ここでしか逢えない
@nore-re
第1話
午後4時過ぎの住宅街。久野一花が通う高校は、普通の民家が立ち並ぶ住宅地のなかにあって、下校時はそれほど広くない道をぞろぞろ揃って歩くことになる。一花はそれが苦手だった。 同じ制服を着ている生徒のほとんどの名前すら知らない。でも傍から見れば、同じ制服を着ているだけで一括りにされる。それが嫌、というのではなく、むしろ怖かった。同じ制服を着ているだけの赤の他人は、一花にとって、仲間どころか、電車の中で出会う知らない人より怖い存在だった。 駅までの10分程度の道のりを、生徒たちの流れに沿って歩くのが、どうしても耐えられないときは、通学路を外れて襟のリボンを外す。それから住宅地をあてもなく歩き、同じ制服の波が収まったタイミングを見計らって駅に向かう。 その日の一花も下校時の波から外れて、民家の壁を伝うように歩いていたところ、道に迷ってしまった。迷ったといってもたいした距離ではない。いつもはランドマークを決めるのに、その日は適当に歩いていたから方向がわからなくなったのだ。 「困ったなあ」
本当は「どうしよう」に近いくらい困っていた。でも大丈夫、日はまだ高い、それにいざとなれば、すごく恥ずかしいけれど、交番かどこかで「私の高校はどこでしょう」と訊けば、最悪学校までは戻ることができるだろう。 ローファーで歩きすぎて足が痛くなっていた一花は、太陽の傾く先に、ぽっかりとした広がりを見つけて顔を上げた。 そこは植栽や木に囲まれていて、建物は小さな庇だけの、カラフルな遊具が点在する公園だった。 滑り込むように公園に入ってベンチに腰を下ろす。ブランコと滑り台で遊んでいた子供たちが入れ替わるように帰ってゆき、一花のほかには同年代の男子が遠目に見えるだけになった。 欅の木が緩やかに揺れている。一花は昨晩よく眠れなかったので、軽い睡魔に襲われて少しだけまどろんだ。 「この本は、きみの?」
はっと目を開けると前に男子が立っていた。一花と同じくらい年格好。彼が手にしているのは一花がさっきまで読んでいた本だった。
「あっ、すみません」
「三島由紀夫、好きなの?」
「ええ、まあ」
「俺もこの本、好きだよ、輪廻転生する話」
「恋愛の話だと思いますけど」
「全四巻あるんだけど、この彼女はやがて彼を忘れてしまう」
「嘘、だってすごく好きなのに」
「時間が流れるって、そういうことなんだって話みたいだよ」
彼が拾ってくれた本を受け取ろうとして、一花は思わず身構えた。それは彼の制服が、一花と同じブレザーだったから。
「大丈夫、具合悪いの?」
「ちょっと歩き疲れただけです」
彼は一花に尋ねる。 「同じ高校だよね、何年生?」
「2年、C組」
「え、おなじクラスかよ」
さすがにそれはない。一花のクラスは確か38名で、うち約半数は男子だ。しかもこのクラスは1年のときからクラス替えをしていないので、いくら一花が学校中から浮いていて、クラスのほとんどの人と話したことがなかったとしても、顔を知らないことはさすがにない。しかも目の前にいる彼は誰が見てもかなりの確率で印象に残るはずの容姿。
彼は水城アラタという名前で、家に帰ってクラス名簿を確かめてみたけれど、やはりそんな名前の生徒は存在していなかった。 一花がアラタと次に会ったのは、最初の出会いから1週間後のこと。 本当は翌日からずっと公園を探したけれど見つからず、ピンクのハワイアンなマンションを目印にすることで、ようやく再訪できた。 『くすの木2丁目ふれあい公園』に入ると、その日もアラタはいた。だけど彼は最初、影のようにぼんやりと見えて、一花が頭を下げても一花の存在に気づかないみたいだった。
「よう、今日も来てたんだ」 数分後、アラタは一花に近づいてきた。
「きみってさ、本当はどこの人? 下級生?」
一花は首を振りながら「2年C組」と言った。
「嘘なんか吐いてない。確かに存在感は空気だけど。あなただって名簿に名前なかったよ。それに今日だって学校で見てないもの」
「俺、今日はちゃんと授業に出席してました、それに普段は水泳部の練習も真面目にやってるし」
一花には彼が嘘を吐いていると思えなかった。健康的でキラキライケメン男子。校内でのスクールカーストは上位に違いなく、学校だったら自分とは口も利いてくれないだろうと一花は思う。 「おかしいな、それってどういうことだよ」
アラタは首を捻ってから「これから学校に行ってみよう」と言い出した。学校と言われて一花はとっさに「えっ嫌だ」と即答してしまった。
「だけど知りたいだろ。どちらかが嘘を吐いているにしろ、どちらも本当のことを言っているにしろ、真実がわかった方がすっきりする、このままだと疑問のままだ」
せっかく脱出してきた学校にまた戻るのは憂鬱だけど、彼が言うようにこのまま真相を確かめないのは気持ちが悪い。なので二人は揃って公園を出た。
