4
目を開けて、最初に目に入ったのは、見覚えのない砂目模様の天井だった。
「目、覚めたかな?」
ぼんやりとしながら、横になったまま声のした方に顔を向ける。
心配そうに少し眉をひそめた若い男性の顔が目に映る。俊と目が合うと、安心させるように、そっと微笑む。
「……ムルガン……え?」
自分がつぶやいた言葉に、俊自身が驚く。
聞き覚えのない名前。それが「名前」だと、なぜか分かっていた。
「……誰?」
起き上がって、そこがベッドの上だと気付く。
おずおずとベッドから降りようとするのを男性が止め、そのまま腰かけた。
足元には俊のリュックサックが置いてあった。
「……ま、俺もまだよくわかってない……とりあえず」
どうぞ、と差し出される缶を、反射的に受け取る。ほんのり温かい、缶コーヒー。冷たくなった指先に、じんわりとした熱が沁みる。
「ごめん、飲み物とかなくて、下の自販機で適当に買ってきたから。高校生? だよね。ブラックとかの方がよかったかな?」
俊に手渡されたのは、カフェオレだった。飲めないわけではないが、普段はミルク砂糖入りでないものを買うことが多い。
「まわりが甘党ばっかりなんでつい。俺の知り合いの高校生もさ、砂糖は控えめだけど、とにかくミルクがないと不機嫌でさ」
「大丈夫……です。いただきます」
プルトップを上げ、缶を開けると一口含む。疲労のためか、いつもは苦手な甘みが、心地よかった。それを見て安心したように軽く息を吐くと、部屋の隅の机から椅子を持ってきて、俊の斜め前に座った。
しばらく無言で、缶コーヒーを何度か口に運ぶ。まだ温かい缶を両手で包むように持ち、床を見つめていたが、思い切って顔を上げ、男性に目を向ける。
「あの、助けてくれたんですよね……ありがとうございます」
「いや、助けた……っていうのかな? 気が付いたら、ここにいたんだけど」
男性は困ったように頭を掻きながら、斜め上に目をそらした。
「とにかく、隠れなくちゃ、逃げなきゃ、あ、でもカメラ部屋に置きっぱなしだ、とか思っていたら、部屋に戻ってた。あ、俺カメラマンの卵なんだよね」
一気にまくしたてると、ハハハ、と目を細めて照れ笑いする。ほぼ初対面なのに、警戒心を感じさせない、人好きのする笑顔。人見知りしがちな俊が、助けてもらった恩があるとはいえ、全くと言っていいほど緊張を感じない。
「気が付いたらここにいた」とか、状況はよく分からないが、ここが安全な場所である、と妙に納得して、俊は再び缶コーヒーを黙々と口に運ぶ。それを、男性も無言で見守っていた。
コーヒーを飲み干し、空になった缶をしばらく弄んでいると、男性が「もらうよ」と手を差し出した。
「いえ、自分で片付けます」
「いいよ、缶用のごみ捨て用意してないし。外いく時に自販機とところに捨ててくるからさ」
半分腰を浮かせて、空き缶を受け取ろうとさらに手を伸ばしてくる男性から、俊は逃げるように、身をよじって空き缶を抱え込んだ。
「いえ、だったら自分で帰る時に捨てます」
「……じゃあ、お願いするよ」
頑固に言い張る俊に苦笑して、男性は手を引き、椅子に座り直す。
再び沈黙の時間が訪れたが、今度は男性も耐え切れなかったのか、すぐに口を開いた。
「えっと……まだ、名乗っていなかったよね。俺は、笹木健太、二十二歳。さっき話したように、駆け出しのカメラマン。仕事で、一月くらい前に引っ越してきたばかり」
「あ、高天、俊です。高校二年生、です」
「高校生……
「はい。……あの?」
地元民であればセキコーで通じるが、越してきたばかりの健太が、その略称を知っていたことに、少し驚いた。
「ああ、知り合いの子たちが通っていて、会話の中でよくそう呼んでいたから」
男性は俊の言葉足らずの疑問を読み取って、笑顔で説明を加えた。
