四 紅梅

 うずいすの泣く声が聞こえる。

 泉は、空を見上げた。

 すると、一羽の鶯が、庭の真正面にある桃の木にとまり、ホケキョともう一度鳴いた。

「春霞流れる青柳の枝くひ待ちて鶯鳴くも」

 泉は、大姫が口ずさんでいた古歌を一つ口にした。

「万葉集か」

 と、その時だった。ふいに縁の方から声がかけられた。

 泉は、はっとなって入り口の方を見る。

 頼朝が縁に立って、泉が見ていた梅ノ木を見上げていた。

「御所様」

 泉は、床に手を付いて頭を下げた。

「久しぶりだな、泉」

そう言って、頼朝が部屋に入って来る。

「面を上げよ泉。由衣ゆいは元気にしておるか?」

「はい。毎日つつがなく、お過ごしです」

「気は使わなくて良い。けっこう、お前に好き勝手なことを言っているようではないか」

 苦笑いを浮かべて、頼朝は泉の前に座った。

 そこは、身分の高い者が座るべき場所だった。

 以前は、大姫が座っていた場所だ。

「早いものだな。大姫が亡くなってから、もう半年以上も経ったのか」

 そうして、頼朝は鶯が去った梅ノ木をまた見上げた。

 建久八年七月十四日。

 今から八ヶ月前。

 大姫が亡くなった。享年二十歳だった。

 あれから。

 大姫は、しばらく寝込んでいた。

 呆然自失の状態で、何をする気も起きなかったようだった。

 けれど、熱心に自分を看病してくれる泉や、毎日様子を見に来る頼家、見舞いに来て、姉の姿を見たとたん泣きそうな表情になった、三幡と千幡。

 そんな彼らの自分を心配する様子を見ているうちに、色々と考えたようだった。

 大姫の、死の一歩手前まで行った体は、完全に衰弱していた。

 正直、このまま死んでもいい、と思っていただろう。 

 けれど。

 泉が必死に大姫を看病して、頼家や三幡や千幡が暇を見つけては見舞いに来るうちに、大姫は、褥から半身起こせるようになるまで、回復していった。

 顔色の良くなった大姫を見て、泉達はとても喜んだ。

 政子が見舞いに訪れ始めたのも、この頃だ。

 政子は、娘が意識を回復した後も、すぐには見舞いには訪れなかった。

 大姫の看病は泉に任せて、裏で他の者達が手助けしやすいようにしてくれたが、決して自分からは訪れようとはしなかった。

 おそらくは、自分が訪れることで、大姫の負担になってしまうのでは、と思っていたに違いない。

 そしてそれは、頼朝も同様だった。

 「鎌倉幕府」というものを打ち立てた代償に、払った犠牲がどんなものだったのか、実感したのかもしれなかった。

 政子が大姫の見舞いに初めて訪れる時も、阿古夜を通して、泉から大姫の様子を何度も聞かれたし、医師にも相談したようだった。

 政子の見舞いを受けた大姫は、何も言わなかった。

 ただ黙って、自分を気遣う言葉を言う政子を、じっと見つめていた。

 その日を境に、ぼんやりと周囲を見渡していた大姫の瞳に、意志が宿ったような輝きが現れた。

 それまで眠ってばかりいた大姫が、ご飯もわずかながらも食べるようになって、起きている時間も長くなっていった。

 そうして。

 少しずつ、大姫が回復していったある冬のこと。

 半身を完全に起こせるぐらいまでは回復していた大姫は、初めて自分の見舞いに訪れた頼朝に、出家を願い出たのだ。

 そのいきなりの申し出は、泉はもちろん、周りの者は誰一人として知らされていなかった。

 当然頼朝は拒否したが、あろうことか大姫は、頼朝の目の前で、隠し持っていた小刀を使い、髪を切ったのだ。

 そのことに衝撃を受けた頼朝は、大姫に謹慎を命じた。

 泉も、大姫の世話は控えるように注意された。

 けれど、閉じ込められた部屋で、大姫は隠し持っていた小刀で、再び短くなった髪を、さらに切ったのだ。

 そのことを阿古夜から聞いた政子は、自分が作った尼僧着を、大姫に渡した。

 当然、頼朝は激怒した。

 大きな声で叫んでいる声が、阿古夜に付き従って、政子の部屋の控えの間にいた泉にも聞こえた。

 けれど、政子は頑として夫の言葉を拒絶した。

『あの子が、己の命をかけてまで決めたことです。私達には、止めることはできません』

 その凛とした言葉には、さすがの頼朝も言葉を返さなかった。

『御所様も、わかっていらっしゃるのです』

 その後部屋に下がった時、阿古夜が言った。

『だけど、どうしてもご納得できなかったのでしょう。ご自身が信じる「幸せ」が、大姫様を少しも幸せにしないということを』

 けれど、出家して名前も「蓮暁れんぎょう」と改めた大姫は、見る見るうちに体を回復していった。

 そうして、完全に回復した大姫は、泉と一緒に小御所の中に建てられた、小さな離れに移った。

 そこでの生活は、今までとは全然違った。

 「蓮暁」と名前を変えたけれど、あいかわらず、頼家や三幡や千幡がそこに訪れた。けれど大姫はそれまでのように毎日ほとんど寝て過ごすことはしなくて、仏教の教えの本を読んだり、写経をしたりするようになった。

