ラストオレンジ

オブリガート

***


 秋の夕焼けは悲しいほど美しい。


 水溜まりの淵で佇みながら、わたしはぼんやりと物思いに耽っていた。


 水面みなもに映る自分の顔の、なんと醜いことか。


 花の盛りはとうに過ぎてしまった。


 きっと自分は一生パートナーを見つけられず、子孫も残せないまま孤独に死んでいくんだわ…。


 刹那、水面に波紋が広がった。


 見上げると、優しい笑顔がわたしを見下ろしていた。


 わたしは一目で彼に惹かれ、差し出された両手の中へと飛び込んでいった。


 “彼ならきっとわたしを愛してくれる”――――そう信じて。


 ところが彼はわたしの自由を奪い、執拗にカラダを玩弄した。


 それでも彼を信じ続け、わたしは長い暴虐に必死で耐えた。


 なのに彼はわたしを、あっさりと打ち捨てた…。


――――ひどい…。ひどいわ…。


 散々弄ばれ、身も心もボロボロになったわたしに、もはや動ける力は残っていない。


 地面の振動と共に、車輪が勢いよく近付いてくる。


――――どうして……?ねぇ、どうしてこんなことするの?!


 引き裂かれる体。襲う激痛。狭窄する視界。


 闇に浸食されていく夕焼けはまるで今の自分のようだ。


 その視界に最後に収めたのは、悲しいほどに美しい夕焼け。


 そして――――


 夕闇を切り裂くように舞う、ひとひらの羽根だった。


  

   




***


 

 轟音と共に列車が通過し、冷たい早朝の風が令子れいこの制服のスカートとリボンをなぶった。


 ほどなくして遮断機が上がり、令子はゆったりとした足取りで踏切を横断する。


 反対側から歩いてきた男子学生と肩がぶつかり、令子はよろめいた。


「きゃっ」


 男子学生がとっさに令子の腕を掴んで支える。


「すみません、大丈夫ですか」


「は、はい…」


 令子は眼鏡の位置を整え、つぶらな瞳で男子学生を見上げた。


 その相貌を捉えた瞬間、例えようのない激しい動悸が突き上げた。


「どうかした?」


 整った顔に優しい笑みを浮かべて彼は問う。


「いいえ、なんでもありません」


 令子は男子学生から身を引き、逸る足取りで踏み切りを渡り切った。


「ねぇ、待ってよ」


 思いがけず男子学生が追いかけてきた。眺めまわすように令子の全身に目を走らせ、彼は言う。


「同じ中学だよね?」


「……えっ…?」


「リボンが赤いから、二年生。ってことは僕と同じ学年だ。見かけない顔だけど、どこのクラス?それにどうして学校とは反対の方向に向かって歩いてるの?」


 令子は戸惑いがちに俯き、小さな声でぼそりと答えた。


「家に忘れ物しちゃって、取りに戻るところなの…」


 もう一つの質問には答えなかった。しかし彼もそれ以上は尋ねてこなかった。


「そっか。学校、間に合うといいね」


「……うん」



 令子は家にも学校にも行かず、夢遊病のように何時間も町内をうろついていた。


 あの少年の顔が脳裏に焼き付いて離れない。


 目と目が合ったあの瞬間、心なしか昔どこかで出会ったような妙な既視感を覚えたのだ。


 そして今は、得体の知れない黒い感情が心を占めていた。


 爽やかで親切な少年だというのに、腹の底で蠢くこの憎悪の原因は一体何なのだろう。


「あら…?」


 ふいに令子は不思議な感覚を覚え、商店街の一角で足を止めた。


 目に留まったのは白い外壁に覆われた小さな店。


 可愛らしいアーチ型のドアには花の紋様が刻まれている。


――――こんな場所にお花屋さんなんてあったかしら?


 首を傾げながらも、令子は誘われるように店内へ入っていった。


 噎せ返るような甘い香りが鼻腔を撫ぜ、視界いっぱいに色取り取りの花が広がる。


 そこは花屋というよりも、花園といった方が近いような気がした。


「いらっしゃいませ」


 鈴の音のような凛とした声が響いたかと思えば、花の簾の向こうから美しい少年が姿を現した。


 抜けるような白い肌に麦穂のような淡い色の髪。華奢な体には白いチュニックを纏い、その口元には妖しい微笑が広がっている。


 少年の妖艶さに魅了されると同時に、令子は底知れぬ恐怖を抱いた。どうも人間らしさを感じないというか、どこの領域にも属さない異質な雰囲気が漂っていたのだ。


「あ、あのう…私――――」


 たじろぎながら後退る令子に、少年は優しい眼差しを向けて言う。


「彼と再会したんですね」


「えっ?」


 令子は驚いて目を見開いた。


「どういう意味ですか?」


「おやおや…すっかり自分の目的を忘れてしまっているようですね」

  

