3
駐車場の端に停められた大型のワゴン車の陰に身をひそめて、俊は二人の様子に聞き耳を立てていた。
とはいえ、距離があり、二人の表情も見えず、話の内容はほとんど聞き取れなかった。
「エイト!」
突然、健太が『シバ』の肩をつかみ、それを『シバ』が振り払うようにして突き飛ばした。
「……ット……俺の邪魔をするな! ……の仇を取りたいならな……」
そう叫んで、走り去っていく『シバ』を見送った後、健太も駐車場から立ち去っていった。
「『エイト』? それがアイツの名前?」
誰に聞かせるでもなく、俊はつぶやいた。他にも誰かの名前を言っていた様子だったが、俊の場所からは正確には聞き取れなかった。
ただ、突き飛ばされたとはいえ、それ以上健太の身に危害が及ぶことはなく済んだことに、俊は安堵した。もし、機会があれば、健太に訊いてみよう、そう考えて、帰宅のため駅に向かおうと振り向いた俊の目の前を、人影がよぎった。
「……正彦。帰れって言ったのに」
「あんな言い方されて、素直に帰れるわけないだろ!」
不機嫌さを隠さず腕を組んで立ちふさがる正彦の様子に、俊はため息をついた。
俊の黙秘や拒絶も、大抵の場合苦笑しながら受け入れてくれる正彦だったが、こういう態度の時は決して容赦してくれない。
経験的にそれが分かって、どう言い訳しようか考え、諦める。
そもそも言い訳する言葉が見つからないから、だんまりを決めるのが常なのに、「絶対話を聞かせるまで離れない」という決意を固めた正彦に適当な言い訳など通じないし、そんなうまい言葉見つかるはずもない。
「ここじゃ、話せない」
それでも一応先延ばしを試みるが。
「じゃあ、お前の家か、俺の家」
家に押しかけてでも絶対聞くからな、という確固たる意志を受け取り、俊は了承した。
最寄駅からの距離はさほど変わらないが、少し遠い正彦の家に行くよりも途中にある俊の家の方がいいということになった。何より兄弟と同室の正彦の部屋より一人っ子で個室の俊の部屋の方が、話はしやすい。
正彦がお気に入りの俊の母親は、久しぶりの訪問に大喜びして夕飯をごちそうすると言い出し、慌てて買い物に出かけた。今は家に二人きりだった。
俊の部屋に入ると、慣れた様子で、部屋の中央に座り込む正彦に、俊はクッションを放り投げた。
受け止めた正彦は、お気に入りのそれを抱きかかえてゴロンと横になる。
俊の部屋にあるが、かなり前に、俊の母親が正彦が使うようにと用意してくれたきり、それはずっと俊の部屋に置かれたままになっている。普段は部屋の隅っこに放置してある。たまに俊の寝具と一緒に母親が手入れしているので、ほこりっぽいことはない。
「もう、今日は泊まっていく流れかな……」
明日の朝ご飯は何にしよう、買い物に出かける時の母親のつぶやきを聞いていた俊は、それがほぼ確定の未来であると諦観し、無言で小さくため息をついた。
「ほら、ため息ばっかりつかない! 早く話さないと、ホントに泊っていくぞ」
「……話しても泊まっていくのは変わらないじゃないか」
「だって、お前の母ちゃん、すでにその気じゃん。なんであんなに社交的でいつでもウェルカムな母親から、俊みたいな閉店営業中の子供が生まれたんだろうな」
「閉店営業中って、矛盾してるだろ」
「閉店しているみたいに見えるけど、ドアを開けてみたらちゃんと営業していて、最低限の対応もしてくれるのに、自分からは客を呼び込もうとしない頑固おやじの旨いラーメン屋みたいな? 勇気出して入ってみれば、案外大丈夫で、ラーメンも絶品なのにな。拒絶しているように見えるけど、俊は自分の内側に入った人間は、絶対見捨てないし」
「……なんだよ、それ」
正彦は体を起こして胡坐をかき、膝の上に置いたクッションに両肘をつく。