 そんな日々の中、今まであまり興味を示さなかった歌のことを書いた本を読むようになって、時々は自分でも歌を作るようになっていった。

 泉も大姫に教えてもらいながら、遥か昔に作られたという「万葉集」や、京の都の人達が作ったという「古今和歌集ここんわかしゅう」、を一緒に読んだ。

 「源氏物語」や「竹取物語」と言った物語も、大姫は読んで聞かせてくれた。

 時には、頼家や三幡、千幡とも歌を作ったりした。

 頼家や三幡は、歌を作るのはあまり得意じゃないようで、いつも唸りながら作っていた。

 一方、千幡の方は幼いながらも、つたない言葉で、なかなか良い歌を作っていた。

『良い歌ね』

『本当、千幡は上手く作るなあ』

『すごい、千幡!』

 姉兄達に口々に褒められて、千幡は照れたような、でもうれしそうな顔をしていた。

 大姫の姿は尼姿になったけれど、姉弟の仲の良さはかわらなくて、特に頼家は大姫と親しくしていたことを隠さないですんで、気が楽になったみたいだった。

 確かに、大姫は出家して尼になった。

 でも、それで良かったのだ、と笑いあう姉弟達の姿を見て、泉は思った。

 ただ、身内的にはそれで良くても、対外的にはそれではまずかったらしい。

 特に大姫は全ての武士の頂点に立つ、頼朝の一の姫だ。

 正室を母に持つ嫡流の姫として、やはり他の御家人達が「望む姿」というのがあったのだ。

 それは、「天皇の妃」というものだった。

 一度天皇への入内の話が出た以上、「出家をしましたので、取りやめます」というのは、御家人達に対しても、そして京の貴族達に対しても、言えないことだったらしい。

 だから。

 頼朝は大姫の出家を認めはしたものの、体外的には、大姫の出家を秘密にした。

 そうして、大姫の「影武者」を連れて来たのだ。

 大姫とどこか面差しが似た少女は、大姫の異母妹で、名は由衣と言った。

 泉も大姫も、由衣のことは知っていた。

 それは、由衣が自分から大姫の住む離れを訪れて来たからだった。

 建久6年(一一九五年)。二月十四日に、頼朝は家族を皆連れて京に上洛している。

 その少し前に、大姫が以前使っていた小御所の部屋に由衣が入ったとは、訪れて来た頼家から聞いていた。

『内々に父上に引き合わされたけど、何かとても威圧的だったな』

 けれど、大姫も泉も後のことは頼朝にまかせるしかない、と思っていた。

 特に大姫は自分の影武者を立てられたことに、怒りを感じていなかった。

 ただ、遠目にその由衣が自分達の住む離れを見に来た時、勝ち誇った表情をしているのを見て、少し複雑そうな顔をしただけだった。

 そうして、由衣が立ち去った後、泉に言ったのだ。

『父上は、あの子をどうなさるのかしら?』

『大姫様?』

『私の代わりにあの子が天皇の妃になると言うだけなら、話はわかるの。だけど、私の身代わりとして入内するなら……』

『同じことじゃないんですか?』

 泉は、大姫の言葉に首を傾げながら言った。

 大姫の代わりに入内すると言うならば、別にあの由衣が「大姫」として入内してもたいして変わらない、と泉は思った。

 だが大姫は、

『全然違うわよ、泉。あの子が私の身代わりになれば、あの子は今までのことをすべて隠して生きなければならないのよそれは、あの子が生きてきた今までのことを否定することになる。そんな人生は……哀しすぎるわ』

と言った。

 泉には、やっぱり大姫の言うことの意味が、その時はあまりよくわからなかった。けれど、今ならわかるのだ。

 大姫は、異母妹である由衣が「大姫」として生きていかなければならないことを、案じていた。

 本当の名を呼ばれることもなく、周りを欺き続けることになることにはなって欲しくないと思っていたのだ。

 だが由衣の方はそんな大姫の心配にも気付かず、「いずれは天皇の妃になれる」という思いもあって、得意の絶頂のようだった。

 都から帰った後も、由衣は小御所の大姫の部屋に滞在を続け、対外的にも大姫として振舞った。

 けれど、頼家も三幡も千幡も、由衣のことはあまり好きではないらしく、彼女がいる大姫の部屋には近付かずに、泉と「蓮暁」としての大姫がいる離れにしょっちゅう来ていた。

 そして歌を詠んだり、一緒に食事をしたりして、穏やかな日々を過ごした。

 だけど。

 去年(一一九七年)の夏。

 七月十四日。

 源頼朝の長女・大姫死す―享年、二十歳。

 大姫は、逝った。

 年が明けた頃から体調を崩すようになって、寝付くことが多くなった大姫は、日に日に弱っていって、最後は眠るようにして逝ってしまった。

 大姫の死を、誰もが哀しんだ。

 特に頼朝の嘆きは深かった。

 彼は大姫のために、鎌倉中の寺院に義高の供養を命じていた。

 出家を許したものの、やはり心のどこかでは自分が娘を幸せにするのだ、と思っていたのかもしれない。

 もしかしたら入内の話も受け入れてくれるかも、という希望もあったのかもしれなかった。

 事実、頼朝は大姫の入内の話を、断るどころか進めていた。

 もちろんすぐに断れる話ではないし、そもそも武家から天皇の妃に入内をするというのは鎌倉幕府に仕える御家人達の夢なのだと、頼家からも聞いていた。

『俺には、よくわからないけどな』

 その言葉には、泉も同感だった。

 大姫には大姫の求める幸せがあって、その「幸せ」を手に入れた大姫は、幸せそうだった。

 ただ、それでも。

 頼朝が大姫のことを心底案じて、心の底から愛しているのも、また本当のことだった。

 愛娘の死を嘆く暇もなく忙しい日々を送っているはずなのに、時々、大姫が暮らしていたこの離れを訪れて、庭に植えられた植物達をじっと見ている、と頼家が教えてくれた。

 その頃から、泉は政子の頼みで、大姫の身代わりをしていた由衣の侍女をしていたのだ。

 由衣にとって、大姫の死は予想外のことだった。

 自分は大姫の身代わりとして、天皇の妃になるものだと、確信していたからなおさらだった。

 本来ならば、大姫の死を隠して、自分が天皇に嫁ぐべきなのに。

 それができなかったのは、政子が自分に嫉妬して、それを邪魔したからだ―と、由衣はそう考えていた。

 さらに周囲にいる人間達が、由衣のその考えに賛同していたから、ますます由衣は意固地になっていたようだった。

 どうも由衣に仕えている人達は、日頃の不満を、由衣の言葉に頷くことで、はらしているようなところがあった。

 泉にはいまいちわからないことなのだが、一地方の御家人に過ぎなかった北条氏が、たまたま将軍の縁戚だったということで、権力を持つことに、不満を持っている人達もいるらしい。