アスファルトの通りを数歩進み、一花は立ち止まってピンクのマンションを見上げた。
「あのマンション、前に雑誌で見たハワイの老舗ホテルにそっくりなんだ」と言って振り返り「すごいピンクだよね」と続けた。 一花の手前を歩いていたはずのアラタの姿はそこにはなかった。
学校が夏休みに入ると、一花はほとんど毎日公園に行った。まるで学校に通うみたいに朝起きて公園に行き、夕方まで過ごした。アブラゼミが頭の上で鳴いているのを聞きながら本を読むのが、一花の日常になった。三島由紀夫の全四巻はとうに読み終えた。
新しい三島由紀夫の本を読んでいて、話に入り込めないなと思ったいたとき、公園で遊ぶ子供たちの話が耳に入ってきた。
「この公園、昔は大きな屋敷があったんだって。だけど時計がすぐ壊れちゃったり、人が消えたりして、怖い場所って言われてたんだって」
「そのハナシ、知ってるー、だから今でも、この公園で知らない人とは喋ったらダメって、ウチのばあちゃんが」
一花は、スマートフォンで調べるうちに、『5分前別世界』という謎の空間があると主張する研究者の記事を見つけた。
『この世界とは別の異世界、つまりパラレルワールドの存在は、今や多くの人に知られているが、この世の中と異世界が交錯する場所が存在するのをご存じだろうか。それはおもに時空のねじれによって発生し……」
その人によると、この世界と異世界の接点は多く存在していて、接点によって繋がる異世界も異なる。また並行世界というからまるで定規で引いた二本の平行線が同じ位置を流れているようにイメージされがちだが、実際は複雑に捻れているから、こうした場所の接点が誕生する。そして時間の流れかたやスピードも異なるらしい。 もう逢えないのかも。一花はトートバッグから封筒を取り出して、東屋のベンチの裏に差し込もうとした。 「何やってるの」
声がして顔を上げる。アラタだった。
「手紙、置いてこうと思った」
「俺に? 見せてよ」
「今はやだ」
しばらく来られなかったのは、ある人から止められたからとアラタは言った。
「じいさんに止められた」
「じいさん? アラタくんのおじいさん」
違うよとアラタは面倒臭そうに言うと「今何時?」と聞いた。 「4時35分」
「俺のいるところは、今ちょうど4時半」
子どもたちが喋っていたのは本当で、アラタは別の世界から来たのだった。でもアラタ自身がそれを知ったのは数日前。彼の世界は、5分ほど時間が遅れている以外は、だいたいこちらと同じらしい。そしてこの『くすの木2丁目ふれあい公園』は、両方の世界が交錯する地点なのだ。そしてこの場所は、アラタたちの世界の人には優先権がない場所らしい。優先権というのは、どの世界にこっそり存在していて、理由はよくわからないけど『立ち入り禁止』になっている場所はそういうことなんだそうだ。
アラタのいる世界では『くすの木2丁目ふれあい公園』は立入禁止だが、アラタがふらっと入ってみたところ人がいた。それが一花で、しかも同じ高校の生徒だと思ったら、実はこの公園にいるのはアラタとは違う世界の人ということを知った。 公園の横にあるピンクのマンションの管理人は一花の世界ではおばさんだが、アラタの世界では管理人はおじいさんで、しかも閉鎖された公園に侵入する人を時折見張っていて、それでアラタは捕まった。
管理人のじいさんは、マンションの管理人で公園の管理人ではないのに、アラタのことをすごく怒って「あの場所は入っちゃダメだ。ずっとそんなことやってたら戻れなくなるぞ」と脅かした。アラタは戻れなくなったら、一花のいる世界の人間になればいいと考えていたが、一花の世界とアラタの世界は時間が5分ずれていて、この公園以外ではアラタは存在できないとおじいさんが言った。
「公園にしかいられないんだよ。それに時空の歪みなんていい加減なものだから、突然、戻れなくなるかもしれない」
実際、行方不明者には、それを繰り返すうちに戻れなくなった人もいるんじゃないかとおじいさんは予想しているらしい。 「だから公園から出ると消えてしまうんだね」
一花とアラタは夜また公園で会うことにして、一旦別れた。一花は家に帰ると手紙を書き直した。
待ち合わせの時間は夜の8時。それはアラタにとっての7時55分。だから一花は7時55分に公園に入るとアラタがそこにいた。
公園からは、大きな満月が見える。 二人はジャンルジムに載って月を眺めた。「三島由紀夫の本は読んだ?」アラタが聞いてきたので「夏休み毎日ここに来てたから、四巻全部読んだよ。本当だね、あれだけ好きだったのに忘れちゃったんだね。存在すらしなかったのかもって考えたら、時間て怖いと思った」と一花は答えた。 そして一花はアラタに手紙を渡した。