「敷居が高く見えっけど、入ろうと決心すれば、あっさり入れてもらえる。絶対拒否らないし、分かりにくいけど、ホントはいいヤツ」
「……それは、違う」
正彦だから、正彦がいいヤツだから、そんな風に思ってくれるだけで。
「そうだって。俊は、自分のテリトリーに入られるのが嫌なんじゃなくて、その結果傷つけるかもしれないってビクついているだけなんだよ。正直、俊を本気で怒らせるなんてこと、めったに起きないんだから怯えることないのにさ」
「……そんなことない」
「あるさ。俊が怒る時は、そのほとんどは、俊じゃなくて、俊が大事に思っている誰かが傷つけられそうな時じゃん? 自分のためじゃない。俊にちゃんと関わってくれたヤツは、みんな俊のこと、
文化祭以降、正彦がサッカー部の勧誘をしてこなくなったことに、俊は気付いた。
俊がケガをしていたからとか、夏の大会が終わって引き継ぎで忙しかったとか、そういう理由ではなく。
美術部に、俊の居場所があることを、知ったから。
「……ごめん、お前の気持ち、わかってなかった」
「まあ、俺も強引だったし。……そういえば、スマホ欲しいって言いだしたの、誰のため? 和矢の妹?」
「な……!」
「でもないか。あの子もちょっと浮世離れしてるって言うか、『センパイとメールしたいです』とか、そういう俗なこと言わない感じだし。三上も。森本はすぐ言いそうだけど。『メールできなくて不便じゃない?』とか」
確かに、ほとんど同じセリフを真実に言われた。ただ『でも、そこが高天クンらしいところよね』と強要することもなかった。
「別に、誰かのためじゃ……」
しいて言うなら、お前の電話攻撃のせいだ、という言葉を俊は飲み込む。
「はあ、まさか仲間どころか、先に彼女まで作られるとか、俺の立つ瀬ないよね」
「な! まだ彼女とか! そんなんじゃ!」
「へえ、『まだ』、ねえ」
にんまりする正彦の笑顔に、俊は自分の失言に気付いた。
「クリスマスまでにはバシッと決めろよ」
「だから違う!」
「はいはい。で、さっきのあいつらは何? 何かトラブっているのか?」
「いや、健太は……」
突然話題を変えられて、俊は面食らい、口が滑った。
「へえ、ケンタって言うんだ? 両方とも、どう見ても年上だけど、名前呼びするような間柄なんだ?」
「別に、いいだろ」
「ま、正直ジェラシーは感じるけど、それは置いといて。で、『エイト』って? もう一人の方? あの感じだと、怖いくらいイケメンの方が、『エイト』かな?」
「……分からない。でも、多分。……俺には、『シバ』って名乗ったけど」
「『シバ』……? って、どこかで聞いたような……え?」
その名に思い当たったらしい正彦が、真顔になる。
「あの……『シバ』?」
「……この間、お前との待ち合わせをすっぽかした日、あいつから声をかけてきたんだ。困っていたら、通りかかった健太が、助けてくれた」
「あの台風の前の日? おま……何で言わなかったんだよ?!」
黙っていたのは、話したくなかったからではない。
あの日、助けてもらった健太に問われても、俊は『シバ』の関わった出来事について話すことができなかった。話そうとすると、須賀野に傷つけられた時の記憶がよみがえり、痛みと恐怖に体も心も強張ってしまい、息もできずパニック状態に陥ってしまった。
けれど、健太は何も聞かず、ただ安心させようとそばにいてくれた。話したくなったらいつでも話して、と受け止めてくれた。自分が守るから、と約束してくれた。
今度会ったら、きちんと話そう、そう決意した時から、その名を口にすることに、以前ほどは恐怖を感じなくなっていた。
とはいえ、決して好んで話したいわけではない。もっとも、健太との出会いを、そのきっかけとなった『シバ』との出来事を話していなかったのは、また別の理由があるのだが。