 だが、彼らに正面切って、北条氏に歯向かう度胸はない。

 ―そんなことをしたら、一族全てが死に絶えることを覚悟しなければならなくなる。

 だから。

 由衣の言葉に頷き、政子の悪口を言うことで、憂さを晴らしていたのだ。

 そうしてさらに悪いことに、大姫の死後、三幡が天皇へ入内することが、ほぼ鎌倉幕府内の中では決まってしまったのだ。

 これについても、当然と言えば当然のことだった。

 「天皇の妃」と言うのは、言わばこの国の「御上」に嫁ぐ者のことだ。

 まして、鎌倉から嫁ぐとなると、その女性は「武士」の者達全ての象徴として嫁ぐことになる。

 ならば、正嫡の娘を、と。

 誰もがそう考えるし、大姫の亡き後、三幡にその話が行くのは道理のことだった。

 ただ、それでも。

 由衣には、納得のいかない事態だったのだろう。

 自分だって頼朝の娘なのに、という思いもあったに違いない。

 どうして、大姫が死んだことを隠して自分を天皇の妃にしてくれなかったのか。

 そんなふうに考えながら毎日を過ごしていた。

 周りの者達も由衣の言葉に頷きながらも、そのことにしか頭にない由衣に辟易してきたようだった。

 実際問題として必要があれば、頼朝はそうしたかもしれなかった。

 けれど、大姫が亡くなって。

 その「死」を隠すことは、娘を二人とも失ってしまうと頼朝は考えたようだった。

『由衣殿には、悪いことをしました』

 政子は、泉が阿古夜の部屋に戻って来た時、泉を自分の部屋に呼び出してそう言った。

『あの子に大姫の身代わりを頼んだのは、苦肉の策でした。私達は、大姫の気持ちを受け入れたい思いがある一方で、この「鎌倉」を統べる者としての、体面もありました。もし大姫が生きていたら、由衣殿に「大姫」として入内してもらうことも、考えていました』

 でも、と政子は言葉を続けた。

『でも、大姫は亡くなってしまいました。大姫の「死」を隠して由衣殿が入内することは、主上おかみを欺くことになります。まして、大姫の「死」を隠すことは、今までの大姫を否定することです。そして由衣殿が「大姫」となってしまえば、由衣殿の今までが無くなってしまいます。母親のことも、共に育った者達のことも、全て捨て去らなければなりません。それは望ましいことではない、と私は思いましたし、頼朝殿も同じでした』

 政子の言葉に、嘘はなかった。

 そう、泉は思った。

 けれど。頼家には別の見解があった。

『まあ、確かに由衣殿を案じる気持ちもあるだろうけれど、一番の理由は、由衣殿は北条の血を引いていないからな』

『どういうことですか?』

『言葉通りだよ。父上の源家げんけには、天皇の血が流れている。源氏はそもそも、天皇家から出た血筋だからな。けれど、北条氏は平家の流れを引く地方の御家人上がりだ。その北条の流れを汲む娘が天皇に入内して、皇子を授かり、天皇の位に就いてみろ。一気に北条氏は天皇の一族になれる』

『それでしたら、由衣様を大姫様として入内させても、同じなのではないですか?』

『それで、由衣殿の母親やその一族が黙っていると思うか?』

『それは……』

 由衣とその周りの人達の様子を考えて、その言葉は当てはまらなかった。

『黙っているような人達じゃないだろう?』

『まあ……』

 そうですね、とはさすがに言えず、泉は言葉を濁した。

『そんな危険を犯すぐらいなら、父上達は姉上を亡くなったことにして、三幡の方を嫁がせることを選ぶさ。……そうなる前に、姉上が亡くなってしまったがな』

 一方頼家の方は、話題が大姫のことになると、急に口調が暗くなった。

 大姫の「死」は、頼家の心に暗い影を落としているようだった。

 もともと仲の良い姉弟だったのだから、無理もないのかもしれない。

 泉とて、大姫の死は哀しかった。

 あの穏やかな日々が続いていくと思っていたから、よけいにそうだった。

 大姫が亡くなってから、泉は由衣付きの侍女になっていたが、日々の仕事に追われながらも、思い出すのは、大姫達と共に過ごしたことだ。

 ただ、それでも。

 今の「現」のことを、投げ出すことはできなかった。

 政子が泉を由衣付きの侍女にしたのは、大姫と同じように、硬くなりがちな由衣の心を慰めて欲しい、と思ったからだと阿古夜から聞いている。

 大姫の時と同じように、自分に何ができるかわからなかったけれど、両親が世話になった人達から頼られているのであれば、できることはやろうと、泉は決めていた。 

 幸い、由衣の周りの人達は北条の一族に反感は持っているものの、政子の一の侍女である阿古夜が後ろに付いている泉には、さすがに手を出しにくいのか、つらい扱いをされたことはなかった。

 ただ由衣は、泉の存在を無視するようにしていて、泉が傍にいても、他の者達に用事を言いつけることがよくあった。

 けれど、泉はその気持ちがわかるような気がした。

 自分が、手に入ると信じていたものが、まるで霧のようにその目の前で消えてしまったのだ。

 「天皇の妃」というものがどれほどのものか泉にはわからないが、おそらく由衣には、「とても欲しいもの」だったに違いない。

 泉にはさして欲しいものではなくても、由衣には違ったのだ。

 泉だって、もし自分の持っている「力」が一切亡くしてあげよう、普通の人間にしてあげよう、と言われれば両手を挙げて喜ぶだろう。

 でも、それが「実は駄目でした」と言われれば、もう、その喜びが大きかった分、落胆も大きくなることは、想像できた。

 その落胆した気持ちを、由衣は泉を無視することで発散していたのだ。

 だから。

 泉は、由衣に無視されても、己がやるべき仕事を淡々とこなした。

 そんな泉に、周りに誰もいない時、由衣が話しかけてきたのだ。

『ねえ。お前は、空しくないの?』と。

『何がですか?』

 由衣の食事が終わり、後片付けをしていた泉は、思わずその手を止めて、目をぱちくりとさせてしまった。

『お前は、世が世ならば、自分が今私が座る場所に座っていて、私が今のお前のように、仕事をしていると考えたことないの?』

 そうして、言われた言葉は、さらに思ってもいないことだった。

『お前は、木曽源氏の家臣の娘でしょう? もし私の父上ではなくて、木曽の大将の方が征夷大将軍になっていたのであれば、お前は一の家臣の娘になっていたのかもしれないでじゃない』