『これからは公園にいないときは、いつも5分前のことを考えます。アラタくんも嫌じゃなかったら、少しだけ未来の5分先のことを時々考えてくれたら嬉しい。』
翌日、公園に行った一花は、ベンチの上に手紙と小さな包が置いてあるのを見つけた。 『5分先のことを考えるのは案外難しい。でもまだ起きていないことを想像するのは楽しいよ。』
そしてアラタが身に着けていた腕時計が置いてあった。時刻は5分遅れ。一花はアラタに5分進んだままの自分の腕時計を渡した。
一花は5分前にアラタを感じる。 アラタは5分先に一花を想う。
ここでしか逢えない二人は、毎日ここで会った。学校が始まってからは、朝、夕と会い、休みの日はほとんどの時間をここで過ごした。 大嫌いだった高校を卒業した一花は、庭の勉強をする学校に行った。アラタは生物学の勉強をはじめた。忙しいけれど二人は時間をつくって毎日かなりの時間を公園で過ごした。
あるとき一花がここに行くと、入り口に大きな看板が置かれていた。
『公園閉鎖のお知らせ・くすの木2丁目ふれあい公園は、8月31日をもって閉鎖されます。9月1日以降は近隣の別の公園を利用してください。公園管理課』
一花の身体は震えて、涙が流れた。夜、公園に現れたアラタは張り紙のことを知っていた。アラタの世界で立入禁止だった公園は何かの晃司が始まったという。
「ぎりぎりまで会おう」
二人はそう誓い合って、公園が閉鎖されてからは、網を破って会っていた。でもやがて高い塀が立ってしまい、入れなくなった。
「『5分前別世界』にいる俺のこと、忘れないで、覚えていて」
「『5分後別世界』の私のこと、忘れないで」
その翌日から重機が入って、大掛かりな工事が始まった。巨大な穴が掘られて、一花とアラタの思い出はあっという間に形を失った。 数年後、一花は公園の管理事務所で働くようになった。受け持ちの公園が何箇所かあって、あちこち公園を回っては、遊具や備品の使用状況や、植栽の育成状況を確かめる。
あるとき、一花は、昔よく通った公園の前を通った。ピンクの場違いなマンションで思い出したのだ。あれだけ毎日通った公園なのに、傍まで近づかないと思い出すことができなかった。
公園はマンションになっていた。一花は公園がなくなってからもアラタのことを忘れたことはなかったし、アラタと交換した腕時計は5分遅れたまま一花の腕に巻かれていた。アラタは自分の世界に戻って幸せに暮らしているに決まっている。一花の心の中で、諦めが強くなり、幻のような過去の出来事を追い払おうとしていたのだ。 公園跡地のマンションの玄関には『クロスマンション・入居者募集中』と看板が立っていた。建って数年は経過しているマンションのはずだが、建物はとてもきれいだった。一花は仕事を終えるとマンションに立ち寄って、部屋を見せてほしいと頼み、空室を内見した。不動産会社の担当の男性は、個人情報だからあまり詳しいことは話せませんがねと前置きして、「この部屋は回転が早いんです、いえ決して、退去の理由は部屋が問題ではないです、むしろその逆で、とても縁起の良い部屋なんです。結婚、栄転、留学とですね」
「私はきっと、そのどれも起こらないと思います」
そう一花は言いつつ、クロスマンションの空室の105号室を契約した。そこはおそらく昔ベンチのあった位置だ。 荷物も多くなかったので、簡単な引越しはすぐに終わった。
服の整理をしようとクローゼットを開く。するとなぜかそこには、胡瓜、トマト、茄、などの新鮮な野菜が置いてある。一花は、添えてあった手紙を開いた。 『このたびは、引っ越しおめでとうございます。僕は、こちらのマンションと同じ空間で野菜作りをしている者です。説明すると大変長くなってしまうので、5分遅れの世界の住民とだけ言っておきます。突然こんなことをして申し訳ないのですが、僕には、探している女性がいます。このメモを読んでピンとこないようであれば、あなたと僕は初対面です。でももし、こいつの話どこかで、そう思ったら、夜8時にベランダの外に出てみてください。』
一花は夜7時55分にベランダに出た。
「なんだ、まだ5分前行動?」
そこにはアラタが立っていた。大人になって引き締まった表情をしている。
「俺の世界では、ここは畑になったんだ」
「畑?」
「だから、ここで野菜を作って、この部屋に住む人にあげ続けた」
一花とアラタは一花の部屋で一緒に暮らし始めた。相変わらず二人で一緒に出かけることはできないし、マンションの敷地を出たら一緒の時間を過ごすことはできない。 そんなときは想像する。それぞれの時間を。二人の想いは5分先でも5分後でも間違いなく通じているから。
【了】
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