五 鈍色(にびいろ)
建久十年(一一九九年)。
未来は、明るい。
そんな泉の予想は、あっけなく裏切られた。
まず、年明け早々に、頼朝が死んだ。家臣の領地を訪れる最中に、落馬したのだ。
そしてそのまま、意識を取り戻すことなく亡くなった。
誰もが、その死を予想していなかった。
亡くなった頼朝さえも、まだ自分の死を遠い未来のものだと思っていたのかもしれない。
そうして、誕生したのは、二代目将軍・頼家。
まだたった十八歳の若い将軍だった。
この時、三幡の入内が決定したことを、内々だが発表された。
哀しみに包まれていた鎌倉は、春の訪れと共に、新しい時代が来たかのように誰もが思った。
でも、それから半年もしない建久十年(一一九九年)七月。三幡は逝った。
享年、十四歳の少女だった。
その死は、誰もが「毒殺」を疑った。
三幡は、元々生まれた時から病気をほとんどしたことがなかった、健康優良児だった。
それなのに、頼朝の四十九日の法要が終わった直後から高熱を出して、寝込んでしまった。
しかも回復するどころか熱は続き、母の政子は大慌てで鎌倉中のお寺に祈願誦経を命じたのだ。
でも、三幡の熱は下がらず、日を追って憔悴していき、京都の名医の誉れ高い
だが、この時長は、しきりに固辞したため、朝廷から鎌倉に行ってくれるようにと頼むために、わざわざ御家人に使いが出された。
そのことを受けて、五月の初め、京より時長が関東へと下ってきた。
度々固辞したが、鎌倉幕府の圧力によって、朝廷が彼に鎌倉に行くようにと、命じたのだ。
時長は高価な薬を三幡に献上し、そのかいあってか、三幡は五月の終わりには回復をして、わずかずつだが食欲も回復して、食事をとり始めたのだ。
誰もが、これで三幡は回復に向っていると思っていた。だが、しかし。
それから半月ほど過ぎた六月も半ば、三幡の容態は急変した。
時長は驚き、今においては望みがなく、人力の及ぶところではないと言って、京へと帰ってしまった。
そして、それから間もなくして、三幡は死んだ。
たった十四歳の少女は、呆気なく逝ってしまったのだ。
その死の直後から、鎌倉では三幡は毒殺されたなのではないか、という噂が立ち始めた。
健康だった少女の突然の死。
それも、宮中に入内することが決まってから、容態が悪くなり、死に至ってしまった。
そこから導き出される結論は、一つだった。
三幡の入内を望まぬ京の貴族達の誰かが、三幡に毒を盛り、死に至らしめたのではないか、と。
それは十分に考えられることだった。
もともと、京の貴族は「武士」というものを見下していた。
彼らにとっては、「武士」とは「地下の者」―所謂、自分達の家来、あるいは下の身分の者達だった。
そんな貴族達にとって、たかだか武士に過ぎなかった平清盛が、天皇に娘を入内させ、挙句の果てには皇子が誕生し、その皇子が「一時的にも」天皇として存在したことは、「屈辱」でしかなかったのだ。
その屈辱を、再び味わうことなど、彼らには考えられなかったに違いない。
そうして、まことしめやかに囁かれるのは、都から招かれた医師・丹波時長は、そのことを知っていたのではないか、知っていたからこそ幕府の召還を断り続けたのではないか、ということだった。
医師という立場上、三幡の毒殺の嫌疑がかかりやすいのは、彼だった。
そして、都の貴族達は幕府が彼に嫌疑をかければ、これはまた都合よくと、彼に全ての責任を押し付けるのは、あきらかだった。
それは、誰にでもわかることだった。
それこそ、鎌倉の一町民達ですら、そのことを囁き合った。
誰にでもわかるということは、それがあまりにもわかりやすいがゆえの、「まちがい」と「正解」がある。
けれど、三幡の場合はあきらかに「正解」だった。
三幡はー入内予定だった鎌倉将軍・頼朝の娘は、毒殺されたのである。
★
「時長殿は精一杯のことをしてくれました」
