に意味などない。

 そんなことは、もう承知している。


 だけどこうして目覚めてしまった以上、意味は見出したい。

 この世界のそれが存在しないのならば、存在する世界を創ってみせる。

 だというのに、これじゃあ。


 わたしは……何をしているんだろう……。


 嗚咽すら、雨音に消されていく。

 絶望すら、意味の無いものに思えた。


 …………。


 思考が、途切れる。

 まさにその寸前に。


「なんだ……?」


 誰かの声が聞こえた。

 誰かに見つかった。

 男の声で、死神でないことだけに、安堵する。


「おい!」


 男が近くまでやってきて、しゃがみ込んだ。

 わたしではなくて、楓の方を診ている。


 呼びかけているが、楓に返事はない。

 不安になる。



「…………」


 わたしは重い瞼を開け、背を向けている男を瞳だけを動かして視た。

 え……?


 驚いた。

 もう一度視る。


 はっきりとはわからない。

 だけど、これは……?


 違うかもしれない。

 そうかもしれない。


 今のこのわたしの状態で、それをはっきりと確認することはできなかった。

 だけど。

 そうかもしれないと思わせる存在が、こんな風に現れるなんて。


 この世界に、わたしにとっての意味はない。

 だけど、この世界はわたしを見捨ててはいない……?

 わからない。考えている時間も、きっと無い……。


「……いったい何だっていうんだ……!」


 どこか苛立たしげに、男――少年はつぶやいた。


「…………」


 賭けるしか、ない――

 手を動かす。


「!」


 反射的に、少年が振り返った。

 わたしに手を掴まれて。


「おまえ――」


 驚いた瞳に、わたしの紅い瞳が映りこむ。


「――大丈夫なのか」


 わたしへの気遣いなど、どうでも良かった。放っておけばどうとでもなる。

 しかし楓はそうはいかない。

 彼女がたとえネレアであったとしても、人の身であることには違いないのだから。


「力を……やる」

「……? 何だって?」


 少年が首を傾げる。

 わたしは辛抱強く、途切れ途切れの声を紡いだ。


「おまえに……力を。今為せぬことを……為せるようになる、力を」

「待て……いきなり何なんだ? そもそもお前は誰だ。どうして九曜の長女と――」

「わたしと契約……しろ。拒否は……させない。認めない。するのなら……殺す」

「お前……」


 どちからというと、少年は呆れたようだった。


「自分は死にそうなくせに、殺すと脅しか。しかし――」


 にわかに、その顔が真剣になった。

 わたしの瞳を、覗き込む。


「どんな代物かは知らないが、得体の知れない目をしてるんだな。狂眼というにも桁が違う」


 そこで少年は一つ溜息をつき、倒れている楓とわたしを交互に見比べた。


「異端の類か」


 あっさりとわたしを、人間でないと断定する。

 どうやらこの少年も、ただの常人というわけではなさそうだった。

 あくまで知識の上で、ということかもしれないが、それでも話は早くなる。


「それで俺に力をくれると? だが異端に魅入られる覚えはない」

「……光栄に、思え。それが、ただの偶然……だったと、しても」

「……態度がでかいな。死にそうなくせに」


 少年が笑う。場違いな笑みだった。


「しかしまあいい。くれるというならもらってやる。それも条件次第だがな」

「…………」

「さしあたって、お前を助けることか? とても助かるようには見えないが」


 素直な感想に、なぜか腹立たしく思ったが、それでもわたしのことはどうでも良かった。


「わたしじゃない……彼女を」

「九曜楓を、か」


 振り返り、少年は顔をしかめた。

 彼女の名を知っている。

 だとすれば、ここにこの少年が現れたのは偶然ではない……?


「生きているようだが、こっちも助かるようには……」

「そのための、力だ……。それをやる……」

「なるほど」


 少年は頷いて、そして意地の悪い瞳でわたしを見返した。


「ではもし彼女を助けられなかった場合、それはお前が俺に与えた力に問題があったと、そう判断するからな」


 いちいち皮肉のようなことを言う。

 性格が悪い。


「ふん……」


 きっと思い違いだ。

 さっきのはわたしの錯覚だ。

 この少年が――などとは。


「なら……受け取れ。わたしの……瞳に、自分の瞳……を、映せ。それにて……双鏡と……する」

「ああ」


 少年が頷く。


 それが、契約了承の証となった。

 わたしが本当に契約相手として望んでいたのは、この少年などではない。


 しかし……それでも、それは為されたのだから。

 わたしは、目を閉じた。

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