「……言えなかった。と言うか、説明しようがなかった」
「?」
「あの時、『シバ』……『エイト』が使ったのは、あの力だ。俺と同じ……正彦は、気付いているんだろう? 俺が、普通じゃないって」
「何を……」
「俺が……俺は、人を傷つけたって……得体のしれない、何かの力で……」
三年前の、サッカーの試合で。はじけたのはサッカーボールだったけれど、その力は、人の皮膚も切り裂いた。
「違う! あれは事故だ!」
「違う……あれは、俺がやったんだ」
「……だとしても、不可抗力だ。アイツは、お前を傷つけ、侮辱した。お前が怒りを覚えるのは、当たり前のことだ。それに、あの頃はまだ
「今だって、まだ
「起きないよ、そんなこと」
「だって!」
「あのな、人は誰だって、嫌な事されたら怒る。怒って、やり返すことだってある。大したことじゃないのに、怒って、感情的になって仕返しするヤツもいるかもしれないけど、お前はその逆だ。不機嫌にはしているかもしれないけど、本当にひどいことされたりしなければ、いや、されたって、お前は我慢しちゃう方だしな。さっきも言ったろ? お前自身を怒らせるなんて、よっぽどのことだ」
「……そうだな。でも、こうも言ったよな。俺を怒らせるとしたら、それは俺自身じゃなくて、俺の大切な周囲の人が傷つけられる時だって」
「それは、確かに言ったよ。だけど! だけど、お前がそれで怒りを爆発させるなら、それは相当相手の方が悪い。俊が気に病む必要はない」
「それは、詭弁だ」
「いいや。そんな怒りを感じている時ですら、お前は自分を止めようとしていたんだ」
「え?」
「あれは、お前の怒りのせいじゃない。お前を守ろうとした、何かの力、だ。お前は、それを必死に、止めていた」
「正彦……?」
お前は、何を、知っている? あの時、何を見たんだ?
「『この身を、この誇りを傷つけるものは許さない』」
「?」
「あの時、お前はそう言っていた。お前の声なのに、別人だった。でも、すぐに今度はお前の声で『やめろ、ダメだ、やめろ』って、言ったんだ。……お前は、覚えていなかったみたいだけど。だから、俺も黙ってた。……ゴメンな」
「正彦……」
謝るな、と言いたかった。けれど、同時に、どうして今まで話してくれなかったのかと、責める気持ちもあった。三年間も黙って、どんな気持ちで、そばにいたのか。
相反する二つの思いが渦巻いて、俊は続ける言葉が出なかった。
「ゴメン、今日は帰るよ。おばさんに、腹が痛くなって帰ったって謝っておいて。スミマセン、って」
正彦はクッションを自分で部屋の隅に置くと、リュックサックを背負い、部屋を出る。
俊は無言で後に続き、玄関までついていく。
しゃがんで靴を履く正彦の背中を見つめながら、俊はかける言葉を探していた。
正彦は、俊の心中を察して、急に帰ると言い出したのだろう。俊自身、これ以上正彦といたら、責めてしまう気がして、それも怖かったから、今は離れたかった。
けれど、このまま別れてしまったら、もう元には戻れないかもしれない。でも、何て言ったらいいのか……様々な言葉が、俊の頭の中を巡るが、選ぶことができなかった。
「じゃあな」
正彦は立ち上がり、ドアノブに手をかける。
「あ……」
「月曜日の朝、迎えに来るから、一緒に学校行こうな」
振り向きざま、正彦は言った。いつもと変わらぬ笑顔で。
それは、今後も俊と正彦の関係が変わらない、変えない、という宣言にも聞こえた。
俊は無言でうなづき、正彦を見送った。
振り向いて手を振る正彦の笑顔が、胸に染みた。
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