三幡が亡くなった後。母である政子は、鎮痛な表情でそう言った。
結論から言えば、三幡に毒を盛った者の正体はわからなかった。
だが、三幡が毒殺されたのは明らかだった。
三幡の病状を見た丹波時長は、体に溜まった毒を薄めるしかない、とはっきりと言った。
彼は医者特有の感で、鎌倉に来る前から、薄々と三幡の不調の原因を察していたらしい。
だからこその辞退だったのだが、朝廷からの勅命を受けて鎌倉に下って来た彼は、三幡を見て、医師の本分の勤めを果たそうとしてくれた。
できるだけのことはしようと、そんな気迫すら身近に接していた武士達も感じていた。
そんな彼の熱意な誠意を感じた鎌倉の武士達も、三幡の警護には全力で当たった。
そして彼らの努力が実り、三幡は回復したかのように見えた。
だが、運命は残酷な結果を、彼らに突きつけた。
「間者の者達の仕業ですか」
そんな母に、頼家は問いかけた。
「頼家……」
「誰が手を下したんです?」
「それを知って、どうするのですか?」
だが問いを重ねる頼家に、政子は問い返す。
「鎌倉将軍の妹が殺されたのですよ!? それ相応のことをしないと、示しがー」
「どのような形で示すのです?」
そうして、なおも言い募ろうとする頼家の言葉を遮った。
「母上!?」
「それを言いがかりだと返されたら、どうするのです?」
「言いがかりなど……!」
「なるのですよ、『言いがかり』に。その後に、
「都は、化け物よ」
その母の言葉に、隣に座った祖父が言葉を重ねた。
「おじじ殿……!」
「どんな手段を持っても、こちらを倒そうと虎視眈々と狙っておる。こちらが三幡の死の嫌疑をかければ、それを上手く使って、こちらの喉仏へ牙を向けてくるわ」
その言葉を、頼家は呆然とした思いで聞いていた。
亡くなったのは、自分の妹なのである。
母にとっては娘で、祖父にとっては、孫に当たるはずなのに、何故に彼らはこんなにも冷静でいられるのか。
「都は、千年の遙か昔からあります。ですが、我らの「都」である鎌倉は、まだ成ってから十年あまり。今の我々に、都に真正面から戦をしかける力はありません」
そして、自分のすぐ隣に座る叔父もそう言葉を重ねた。
「叔父上……!」
「三幡一人のために、戦をするわけにはいきません、それは決してやってはなりません」
「この鎌倉に武士の都を作るために、数多の武士達が犠牲となった。お前の伯父である宗時も、御所殿が兵を挙げた時の戦で亡くなった。我ら北条だけではない。この鎌倉の御家人達は、皆父や兄や弟や息子達を亡くしている。三幡もまた、この武士の都を守るために、犠牲となったのだ。それは、征夷大将軍の娘の立場としては、当然のことだ」
母も、祖父も。
そんなことを、当然のことのように言った。
征夷大将軍の娘の立場としては、当然のこと、と。
本気で彼らはそう思っているのだ。
頼家にとって、三幡は「征夷大将軍の娘」などではなかった。
明るくて、元気で、口が立って、でもへんに度胸があるたった一人の妹だった。
妹は望んで征夷大将軍の娘に生まれたわけではなかった。
そして、天皇の妃になることも、自分から望んではいなかった。
だけど。
その運命を精一杯受け入れようとしていた。
周りが勝手に決めた天皇への入内を受け入れて、宮中でやっていけるようにと、一生懸命学んでいた。
なのに。
その命を、奪われた。
周りの理不尽な思惑の果てに。
挙句の果てにその死を嘆き、理不尽な死に怒るはずの身内は、「征夷大将軍の娘ならば仕方がない」と本気で思っているのだ。
ならば、何故に。
何故に、三幡の入内の話を進めたのか。
父が生きていた頃は、朝廷―都の貴族達も、その脅威に三幡の入内をしぶしぶながら受け入れていた。
だが、父が死んだ今。
その脅威がなくなった今、三幡の入内は都の貴族達にとって、厄介ごとでしかない。