『はあ……』

 泉には、由衣が何を言いたいのか、いまいちよくわからなかった。

『それなのに、お前は私に仕えて、私が食べたものを片付けている……。世が世なら、なんて思わないの?』

『でも、私は侍女ですから』

 けれど、とりあえず、泉はそう答えた。

『だから、どうして自分が侍女こんなの仕事をしているかって、思わないの!?』

『仕事ですから』

 まるで言葉遊びのように、問いかけて来る由衣に、泉は首を傾げた。

『お前は、私が羨ましくないの!?』

『私は、私ですから』

 そんな泉の様子に苛立ったように、由衣は声を荒げた。

 それでも、泉はそう答えた。

 その言葉は、本心だった。

 泉は、木曽の小さな里を治める御家人の娘だった。

 御家人、と言っても温情で名乗らせてもらっているような家の娘だ。

 けれど、それを不満に思ったことはなかった。

 確かに、この小御所で侍女として過ごしていると、里の家との生活の違いに驚くが、それはあくまでも、大姫達「仕える者」の立場にいる人達のものだった。 

 泉は、今はこの鎌倉の御所に侍女として仕えているが、いずれは木曽に帰る。

 そのつもりでいたしそうなることを疑っていなかった。

『……私もお前と同じだったわ』

 泉の答えを聞いて、由衣は、そう言った。

『物心付いた時から、父上は私達の傍にはいなかった。いつもは弟と母上と一緒に暮らしていて、仕えている者達も、母の里から来た、母が幼い頃から仕えている者達しかいなかったから、本当におまえと同じように暮らしていたのよ。自分のことは自分でしていたし、ここでは下女って言うのかしら? 「侍女」という身分の者達も、台所仕事は当然のようにしていたし、私も手伝ったりしていたわ』

 由衣の語る彼女の生活は、泉と一緒だった。

『自分が、源頼朝―征夷大将軍の娘だと知ったのは、本当につい最近なの。私は、父上はお忙しくて、めったに家に帰ってこられないんだとばかり思っていた』

 本当に、由衣は慎ましく、家族で寄り添い合って暮らしていたのだ。

 だけど。

 大姫にお面差しが似ていたから、影武者として鎌倉に連れて来られて、「天皇の妃になれるかもしれない」という、夢を見せられてしまった。

『お前が私なら、どうするのかしら?』

 そうして。

 ふいにそんなことを、由衣は泉に言った。

『どうするとは?』

『いきなり鎌倉に連れて来られて、天皇の妃になれるかも知れないと言われて、でも、あれはなかったことにして、と言われて。お前なら、どう思うのかしら?』

『安心すると思います』

 だが泉は、迷いなくそう言い切った。

 由衣には思ってもいなかった返事だったらしい。

 素っ頓狂な表情をして、泉を見て来た。

『お前……天皇の妃よ?』

『でも、暇そうじゃないですか』

『はああああっ!?』

 今度は、あごが外れるかと泉が思うほど、口を大きく開けて由衣は叫んだ。

 あまりの驚きように、泉の方が呆気に取られてしまった。

『いえ、「源氏物語」を読んでいると、天皇の妃の方々って、とても暗いことやっていらっしゃるじゃないですか。寵愛を受ける妃の方に、他の妃にお仕えしている女官がいじわるしたりして、他にすることないのかなあと思ってしまいますから』

 正直に言えば。

 この御所の生活も、泉にとっては「暇そう」には、見えるのだ。

 大姫は体が弱かったからわかるのだが、千幡にしても三幡にしても、そんな「暇そう」な生活をもてあまして、侍女達を手こずらせているように、泉には見えていた。 

 呆気に取れたままの表情で由衣は泉を見つめていたが、

『それに、あちらの貴族の方々が着ているものって、重そうじゃないですか』

 それに構わず、泉は言葉を続けた。

『髪も床に付くぐらい伸ばして、衣も幾つも重ねて来て、暑くないんですかね?』

 木曽の山里で夏を過ごして来た泉にとって、鎌倉の夏は「暑い」と感じるものだった。

 そんな暑い最中でも、京都の貴族達はあんなに長い衣を着て、裾を引きずって歩いているのだ。

 と言うか、歩けないよね、あれ。

 と泉は源氏物語の絵物語を思い出しながら言った。

『でも、天皇の妃よ!?』

 だが、泉が畳み掛ける言葉を遮るように、由衣は叫んだ。

『その妃になれても、私は幸せになれないと思うから、なれなくてよいです』

 確かに、綺麗な世界なのかもしれない。

 けれど、その底に隠れているものは、きっと泉には考えられないほどの、暗いものだと思うのだ。

 それに耐えられる自信はなかった。

『お前って……』

 もうその言葉以外に言うことが出来ずに、由衣は泉を見た。

『ものすごく、変わっているわね』

 泉は、由衣の言葉に首を傾げた。

 泉の中では当たり前のことなのだが、由衣にはまた違うのかもしれない。

 そんなことを考えながら泉は後片付けを再開したが、この日を境に、由衣は泉によく話しかけるようになった。

「最近では、よくお前には気を許しているようではないか」

 頼朝も、笑いながら泉に言った。

 その言葉で、泉は、現へと引き戻された。

「どうした。考え事か?」

「申し訳ありません」

 泉は、慌てて頭を下げた。

「大姫のことを思い出していたのか?」

 頼朝の口調は泉を責めるものではなかった。

 だから泉も、「はい……」と、失礼にならないように、静かに頷いた。

「ここに来ると、私も大姫を思い出す」

 そう言って、頼朝は目を細めた。

「泉。話は変わるがお前は幾つになった?」

 だが、いきなりそんなことを泉に問うた。

「年が明けましたので、十五です」

「もう、そんな歳になるのか。……どうりで、見違えるようになっていたわけだ。鎌倉に来たばかりの頃は、まだ幼かったのにな」

 泉が答えると、頼朝は目を細めたまま、言葉を続けた。

「そろそろ、木曽に帰してやらなければ、小太郎も気が気ではないだろう」

「そのようなことは……」

「お前には直接言わぬではあろうが、そういうものだぞ、父親と言うものは。まだまだ手元に置いておきたいとは思うが、よい縁があれば、嫁ついで幸せになってもらいたい、とも思うものなのだ」