「で、さ」
不意に男性は真顔になった。
「なんて呼べばいいかな? ……シヴァ?」
息をのむ俊の手から、空き缶が床に落ちて、カツン、と音を立てて転がった。
男性は、さっと、それを拾い上げ、床に置き直し。
「それとも……
「今、なんて……?」
「さっき、俺を、『ムルガン』って呼んだよね?」
「……はい」
「それって、何だか知っている?」
「いいえ……。ただ、誰かの名前かな、とは、何となく」
日本ではない、どこか外国の、言葉。どこか、懐かしい、名前。
「じゃあ、俺が今言った『ピター・ジー』って、何だかわかるかな?」
「いいえ。外国語かな、とは思いますが」
「そうなんだ。知識として知ってる、ってわけじゃないんだね。俺が今言ったのは、インドの言葉で、父親への呼びかけ方のひとつなんだ。そして、『ムルガン』は、神様の名前」
「神様……」
「日本で言うところの、『韋駄天』だね。正確には、その幼名。幼児とか、少年の姿の軍神で、孔雀に乗っている姿であらわされることが多い。インドでは、人気のある神様の名前を子供につけることも多いから、個人名としても、結構いる」
「韋駄天……」
それなら、俊にも聞いたことがある。仏教の神様の名前だ。
「俺も、昔はその名前で呼ばれていた。十歳くらいまでかな。俺はインドで育った孤児で……親がいなかったから、一緒に暮らしていた父親代わりの人が、そう名付けてくれた。日本人の親に引き取られた時に、日本風に名付け直してもらって、『健太』になった」
あけすけにプライベートな事情を明かす健太に、俊は、暗に自分にも同程度の情報開示を求められているような強迫感を覚えた。
強張った俊の顔をみて、健太は急に両手で自分の頬をグリグリ揉んで、パシッと音を立てて叩いた。
「ごめん、ごめん。俺怖い顔になってたね。今の話は、そう重く捉えなくていいから。友達少ないから、知っている人も少ないけど、別に秘密にしているわけでもないんで」
ニィっと口角を上げて、あっけらかんと話す健太の笑顔に、嘘はないように感じた。俊は脱力して、ホッと息を漏らす。
「で、話は戻るけど。俺が、かつて『ムルガン』って呼ばれていたことは事実で、その頃のことを知っているやつは、今でも二人きりだと俺をそう呼ぶ時もある。あくまで、二人きりの時には、だ。君が、それを知っていたわけじゃないことは、今までの反応で分かる。なら」
笑顔を崩さないまま、今度は目だけが真剣になる。
「俺を『ムルガン』と呼んだのは、なぜなんだろう?」
「……自分でも、よく分からないんです。あの時、あなたが来てくれて、でも、実は俺には、あなたの顔も見えていなくて、声しか分からなくて。ただ、『守らなくてはいけない』って、そう思って……理由は、分かりません」
俊にしては、いつになく饒舌に、言葉が出てくる。
「『守らなくて』か。自分が大変なのに、『助けて』ではなく。……これは、愛、かな」
「?」
「さっき、『父上』って言ったのはね、『ムルガン』が息子だからだよ」
「息子?」
「『ムルガン』は、インドの最高神の一人、『シヴァ』の子供なんだ」
「……なぜ……その名を? 話を聞いていたんですか?」
「話? ……ああ、あの時のアイツと、そんな話をしていたんだ? ……それは、聞いていない」
「……『シバ』って、似てるけど、それも神様の名前なんですか?」
「『シバ』? うーん、発音の違いだけで、『シヴァ』のことだと思うけど」
「同じ、なんですね」
「神の名として使ったのなら、多分」
「……あの人は、自分は『シバ』で、でも本当は俺が『シヴァ』なんだって、言ったんです。だけど、俺には分からない。『シヴァ』って言われると、何だか胸が押しつぶされそうに苦しくなる。あの人の名が『シバ』だって、聞いたから怖いのか、違う理由なのか、何が何だか、分からないんです」