一度武士に権力を持って行かれた彼らが、それを再び許すまじと阻止する動きをすることは、容易に想像できたはずなのだ。
それがどれほど非情な方法でも、祖父が「化け物」と呼ぶ都の貴族達は、その手段を選ぶだろう。
彼らにとって、「三幡」は「三幡」と言う名の少女ではない。
「武士の政権」を狙った者達が送り込んで来る、尖兵だ。
その尖兵を叩くのに、容赦はしない方がおかしいのだ。
天皇に入内することを、三幡が由衣のように望んでいたら、頼家もここまで思いはしなかった。
三幡の天命だったと、素直に思うことができた。
あるいは、由衣が「頼朝の娘」として入内することになったら、また話は違って来たのかもしれない。
だが、現実はどうであれ、父亡き後の三幡の入内は、進められた。
それは、何故なのか。
父が死に、この鎌倉の権威が失墜している今、何故祖父はー母の一族である北条氏は、それを進めようとしたのか。
結局―自分達の、ためなのだ。
三幡を宮中に入れて、あわよくば皇子を産めば、それだけで北条一族は「皇子の一族」になれる。
そうすれば、鎌倉での立場は、磐石なものになるだろう。
そのためだけにー自分達のためだけに、三幡を差し出しておいて。
何故に、言い放つことが、できるのか。
「征夷大将軍の娘の立場としては、当然のこと」などと。
鎌倉幕府を打ち立てるために、犠牲になった武士達は、己の意志で戦いに挑んだ。
だが、三幡は違うのだ。
入内を自分の運命として受け入れて、それなのに、殺されてしまった。
そしてそれは、姉の大姫とて同じだった。
姉は、周囲の思惑で与えられた婚約者を素直に受け入れて愛し、互いの思いを育んだ。
それなのに、大人の勝手な思惑でそれを奪われ、死んだ方がまだ楽だったような人生を送るはめになった。
どうして、そうなってしまったのか。
姉は愛する者を奪われ、妹は命を奪われた。
二人とも、神仏に罰を与えられるような人間では、決してなかった。
姉は、優しい人だった。
妹は、元気で明るい子だった。
二人とも、自分の大切な兄弟だった。
返せ、と。
声なき声で、頼家は呟いた。
お前達の勝手な思惑の果てに、失われてしまった兄弟達を。
自分の姉と、妹を。
「何れ、都とは雌雄を決する時が来ましょう。その時まで、今は力を溜めるのです」
自分を宥めるためか、そんなことを言う叔父の声が、遠くに聞こえた。
「三幡様に直接手をかけた者は切りました」
ふいに、そんな言葉が耳に届いた。
見ると、部屋の入り口に頼時が立っていた。
「頼時……」
「正確には、切る前に自分で毒を噛んで死にましたが」
だから、それで納得してくれ、と。
「そうか……」
だが、頼家にとってはどうでも良かった。
妹は、京の貴族に殺されたのではない。
この鎌倉の、身内に殺されたのだ。
間者の者が誰であろうと、もう関係なかった。
都の貴族の誰が差し向けたのか、知ったところで意味はない。
妹を……そして姉を殺したのは、この、「鎌倉」という名を被った者達なのだから。
★
暗いな、と泉は思った。
夕闇の迫る中、大姫が使っていた離れを掃除していて、ふと顔を上げると闇が広がっていた。
だが、泉が感じる暗さは、この夕闇のせいだけではなかった。
三幡が亡くなってから、小御所は本当に暗い場所になってしまった。
盛夏を迎え、季節は明るい陽射しに満ちているのに、この小御所は暗い雰囲気のままだ。
誰もが、この小御所を明るいものにしていた主人の死を哀しんでいた。
泉とて、その気持ちは同じだった。
三幡は、大姫の時と違って、最後まで看病できなかったからなおさらだ。
最初は、泉も他の侍女達と一緒に熱を出した三幡を交代で看病していた。
けれど、三幡の病が重くなっていくに従って、泉のような年若い者達には任せておけないと、年配の―どうやら北条の屋敷に仕える者達―侍女達が取って代わって来て、泉達は三幡の棟からも追いやられてしまったのだ。