 父が鎌倉に来た時は、暇をもらって屋敷にも行くが父とはそのような話をしていない。

「しばらくは、鎌倉ここにいてもらいたいがな」

 首を傾げる泉に、頼朝は微苦笑を浮かべた。

「話は変わるが、由衣の嫁ぎ先が決まった」

 そうして、次に言われた言葉は、泉が思ってもいないものだった。

「由衣様のですか?」

「ああ。三月後には、由衣も嫁ぐ。その後は、お前は三幡に仕えてもらいたいのだ」

「三幡様に……」

 三幡は、鎌倉幕府の内意として、天皇家に入内することが決まっていた。

 そのために、色々と学ぶことやするべきことがあり、前のように遊ぶ時間がなくなってつまらない、と泉に愚痴ったこともあった。

 けれど、「入内するのは嫌だ」とは、言わなかった。

 大姫が亡くなってから、三幡はどこか大人びた表情をするようになった。

 大姫が亡くなったことで、三幡は三幡なりに、「大人になろう」と思ったのかもしれなかった。

「来年の今頃には、三幡も都に嫁ぐ。それまでは、この鎌倉で良い思い出を残せるようにしてやりたいのだ」

 そうして、三幡を都に嫁がせることを決めた頼朝も、そんな娘を案じるように言った。

 その言葉に、嘘はない、と泉は思った。

 大姫の求める「幸せ」を理解できなかった。

 でも、大姫を案じていたように。

 頼朝は、京の都に嫁がせることにした三幡を案じている。

「わかりました」

 泉は、手を付いて頭を下げた。

「来年の夏には、木曽に帰せそうだな」

 そんな泉を見ながら、頼朝は小さく笑った。

          ★

「泉殿」

 頼朝との対面を終えて、戻っている途中、声をかけられた。

「頼時殿」

 泉は振り返って、頼時と向き合う。

「御所様との体面は終わられたのですか?」

「はい。御所様は、お庭を拝見されると申されたので、先に戻ることにしました」

「そうですか……」

 離れの建物の方に視線を向けながら、頼時は小さく呟いた。

 年が明けて、十六歳になった頼時は、あどけなさも抜けて、精悍な顔立ちになっていた。

 だが、頼家によく似た面差しは変わりない。

 大姫は頼朝によく似ていたが、頼家は政子似だ。



 頼家と頼時は北条家よりの顔立ちをしているのかもしれない。

「時に、泉殿」

 頼時は視線を泉の方に戻しながら言った。

「頼家様にお子が生まれることはご存知ですしたか?」

「え……?」

 そうして、次に告げられた言葉は。

「頼家様に、お子様が?」

 泉が、思ってもいなかった言葉だった。

「はい。これで、御所様もお孫様がおできになられます。めでたいことです」

 だが、頼家は妻を迎えていないはずだった。

「泉殿は、木曽に戻られるのですか?」

 思ってもいなかった知らせに驚く泉に、頼時はさらに言葉を重ねてきた。

「あ、はい。来年の夏には」

「それは……真ですか?」

 だが今度は頼時の方が驚いた表情になった。

「御所様が、そうおっしゃいました」

「そうなのですか……」

 そして、一瞬だけ暗い眼差しを泉に向ける。

「頼時殿?」

 泉はそんな頼時をけげんに思ったが、

「および止めして申し訳ありませんでした」

 頼時はそう言って頭を下げると、大姫の離れの方へと歩き出して行った。

 泉は、それを半ば呆気に取られて見送った。

 頼時と話す時は、いつもこうだ。硬い表情と硬い言葉で泉に話しかけて来て、言葉少なに去って行く。

 鎌倉に来て四年ほど経つが、頼時とは出会った時からそんな感じだった。

            ★

 「お帰り、泉」

 泉が由衣の―今は亡き大姫の部屋でもある―に戻ると、由衣が声をかけてきた。

「ただ今戻りました」

 泉は部屋に入る前に、縁に座りペコリと頭を下げた。

「父上との謁見はどうだった?」

 そうして部屋に入るなり、由衣はそう話しかけてきた。

「由衣様のご結婚が決まったと聞きました」

「やだ。父上ったら先に言ったのね。私が泉に言って、驚かせようと思っていたのに」

 由衣は、笑いながらそう言った。

「まことなのですか?」

「そうよ。私は、夏が来たら嫁ぐわ」

 おめでとうございます、と言うべきかどうか、泉は迷った。

 由衣は大姫の身代わりとして宮中に入内できなかったことを、ずっと恨みに思っていたのだ。

 それなのに、違う相手に嫁がされるのだ。

「お相手は、三浦みうら様にご縁がある方なの。三浦様の畏母弟に当たる方なんですって。つまり、私と同じ立場の方ね」

 ふっふっふっと、由衣はそう言って笑った。

「よろしいんですか……?」

 その表情を見て、泉は聞いてみた。

「嫁ぎ先には、お前を連れて行きたいの」

 だが思ってもいないことを言われて、泉は目を丸くした。

「でも、父上に駄目だって言われたわ。お前は御家人の娘だから、侍女としては連れて行けないんですって」

「それは……」

 鎌倉将軍の娘である由衣であれば、特に問題はないはずだった。

 けれど。

「私の父上は源頼朝だけど、私は『御家人の娘』と同じなの。母上の里からだったら、好きなだけ連れて行っていいって言われたわ」

 けれどね、と由衣は言葉を続けた。

「その方は、私を正室として迎えてくださるんですって。確かに、跡取りの方ではないし、三浦の郎党になられる立場の方よ。だけど、私は『一番』になれるのよ」

「由衣様……」

「私の父上は鎌倉幕府の将軍だけど、母上は『正室いちばん』ではないわ。父上に、母上と一緒にいると安らぐ、ゆっくりできると言われて、母上は喜んでいらっしゃるけれど、それだけなのよ。その娘の私は、『将軍の娘』ではない扱いをされて、薬にも毒にもならない立場の方に嫁がされる。きっとそれは、宮中に行っても、同じことなんだなと気付いたの。相手がどんな方であれ―たとえ、宮中のお上であろうとも、私が『一番』でなければ、私の子どもは、私と同じような扱いをされるわ」

