第十二章 哀哭の二重奏

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 和矢が初めて外泊した、その翌日。


 美矢と弓子のスマホに、今日は学校を休む、という連絡が朝、メールで届いた。

「昨日、兄さんと盛り上がっちゃったみたいで」

 登校してすぐ、美矢は珠美と一緒に巽のクラスに顔を出し、和矢の様子を尋ねた。途中まで僕も付き合わされて、と少し眠たそうな様子で話す巽の様子からは、特に深刻な影はなく、本当にただの友人宅へのお泊り、だったらしい。

 そもそも、泊まることもメールのみの連絡で、しかも一切の説明はない。


「まあ、年頃の男の子には、色々あるんじゃないの?」

 相変わらずの大雑把な、良く言えばおおらかな弓子は、昨日の外泊メールにも大して気にも留めず、相手が斎だと知ると「じゃあ、朝稽古とかして、鍛えられて帰ってくるかもね」などと冗談を言う始末だった。斎と巽の家が古くから武道場を構えている旧家だと分かっているので、それも安心の担保らしい。


「朝稽古なんてしないよ。兄さん、自称低血圧だし。でも、和矢先輩は書斎の本棚にあった古文書とかに興味津々で、兄さんと二人で朝まで籠っていたよ」

「……そうなんだ」

 元々日本の古い文化を調べるのが大好きな和矢だ。日本に来る前もインターネットで検索したり、その手の本を読んでいたのを知っている。美術部入部の際に描いていた仏画もその趣味の延長だ。普段はおくびにも出さないが、巽の言葉によれば、唐沢家にはちょっとした図書館や博物館並みに蔵書が揃っているらしい。いつになく大興奮し、そして徹夜して自主休校、という和矢らしからぬ行動に出てしまったわけらしい。


「一応、朝は登校するつもりだったみたいだったけど、兄さんが蔵の中の骨董品を見に行こうって誘ったら、陥落されて……あ、だから兄さんも休むって」

 あんな風に熱狂する和矢先輩、初めて見た、という巽の言葉に、美矢も同意した。


 学校では何かに強く執着する様子は見せないが、家では結構素の顔が出ている。ミルクティに使う牛乳を切らして、夜遅くに不慣れな道をコンビニまで買いに出かけたのは、引っ越ししてきた翌日のことだ。美矢も紅茶やコーヒーには牛乳が欲しいが、なければポーションミルクでも粉末のミルクでも我慢する。が、和矢は我慢ならないらしい。目に見えて不機嫌になるので、それ以降弓子は必ず冷蔵庫に牛乳を二パック常備するようにしている。


 趣味の方もしかり。春休みに予定されている修学旅行が京都だと知って、いつの間にか部屋に京都関係のガイドブックが山積みされていた。夏の俊の事件の時も、唐沢家の武道場で忍術は扱っていないと知り衝撃を受けて少し落ち込んでいたことを聞き、俊が大変な時に、と憤ったのも覚えている。


 でも、まあ。和矢のそんなちょっとした暴走……もとい我儘も、日本に来てからだということを分かっているから、許せる。

 日本に来る前……インドで生活していた時は、そんな我儘は言わなかった。言えなかった、のではなく、言わなかった。どのような我儘も許されていたのに。


 もちろん、言葉にしなくても常に兄の嗜好に沿って食卓は整えられていた。件の趣味関係の資料は、蔵書の充実した図書館で難なく手に入った。学習と実務の一環としてパソコンやインターネットなどの情報環境も整えられていた。だから、希望を口にする必要はなかった、と言われればそれまでだが。


 無尽蔵に与えられる物資を前にして、兄は自分の好みや望みを、あえて表出してこなかったのではないだろうか?