それは、ある意味仕方のないことだった。
大姫の時は、大姫はある意味「隠された存在」だったので、唯一の侍女であった泉が看病することが多かった。
けれど、三幡は「入内する征夷大将軍の娘」だった。
年若い泉達よりも、信頼のできる者達で三幡を看病しようと、周りの御家人達は考えたのかもしれない。
結果的に、それは泉達のためには良かった。
征夷大将軍の次女・三幡姫は毒殺された、と。
今や御家人達だけではなく、泉のような侍女達も、下働きの者達も、そして鎌倉に住まう者達にも、その言葉は、まるで真実のように広まっていた。
そうして、当然のようにその毒を盛ったのが誰か、という話は囁き合われた。
だけど泉達は、三幡の看病からは外されていたから、そんな噂話に巻き込まれなくてすんだのだ。
ただ、それでも。
許されることならば、泉は三幡の看病を最後までしたかった。
もちろん、それは言っても仕方がないことだ。
でも、大姫のように、最後を見送っていないから、今でも三幡がどこかにいるような気がしてならない。
その縁の曲がり角から、今にでも、『泉!』と笑いながら出てくるような気がしてならないのだ。
そんなことは有り得ないと、わかっているのに。
「泉?」
三幡の面影を思い浮かべて、泉が持っていた布を握り締めた時、そう呼びかけられた。
「……頼家様」
夕闇を背に、頼家が目の前に立っていた。
「何をしているんだ? お前は」
「ええと、……掃除をしています」
驚いたような表情をした頼家に問われ、泉は思わずそう答えた。
「掃除って……そうではなくて、」
その返事に面食らったような顔になった頼家は、「お前、木曽に帰ったんじゃなかったのか」と、表情を改めてそう言った。
「三幡が都に嫁いだら、木曽に帰るって言っていたじゃないか」
「そうですけど……」
確かに、一年前の頼朝との話でも、泉はこの夏には木曽に戻ることになっていた。
「俺はてっきり、もう木曽に帰っているのかと思ったぞ」
「ご挨拶もなしに、そんな不義理なことはいたしませんよ」
泉は微苦笑を浮かべてそう言ったが、頼家は厳しい顔をしたままだった。
「お前を木曽に戻すことは、先代の征夷大将軍との約束だった」
「でもそれは、三幡様が都に無事嫁がれた後、というお話でした」
「泉……」
泉は、三幡の京へ嫁ぐ姿を見てから、木曽にもどるつもりだった。
「私は……三幡様が都に嫁ぐお姿を見てから、木曽に帰りたかったです」
けれど、ふいに。
そんな言葉が口から出た。
「それなのに、三幡様が病に倒れられて……お亡くなりになられました」
都に行く三幡を見送ってから木曽に帰る。
それは当然叶えられることだと、泉は勝手に思い込んでいた。
けれど、儚い夢で終わってしまった。
そんな泉の言葉を遮るように、頼家は言った。
「でもお前は、木曽に戻るんだ」
「頼家様……」
でなければ巻き込んでしまう、と。
頼家は呟いた。
伸ばされる、手。
その手は、泉に拒絶するようにと、願っていた。
夕闇が迫る。
辺りが、暗くなる。
伸びて来る手を、泉は拒絶しなかった。
闇が、完全に二人を包んだ。
★
泉が自分の部屋に戻った時、闇は完全に当たりを支配していた。
そっと、部屋の中に泉が入ると、ふいに、声をかけられた。
「遅かったですね、泉」
「阿古夜様……」
灯台の明りの中、阿古夜が座っていた。
「すいません、掃除に手間取りまして」
遅くなって心配をかけていたことを申し訳なく思いながら、頭を下げた。
「泉」
でも、阿古夜の声は静かだった。
「お前をこの鎌倉に呼び寄せる時、一つだけ小太郎殿が出した条件があるのです」
そうして、思ってもいないことを、言った。
「お父が……父がですか?」
「小太郎殿は、お前を鎌倉の御家人の誰にも、娶わせないで欲しいと言われました」
それは、泉の持つ「力」のせいだった。
父は、泉の「力」が他の人間に知れ渡ることは、決してしないようにしていた。