 ならば、「正室」として嫁ぐ方が遙かに望みが持てる、と由衣は考えたのだ。

「お前のおかげなのよ」

 呆気に取られる泉に、由衣はそう言った。

「お前が前に、『天皇の妃は暇そうだ』と言ったじゃない。あの時、最初はびっくりしたけど、『源氏物語』とか『蜻蛉日記』とか読んでみて、なんかね、納得できたのよ。夫になる方がどんなに立派でも、結局女にはあまり関係ないんだなってね」

「でも、お酒を昼間から飲んで、怠けるような男では駄目ですよ」

「三浦様の弟がそんな方であるわけないわ」

 ちょっと曲解ではないのか、と泉は思ってそう言ったが、由衣は意に介さなかった。

「私は、私の方法で幸せになってみせるわ。だから、このお話をお受けしたの」

 そうして笑う由衣の目に、迷いはなかった。

 だから。

「おめでとうございます」と、泉は頭を下げて心から言うことができた。

「ありがとう。次は、泉の番ね」

「それは、御所様からも言われました」

「あら。父上も同じことを考えているのね」

「でも、私よりも皆様方が先にお決まりになられましたよ。三幡様も、由衣様も嫁ぎ先が決まりましたし、それに、頼家様にもお子様が生まれるんですよね?」

「それ、誰から聞いたの?」

「頼時殿です」

「ああ。だから、元気がなかったのね、泉」

 けれどいきなり、由衣に思ってもいなかったことを言われて、顎が外れるか、と思った。

「泉は、頼家のことを好きなんでしょ?」

「―はっ!?」

 さらにそう言われて、素っ頓狂な声を出してしまった。

「あら、違ったの」

「違いますよ! そんなこと、考えたこともなかったです!!」

「どうして?」

「身分が違います!」

「人を好きになる時は関係ないわよ」

 またしても、笑いながら由衣は言った。

「だけど、一つだけ忠告しておくとね、頼家だけは止めておきなさい。あの子の『妻』となる子はね、北条一族にとって都合の良い相手でないと駄目なのよ。だから、あの子と結ばれても、正式な『妻』にはなれない……今度生まれて来る子も、たとえ男の子だったとしても、跡継ぎにはなれないはずよ。つまり、私と同じ立場の子ってわけ」

「由衣様……」

「仮にお前がそれで良いと思っても、お前の子どもは、きっと理不尽な思いをするわ。」

 だから、止めておきなさい、と。

 そこにあるのは、意地悪な心ではない。

「私は由衣様が嫁がれた後、三幡様にお仕えすることになりました。三幡様が京都に旅立たれた後に、木曽に帰ることになります」

 泉は、そんな由衣に笑いながら言った。

「あら、そうなの?」

「はい。少し先のことですが、私は木曽に帰り、父と母を支えていきたいと思います」

「きっと、お前の父上が、お前に相応しい人を選んでくれるわね」

 そんなことを言う由衣に泉は微笑んだが、厄介な「力」を自分が持っている以上、「結婚」することは有り得ない、と思っていた。

 自分が結婚するためには、自分が持つこの厄介な「力」のことを、相手に伝えなければならない。

 だが、この「力」のことは、父と母以外には、誰も知らなかった。

 弟達にですら、父は教えないようにと、泉に硬く言い渡しているのだ。

 父は、恐れているのだ。泉の持つ「力」を利用とする者達が現れることを。

 泉が持つ「力」が、再び戦を起こしてしまうことを。

 肉親ですら恐れる「力」を持つ自分が、誰かに嫁ぐなど、考えられなかった。

 だが、それは由衣に言う必要はなかった。

 今、自分で選んだ「幸せ」に歩き出した彼女に、言祝ぎの言葉以外は、不要だった。

「もうしばらくお前にはお世話になるわ」

 そう思いながら、泉は由衣の言葉に微笑みながら頷いた。

          ★

「あ、泉」

 その日の夕刻の頃。泉は、三幡に呼び出されて、彼女の部屋を訪れた。

「お呼びでしょうか、三幡様」

「父様がね、由衣様が嫁がれた後は、泉を私の侍女にしてくれるって言ったから、うれしくて、お前に会いたくなったのよ!」

 そうして、三幡は、ものすごくうれしそうな顔をして、泉に言った。

「三幡様は、ご存知なかったのですか?」

 てっきり三幡は知っているとばかり思っていた泉は、意外に思いながら言った。

「何だ、泉は知っていたの」

「ええ。今日、御所様からお聞きしました」

「そうなの? 父様ってばそんなこと全然言わないんだもの。せっかく泉に教えて、びっくりさせようと思ったのに」

「私も三幡様にお仕えすることはうれしいですが、由衣様が嫁がれるまでは、由衣様の侍女なのですから、そのことは、きちんと承知されていてくださいね?」

 夏に由衣が嫁ぐまでは、泉は由衣の侍女なのだ。

 三幡に仕えることになるのは、もちろん泉もうれしい。

 三幡が都に嫁いだ後は、木曽に帰ることになっているから、なおさらだった。

 だが、今の泉が仕える主人は由衣なのである。

 そのことを忘れて、三幡がさも自分が主人のように振舞われたら、それだけで由衣は不快だろうし、三幡の評判も悪くなる。

「大丈夫よ。今日泉を呼んだのも、ちゃんと阿古夜に相談してからだから。宮中に入る以上、そう言った筋道はとても大切だって、鶴殿がおっしゃっていたもの」

 「鶴殿」とは、来年の夏には入内をする三幡のために、都の一条能保が鎌倉に使わしてくれた、女房にょうぼうであった。

 ちなみにこの時代の「女房」とは、「妻」ではなく、貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人のことである。