 兄の明確な要求は、常に妹が、美矢が和矢の傍にあることだった。もちろん安全確保と尊重した扱いもそこには含まれていたと思う。和矢に比べて、美矢に対する周囲の視線はとても冷淡だったが、表面上は丁重に扱われていた。あくまで「和矢の妹」としてだが。


 通学していたナショナルスクールでも、和矢は別格であり、自分は付属物だった。決して粗雑に扱われることはないし、何事も優遇されていたが、美矢個人と親しくしてくる学友はいなかった。今思うと、ナショナルスクールという一見開放的で先進的なイメージを装いながら、その実、多種多様な国籍や人種の人間が集うための隠れ蓑だったと分かる。少なくとも世間で考えているような自由な空気はなかった。在校生はすべて縁故入学で、親同士が何かしらの利害関係を持つ子供達で、その親の力関係が、学内のヒエラルキーに直結していた。言わずもがな、そのトップに在ったのは和矢だ。本人がそれを望んではいなくても。

 あの小さな世界の王とその被保護者として君臨する息苦しい世界から逃れ、今こうして日本の一高校生として学校生活を満喫する美矢と同様に、兄もまた自由に呼吸ができるようになったのだと思う。だから、たまに羽目を外して突然メールだけで外泊するのは、っまあ、許そう。


『和矢が休みだって聞きました。体調でも悪いのですか? 授業のノートは取っておきます』


 記念すべき初メールが兄の安否確認なのは、ちょっと残念な気もするが、おかげでメールする口実はできたし。


『ありがとうございます。体調は問題ありません。詳しくは部活でご報告します』


 階段を下りてすぐの教室にいる俊にメールする。同じ校舎内にいるのに、学年が違うと十数メートルの距離がとても遠い。今まではお互いが学内にいる時にメールでやり取りしているのを見て、わざわざメールしなくても、と思っていたが、放課後しか会えない上級生の俊と、日中に言葉だけでもつながれることが、たまらなく嬉しい。


 授業中は教室にスマホの持ち込みを禁止されているので、スマホをカバンにしまう。

 カサリ、とスマホを入れた反動で入れてあった封筒がななめ上方にずれてしまった。開封された封筒の中には、弓子にもらったイルミネーションイベントの招待券が入っている。

 枚数は沢山あるから、部のみんなで行っても大丈夫、だが。


「珠ちゃん、これ一緒に行かない? 巽君も誘って」

「わ、これ知ってる! 行きたかったんだ」

「招待券、沢山あるから、みんなで」

「嬉しい! ……けど」

「ん?」

「美矢ちゃんは、まず誘わなきゃいけない人がいるでしょ? さっきのメールの相手、とか」


 俊からメールが来たことはまだ話していない。疑問符を浮かべた美矢に、珠美はニヤニヤと嬉しそうに笑い、両手の人差し指で自分の頬を示して。

「さっきからスマホ見て、こんな顔しているんだもん、分かるわよ」

 思わず手で顔を覆い、美矢は俯く。手のひら越しに顔が火照っているのが分かる。


「とはいえ、照れ屋の高天先輩は、うまく誘わないと……よし!」

 珠美は美矢の倍以上の速さでスマホを操作し始め、その画面を美矢に見せる。

『作戦会議決行、お昼休みに集合! 場所は追って知らせます』

 メッセージの主は真実。

 ハートマークの飛び交うスタンプから、浮足立っている真実の様子が想像できて、苦笑いする美矢だった。





『ありがとうございます。体調は問題ありません。詳しくは部活でご報告します』

 美矢の返信を読んで、俊はスマホの電源を落としてリュックサックごとロッカーにしまう。

「真面目だな。毎回電源落としてるんだ」

「授業中に音が鳴ると困るし」

「サイレントにすればいいんだよ。ロッカーに入れておくならバイブでも大丈夫だと思うけど」

「でも使わないなら切っておいてもいいだろう?」

 

 そりゃそうだけどさ、とブツブツ言いながら、正彦は自分のクラスへ向かっていった。最近は朝や昼に俊のクラスに顔を出すことは珍しくなっていたが、今朝は和矢から欠席の連絡メールが入っていたと伝えにきた。同様のメールが俊にも届いていたが、『今日欠席します』という短いものだった。