「お前を妻にと望む者達がいないわけでもないのです。ですが、幼いお前を私達に託してくれた、小太郎殿が唯一望んだことです。だから、私達は約束を守らねばなりません」
けれど。
阿古夜は、そう言葉を続けた。
「阿古夜様……」
「今夜、お前がどこで何をしていたのかは、問いません。でも、そのことだけは覚えていておきなさい。……小太郎殿が、お前のために、お前の幸せのためにと出した条件なのでしょうからね」
そう言うと、阿古夜は立ち上がった。
「先に休みますね」
ふわりと微笑みながら、続きの間になっている、眠るための部屋へと入って行く。
部屋に残された泉は、その後ろ姿を黙って見送った。
そのまま部屋の隅へと視線を移すと、食膳に乗せられた食事が置いてあった。
用意された食事を食べない、という選択肢は泉の中にはない。
だから、部屋に置かれた手水で手を洗うと、膳の前に座った。
そうして箸を取り、食べ始める。ここに並べられた物達は、木曽のものとは比べて豪華だと、いつも思う。
でも、木曽の暮らしが嫌だと思ったことは、一度もなかった。
あの場所は、泉の故郷だった。
泉が父と母と弟達と、そして里の者達と一緒に暮らした場所。
だから。
この鎌倉に今はいるけれど、あの場所に帰るのだということは、確信している。
そして……そこは、頼家が生きる場所ではないのだ。
泉の生きる場所は、この鎌倉ではないのと同じで。
それは、最初からわかっていることだった。
あの大姫の離れで肌を合わせた時も、頼家の「心」がここにないことはわかっていた。
泉を抱きながら、けれど頼家は泉を抱いてはいなかった。
姉上と、小さく呟かれた言葉は、亡き姉への思いだった。
頼家は、大姫を……ただ、「姉」として思っていたのではなかったのだ。
もしかしたら、頼家自身も、大姫が生きていた頃は、気付いていなかったのかもしれない。
だけど、大姫が亡くなって。
大姫の亡き後、周りを明るく支えてくれた三幡も亡くなって。
空虚な中に辿り着いた思いは、気付かなかった「姉への思い」を自覚させたのかもしれなかった。
頼家が自分を抱いたのはおそらく、誰よりも大姫の傍にいたからだ。
大姫と三幡の思い出を持っている者だからだ。
自分の中にある大姫を求めて、頼家は自分と肌を重ねた。
そのことを、泉は誰よりもわかっていた。
だから。二度目はない。
『姉上は、もうどこにもいない』
けれど、ぽつりと小さく呟かれた言葉は、泉の心に突き刺さったままだった。
まるで、泉を抱いたことで、確信したような言葉だった。
少し前に、頼家は家臣の妻を屋敷から連れ去るという暴挙をしでかした。
その女性は、その家臣が都から連れて来た、白拍子だった。
その家臣は頼家に怒りを向けて、あわよくば、互いの武士団が衝突するーというところまでいったらしい。
間に政子が入って、事無きように収まったが、頼家のこの暴挙は、泉達のような御所で働く人間達にとっても、異様に見えてならなかった。
でも。
頼家が呟いた言葉で、泉はその理由がわかったような気がした。
頼家は、大姫の面影を探していたのだ。
「都から来た白拍子」と聞いて、大姫に似ているのかも、と思ったのだ。
頼家達の父親である頼朝は、都で育った。
そして、大姫は頼朝に生き写しだと、よく言われていた。
都から来たということで、もしかしたら、と頼家は思ったのだろう。
結局、その女性は大姫に似ていなくて。
次に、大姫の思い出をたくさん共有する泉を抱いたけれど、泉も大姫ではなくて。
やっと、頼家は認めたのかもしれなかった。
「
まちがえてはいけない、と泉はご飯を食べながら思った。
頼家が自分を抱いたのは、決して、自分を思っているからではないのだ。
だから。
それ以上のことは、望んではいけないのだ。
そう思ったのと、ご飯を食べ終わるのは同時だった。