「何だ三幡。お前何だか違う人みたいだぞ」

 と、その時だった。

 そんなことを呆れた口調で言いながら、頼家が千幡と一緒に部屋に入って来た。

「あ、泉!」

 泉が振り返ると、今年七歳になった千幡がぱっと膝に飛び乗って来た。

「お久しぶりです、千幡様」

「千幡、お行儀が悪いわよ?」

 笑いながら泉が千幡を抱き止めると、上座に座っていた三幡が、咎めるように言った。

「お前だって、つい最近まで泉を見ると、抱き付いていたじゃないか」

 そんな妹に、頼家はさっきと同じ呆れたような口調で言う。

「あら、兄様。それは私がまだ今の千幡と同じで、私が子どもだったからよ」

 だが三幡も心得たもので、つんっと顔を反らせながら言葉を返した。

 実際、年が明けて十三歳になった三幡は、大人びた表情をするようになっていた。 頼朝は泉に「あんなに幼かったのに」と言ったが、それと同じ思いを、泉は三幡に持っていた。

「お前だって、似たようなもんだろうが」

 だが、兄である頼家はまた別の感慨を持つのか、呆れたような口調は変えない。

「そんなんで、大丈夫なのか?」

 けれど、その言葉にはやはり妹を案じる気持ちが含まれていた。

「あら。心配してくれるの? 兄様」

「俺はただ、お前が宮中でその性格でやっていくのかと思うと、今から頭が痛いだけだ」

「大丈夫よ、兄様」

 けれど、そんな兄の心配を吹き飛ばすように、三幡は言った。

「私は、都に行くのが楽しみなのよ。そりゃあ、いろいろと学ばなきゃいけないことがあるのは、正直めんどくさいわ。でも、鶴殿が教えてくれることは、とても面白いのよ」

「面白い?」

 三幡の言葉に、泉は首を傾げた。

「私はさっきも泉を呼ぶのに、阿古夜を通したけど、そうすれば、あまり問題なく泉と会えることができたわ。このまま私の侍女に泉を呼びに行かせたら、由衣様は不快に思われるし、母様や阿古夜にも怒られたはずだわ」

頼家は、「まあ……そうだろうな」と三幡の言葉に頷きながら、泉の隣に座った。

「けれど、阿古夜を通したら上手くいった。これは、阿古夜が母様を通して、由衣様に頼んでくれたのよ。由衣様は、母様の頼みならば断れない―と言うか、断わらないわ。だって、母様はこの鎌倉の御台所だもの。『命令』だったら、反発もなさるでしょうけれど、『お願い』だもの。悪い気はなさらないわ」