 スマホデビュー三日目の俊は、そのあっさりした短文メールにも「体調が悪くて長い文章が打てないのかな」程度の感想しか覚えなかったが、正彦は「そっけなさすぎる」と文句を言っていた。

 正彦に促されるまま、美矢へ確認のメールを送り、体調不良ではないことを知って少し安心した。確かに和矢にしては言葉足らずなメールなのかもしれないが、自分でも(まだ、入力が遅いこともあって)きっと同じくらい、そっけないメールになるかもしれない。正彦の様子を見ると、頑張ってもう少し長い文章を打つようにした方がいいのかもしれない。普段から言葉足らずでコミュニケーション力が低い、と指摘されていることだし、せめて文章で伝えるくらいは、丁寧さを心がけよう。俊は、心のメモ帳にそっと「メールは少し長めに打つ」と刻み込んだ。


 そして昼休み、久しぶりに正彦と昼食を摂っていると、「そういや唐沢から何か連絡あった?」と訊かれた。

「いや。というか、そう言えば今日は斎も休みなのか?」

「選択の英語の時間、いなかったぞ。そっか、俊は授業かぶってないもんな」

 斎と同じ文系コースの正彦は、選択授業で一緒になることが多い。


 正彦に促されてスマホの電源を入れたが、メールの受信はなかった。


「まあ、和矢と違って、あいつはしょっちゅうサボるからな……なのに俺より成績いいのは何故だ?!」

「斎より下の順位のほとんどがそう思っているよ。まあ、内申点は低いかもしれないけど」

「そうだよな。授業中もアイツ教科書見てないし、ノートも取ってない……なんで筆記で負けるんだ?」

「斎に関しては、今更だろう? それでも一年の頃よりは学校に朝から来る日も増えたみたいだし」

「そっか、俺、一年の頃はあんまりアイツと絡むことなかったから、意識してなかったな。森本や加西にいじられて楽しんでいるところなんか、やっぱ巽の兄貴だよな、なんて思っていたけど。よく考えたら、昔は俊並みに人と距離取っていた気がする」

「まあ、確かに部活中もあんまり話さなかったな」

「あのさあ、唐沢……斎ってさ、森本のこと、好きなんじゃね?」

「?」

「加西はさ、巽の彼女だっていうのがあるし、幼馴染らしいから別として。三上とかと話している時とは、何かさ、最低限の礼儀は尽くして、必要な会話している、って感じなんだけどさ。ほら、あの二人も選択授業で一緒になるから、結構見かけるんだけど」

「ああ、そっか」


 部活以外ではあまり他の女子と接している姿を見る機会がない俊が知らない斎の様子を、正彦は目にしているのだろう。ただ。

「……でも、正直、その手の勘は、俺に期待しない方がいい」

「だよな。でもさ、気になるじゃん? その……」


「お前、森本さんのこと、気になるのか?」

「……」


 冗談のつもりだったのに、黙り込まれてしまった。よく見ると耳たぶが赤く染まっている。恋愛に疎い俊でも分かってしまう、素直な反応。


「え、っと……」

「なーんて、冗談だよ! あんな毒舌の斎をやり込めるようなの彼女にしたら、俺の豆腐メンタルはモタねーよ」

「そっか、よかった。森本さん、彼氏いるから、ショック受けたらどうし……正彦?」


「……そか、彼氏いるんだ……気の毒だな、……斎


「ああ、斎も昨日聞いて知っているし。別にショックな様子もなかったけどな」

 そっか、強いな、と乾いた笑顔の正彦の様子に、「斎を思いやって、本当に正彦はいいヤツだな」と俊は心の中で褒め称え。


 俊の「その手の(恋愛に関する)勘は期待しないで」という自己評価の正しさを、正彦も実感していたことには気付くことなく。



 和やかに、昼食時間は終わりを告げた。

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