 少年は令子に一歩詰め寄り、懐から可憐な紫色の花を一本取り出した。


「あなたに差し上げましょう。忘れたままでは望みを叶えられないでしょうから」


「あ…ありがとうございます」


 花を受け取った瞬間、脳裏に閃光が過った。


 忘れていたあの日の記憶が、堰を切ったように流れ込んでくる。


「ああ…!」


 令子は全てを思い出した。恐怖も戸惑いも消え失せ、もはや残っているのは憎悪だけだった。


「ふふ…やっと全部思い出してくれたんですね」


 令子は頷き、そのまま何も言わずに店を出ていった。 





 赤く染まった大空をカラスが群れをなして飛んでいく。


 踏切警報機が鳴り始め、下校途中だった純一は遮断機の手前で足を止めた。


 地面に数匹の蟻を見つけ、退屈しのぎに爪先で一匹ずつ潰していく。


「どうしてそんな酷いことするの?蟻さんが可哀想だよ」


 ふいに背後から声を掛けられ、純一はぎょっとした。


 振り返ると、丸眼鏡を掛けた制服姿の少女が立っていた。朝、登校途中にここで会った同じ学校の女生徒に間違いなかった。


 しかし今朝とはまったく雰囲気が違う。元々物憂げな感じの女の子だったが、今はそれを通り越して病的な感じさえする。


「ねぇ、どうして?どうしてよ?」


 少女はくつくつと狂ったように笑った。純一は凄まじい悪寒を覚え、思わず少女を突き飛ばした。


 少女はよろめきながらどうにか体勢を整えると、背中の後ろから一本の切り花を取り出した。


「うふふ…。ねぇ、この花の名前、知ってる?」


 問い掛けながら、一歩ずつ純一に迫っていく。


「あのね、私、今はこんな姿をしてるけど、前はトンボだったんだよ」


「はぁ…?」


「だけどあなたに殺された。目玉をつつかれたりお腹を抉られたり翅を毟られたりして何時間も甚振られたあと、動けなくなった私をあなたは自転車で轢いてとどめを刺したよね。すごく痛かったし苦しかったし惨めだった…。でも死ぬ直前に天使さんがやってきてね、条件付きで私を人間の姿に変身させてくれたの」


「お、おい…お前、頭大丈夫か?病院行った方が――――」


「この花の名前はトリカブトっていうんだよ。それと花言葉はね――――」


 少女は言葉を切り、花を持つ右手を高く掲げた。その瞬間、夕日に照らされた花が瞬く間に大鎌へと変貌した。


「……“復讐”だよ」


 恐怖のあまり純一はその場に尻餅をついた。

 

 青ざめ、ガチガチと歯を震わせる純一を見下ろし、少女は喜悦の笑みを浮かべる。


「あなたに私と同じ痛みを味わわせてあげるね」


「やっ…やめ――――うわぁぁぁぁぁぁ!!」


 少女は純一の両目を抉り、腹をかっ捌き、そして首をはねた。


 頭は血飛沫を上げながら線路上に投げ出され、タイミング良く通過した列車によってその原型は完全に失われた。


「あははははは!」


 返り血で全身を真っ赤に染めながら、令子はけたたましく笑った。


 大鎌は元のトリカブトに戻り、令子の偽物の肉体も少しずつ崩れていく。


 視界の端で白い影が過り、足音もなく少年が現れた。


「願いも叶ったようですし、約束のものをいただいてもいいですか?」


 令子は少年を振り返り、ふっと清々しい笑顔を向けた。


「私の“魂”…でしょ?いいよ、全部残らず持っていっちゃって」


 少年は令子に近付き、額にそっと手を当てた。


「ねぇ…」


 残った最後の力を使って令子は尋ねる。


「私の魂はどうなっちゃうの?また新しい生命体として生まれ変わるの?」


「いいえ。あなたの魂はこれから分解され、僕の世界を存続させるための糧となります。天界へは行けないので、あなたはもう二度と生まれ変わることはないんですよ」


「そっか…。“取引き”って、そういう意味だったんだ。じゃあつまり、あなたは天使じゃないんだね。天界の使いじゃないのなら、あなたは一体何者なの?」


 返事の代わりに少年はふっと柔らかな微笑を浮かべる。


 消失する最後の瞬間、令子の目に、少年の真の姿が映った。


 その背には、闇よりも黒い翼が広がっていた────





《終》


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