 だが三幡の言った言葉には、呆気に取られてしまっていた。

「三幡、お前……」

「面白いわよね人って。やり方次第で、反応が違ってくるんだもの。宮中ってこんなのばっかりなんですって。面白そうじゃない?」

「どこが面白いんだ。面倒くさいぞ」

 頼家の言葉に泉は同感だった。

 伝え方一つもいちいち細かく考えなければならないなんて、泉にはとてもできそうにもない。

 それに、泉が感じる「底に隠れている、暗いもの」の正体は、なのだ。

 人の持つ悪意や嫉妬が生み出すもの。

 泉にしてみれば、何故にそんなになるまで思いつめなければならないのか、不思議で仕方がなかった。

 だがそんなことを考える泉は、宮中では生きていけないのだろう。

 でも。あっさりと、三幡は言った

「そう? 私は、面白いと思うんだけど。だって、やり方一つで自分の思い通りに人を動かせるのよ? 面白いことじゃない」

 その言葉に、一瞬頼家は目を細めた。

 だがそれも一瞬のことで、「頼もしいな」と、笑いながら言った。

「ねえ、お話もうお終い?」

 姉兄達の話がわからない千幡は、退屈そうにして声を上げた。

「ごめんね、千幡。難しい話はここまでよ」

 そんな千幡に、得意気に三幡が言った。

「お前……ついこの間までは、一緒に騒いでいた立場じゃないか」

「兄様っ!私だってもう十三歳なんですからねっ。いつまでも子どもじゃないの!」

 だが兄の頼家に突っ込まれて、とたんに声を上げた。

 それを見て、泉は笑った。

 千幡も声を立てて笑い、三幡も照れたように笑った。

 この時、泉は。

 未来は、明るいと思っていた。

 三幡も由衣も嫁ぐことになったけれど、二人は、泉が思っている以上に明るく、そして強く、未来を切り開いて行こうとしていた。

 だから。

 泉は、大丈夫だと思った。

 何の確信もなく。

 何の根拠もなく―。

 明るい未来が来ると、信じて疑わなかった。

         ★

 それから。

 久しぶりに、三幡や千幡、頼家達は一緒に食事をして過ごした。

 本来ならば有り得ないが、泉も、一緒にご飯を食べた。

「悪かったな、泉」

 泉と千幡と一緒に己の部屋へと戻る途中、頼家はそう言った。

「いっぱしの口は聞くが、三幡もまだまだ幼いな。お前には、甘えてしまっている」

「大丈夫ですよ。私も楽しかったです」

 泉は、頼家の言葉に首を振りながら言った。

 実際、久しぶりに三幡や千幡、頼家達と過ごせて、とても楽しかった。

 今の泉は由衣の侍女で、由衣が仕えるべき主人だから、なかなか頼家達と過ごす機会がなかった。

 時々は三幡や千幡に呼ばれていたが、毎日のように過ごしていたあの頃から比べると、本当に一緒に過ごす時間は少なくなった。

「しかし、あの三幡が嫁ぐとはなあ……それも、宮中に。未だに信じられないぞ」

 隣を歩く千幡を気遣いながら、泉は言った。

「多分、三幡は父上に似ているんだろうな」

「そうなんですか?」

「ああ。父上はお立場を楽しんでおられる」

 だが、頼家の言葉は、泉が思ってもいないことだった。

「御所様は、お寂しそうに見えました……」

 こんな事を言って良いのかと思いながらも、泉は頼家に言う。

 実際、泉と会う時の頼朝は、いつも「寂しそう」だった。

「それすらも父上は楽しんでいらっしゃる」

 だが、頼家は前を向きながら言った。

「そう……なんですか?」

「ちょっと俺達にはわからないけどな。だが、三幡はその父上の気質を十分に受け継いでいる。あいつなら、自分の立場を理解しつつ、万全の状態で宮中の奴らとも渡っていける」 

 その瞬間。

 泉は、頼家の瞳に何か暗い物が走ったような気がした。

「俺には、できそうにないな」

「頼家様は、頼家様のやり方で、やって行かれたらいいじゃないですか」

 でも次の瞬間にはその暗い物は消え、頼家は苦笑をして、泉を見た。

 その顔を見て、ふと泉は頼時に聞いた言葉を思い出した。

「そう言えば、お子様が生まれるとか」

 その言葉の後に、泉はおめでとうございます、と続けようと思った。

「それ、誰に聞いた?」

 けれど。

 頼家は、どこか面倒くさそうに言った。

 それは、どう見ても子どもの誕生を喜ぶ父親に見えなかった。

「えっと、頼時殿です」

「よけいなことを……」

 泉は、よけいなことを言ってしまったと、後悔した。

 だが、頼家の反応は思ってもいないものだった。

 木曽の里の者達は、たいがいの場合は子どもができたて祝いの言葉を述べると、とてもうれしそうな表情になった。

 それなのに頼家の表情は、苦いものだった。

「それは、他に誰か言ったか?」

「いえ」

「なら、すまないが、他言無用にしておいてくれ。どうせ比企の方から騒いでくれるだろうが、あまり騒いで欲しくない」

「はあ……申し訳ありません」

 泉は、ぺこりと頭を下げた。

「兄様、泉をいじめちゃ駄目!」

 そんな泉を庇うように、千幡が言った。

「いじめてないぞ。頼んでいるだけだ」

 泉は。

 この瞬間まで、子どもが生まれることは、とてもおめでたいことだと思っていた。

 確かに由衣の言うとおり、正妻ではない者が子どもを生むということは、大っぴらに喜ぶことができない部分もあるかもしれない。

 それでも、自分の子どもが生まれるのだ。

「比企は、俺の血を引く、俺の子どもがーそれも男の子が欲しいんだ」

 だが、そんな思いが顔に出てしまったのか、頼家は泉を見ながらそう言葉を続けた。

「それは……」

「泉。前に、源氏は天皇家の血を引いていると言ったことは、覚えているか?」

「あ、はい」

「確かに俺達の祖は、清和せいわ天皇だ。だが不思議に思わないか? 何故西の京におわす天皇の血が、この東の地に流れ着いたのか」

 言われてみれば、そうである。

 頼家の言うとおり、この鎌倉から京は遠い。

「子どもさ」

「子ども……?」

「そう。我々の祖先は天皇とは言え、時を経ていくうちに、武の者へと変化していった。そうしたら、武に通じる者としては、地方の反乱や討伐などに行くようになる。その時、その地方の一族では、娘を差し出して来る」

 その意味は、おぼこい泉でも察することができた。

 確かに「正室」という妻はいるが、「側室」という名の愛人が公然と存在していたこの時代では、他の女性に手を出すのは、特別なことではなかった。

「一度でも子は授かる。そして、生まれた子どもは母方の一族で育まれるが、その血は正真正銘の『天皇家の血』を引く子だ。嫡流ではないが、十分に『箔』が付く」

「つまり……頼家様も、同じことをされたということですか?」

 泉の問いかけに、頼家は微かに笑った。

「比企だけじゃない。他の家の者達も、俺の血を引く子どもを欲しがる。俺の子をその一族の娘が生めば、その一族は『将軍の子』の一族だ。将軍に近い立場になるからな」

 それは、頼家の母の一族である北条も一緒だった。

 「頼家」と言う時期将軍の子を得た北条は、その先の世代にも、己が一族の血を引く「子ども」を欲していた。

 ただの侍女にすぎない泉でも、それが「権力」というもののためであることは何となく察せられた。

 そこに、「頼家」としての人格は必要なかった。

 「時期将軍」という頼家を欲している人達には、頼家自身がたとえどんな人間であろうとも、関係ないのだ。

 それを明確に捉えている頼家は、だからこそ、「子の誕生」というものを、苦々しいものとして感じているのだ。

「迂闊だったな」

 そうして。

 自分を嘲笑うかのように、頼家は微苦笑を浮かべながらそう言った。

 父親となる者が言うべき言葉ではなかったが、泉は何も言えなかった。

 もしかしたら、頼家は比企の娘が子を身篭るまでは、そんなことを考えたことすらなかったのかもしれなかった。

「兄様は、兄様だよ」

 と、その時だった。

 ふいに、千幡がそんなことを言った。

「千幡……」

 頼家は立ち止まり、千幡を見つめた。

 千幡と泉も歩くのを止めて、頼家を見る。

「兄様が将軍になってもならなくても、兄様は兄様だよ」

 もう一度、千幡はそう言った。

「ありがとう、千幡」

 その言葉を聞いて、頼家は笑った。

 そうして、ぽんぽんっと、千幡の頭を軽く叩いた。

 その笑いはとてもうれしそうで、一方でとても寂しそうにも見えた。

 その笑顔を見つめながら、泉はやっぱり何も言えなかった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る