「さっき、自分でもいってたろう? 俺にも、よく分からない。理由も。でも、そう思った。俺は『ムルガン』で、この子は……この人は、『シヴァ』で、俺が『守るべき人』なんだ、って」
そのまなざしは、『シバ』に『シヴァ』と呼びかけられた時とは違う、思慕と敬愛の念に満ちていて。
「……あなたに、その名で呼ばれるのは、……怖くないです」
「アイツは、怖かった?」
俊は、一瞬押し黙り、静かにうなづいた。
「あの男は、自分を『シバ』だって言っていたのか?」
「はい……」
「さっきからの話の感じだと、『シヴァ』のことも、神様の名前って知らなかったのかな?」
「世界史で習ったような記憶もあるけど、あの時は、思い出しもしませんでした」
「でも、あいつが『シバ』って名乗った時、怖いと思ったんだ? 俺みたいに、何か感じたのかな?」
「……感じるとか、そういうんじゃなくて……でも、その名前は、知っていました」
「知っていた……?」
「知って……い……ッ!」
答えようとして、喉を詰まらせたように言葉に詰まり、同時に俊はガタガタを震え始めた。
青ざめて苦しげに息を殺す俊を背を、健太はそっとさする。
「言わなくていい。ここにはアイツはいない。大丈夫、静かに、ゆっくり息をして……」
「…………ッ、フゥ……ハァハァ……」
やがて、呼吸を思い出したかのように、静かに息を吐きだす俊の背中を、無言で、穏やかな笑みを見せながら、健太はゆっくりさすり続けた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。……今は聞かないから。また、話したくなったら、その時は聞かせてくれ」
「……すみません」
「いいよ。アイツが何者だろうと、俺は君を守るだけだから」
健太としては、安心させるつもりで言ったのだが、俊は複雑そうに視線を落とした。
「守られたくない」
「?」
「『守るのは、こっちだ』って、言ってる……気がする」
「……これは、愛というより、プライドの問題か」
やれやれ、と冗談めかして、健太は立ち上がる。空き缶を持ってキッチンに向かい、空いていた窓を閉めた。
「ルドラの危機に、嵐も刺激されたかな」
「ルドラ?」
「うん、嵐の神ルドラ。『シヴァ』の別名、っていうか、元になった神様の名前。……風が強くなってきたね。送っていくよ。高天君。まだ、いろいろ聞きたいことはあるけど。台風が近づいてきそうだから、早めに帰った方がいい。電車?」
「あ、そう、です」
「タメ語でいいよ。俺も、年下の君を、『父上』とか『父さん』と呼ぶのはどうかと思うし。対等ってことで。俺のことも、できれば『ムルガン』でなく、健太とか笹木とか、そっちで」
「……わかった、笹木さん」
「うーん、なんかこそばゆいな。健太、でいいよ。呼び捨てで。俺も、俊、って呼ぶよ」
「え、っと……健太?」
「うん、なんだい、俊?」
「……いろいろ、ありがとう」
「真面目だなー、俊は。まあ、そういうやつ、俺は好きだけどね」
結局、心配だからと家まで送ってくれた健太と離れがたい気持ちで別れ、帰宅した俊を待っていたのは、怒涛のように正彦からの安否確認の電話が来ていたことを知らせる、母親のため息交じりの言葉だった。
……本気で、そろそろスマホの購入を検討しようかな。
別れ際にもらった健太のスマホの電話番号を書いたメモを、パスケースに畳んでしまいこんでいると、リビングの電話が鳴る。
目で合図する母親に促され、おそらく正彦から質問攻めにあうだろう今後の展開を予想しながら、重い気持ちで俊は受話器を取り上げた。
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