そのことに気付いた時、泉は小さく笑った。
これが自分なのだ、と。そう思った。
★
だが、事態は、泉が思ってもいない方へと向っていたのだ。
★
「何を考えているの!?」
頼家の私室に入って、由衣はそう叫んだ。
「人の部屋に来るなり、何ですか、
母ですら勝手には入り込めない自分の部屋へと、どうやってか乗り込んで来た異母姉に、慇懃に頼家は声をかける。
だがそんな頼家を無視して、由衣は強い視線を向けて来る。
「姉とも思っていないくせに、そんなこと言わなくても良いわ。それよりも本気なの!?」
「……何のことですか?」
「泉を側室にする話よ!」
「どなたにお聞きしたのですか?」
「本当なのね?」
頼家は、わざとはぐらかしたが、察しがよい由衣は、それが本当のことだと確信する。
「何を考えているの!? 鎌倉の誰にも嫁がせないことが海野殿との約束のはずよ!」
「どうして、そんなことまで異母姉上がご存知なんですか?」
「話を逸らさないで!」
じっと自分を見つめてくる強い眼差しに、頼家は観念した。
「確かに、泉についてはそのような約束をしていたと、母上から聞いています。しかし、鎌倉将軍に嫁がせてはならない、との約束にはなっていないはずです。泉の場合は、『御家人』が相手だったら、の話です」
「揚げ足取りよ! ただの難癖だわっ」
由衣はそう叫んだ後、
「……何を考えているの?」
三度、頼家に問いかけて来た。
「何を、とは?」
「泉は、あなたの側室達とは違って、御家人としての家の格は低いわ。ここ最近、あなたは次々と側室を迎えているけど、皆北条氏とは関係のない、有力な家臣の娘達よね? どうして、その中に泉を入れようとするの?」
由衣の鋭い指摘に、頼家は目を細めた。
確かに、頼家がこれからしようとしていることには、側室達は絶対に必要な存在だった。
だが、泉は関係なかった。
そう……関係はない。
だけど。
もう、泉を木曽に帰すことは、当分できそうにないのだ。
頼家にとって、泉は必要な存在だった。
そう……あの場所を守るために。
そして何よりも、一番の協力者になる男を繋ぎとめるために。
「私は、泉に救われたわ。あなたが何を考えて、何をしようとしているかは、知らない。でも、泉を巻き込むことは許さないわ!」
何も答えない頼家に、由衣は苛立ったように言った。
そうして、部屋に入って来た時と同じように、由衣は叫んで部屋を出て行った。
それを見送った頼家は、軽いため息を付く。
「……よろしいのですか?」
と、その時だった。几帳の影から頼時が出て来ながら、頼家に声をかけてきた。
「何がだ? 頼時」
「由衣様は、聡い方です。あなた様がやろうとしていることに、薄々感づいていらっしゃるのではないですか?」
「たとえそうだったとしても、異母姉上には、関係のないことだ」
頼家は、静かな口調でそう言った。
「本当によろしいのですか? それで」
「お前が俺に協力してくれたら、―時が来たら、泉をやろう」
「泉殿は物ではありません!」
「お前は、泉を物のように扱う男か?」
振り返りながら頼家が言うと、頼時は何かに打たれたかのように、体を震わせた。
あの少女が、手に入る。
頼家の言葉は、甘い誘いとなって、耳に届く。
初めて、自分から「妻に」と望んだ少女だった。
だから。
本当に妻に迎えたくて、政子に頼みにすら行ったのだ。
でも。
政子の答えは、「否」だった。
『泉は、海野殿との約束があるのですよ。あの子はこの鎌倉の誰にも嫁がせない、とね』
泉の父である海野小太郎は注意深い性質なのか、泉を小御所に使えさせる条件として、そのようなことを出して来たらしい。
『それに、お前が泉を妻に迎えるとしてー正室にすることは、できませんよ?』
だが、伯母はそうも言葉を続けた。
『お前には、頼朝様が決めた婚約者がいるのですから。そうすると、泉を妻にするには、側室にするしか方法はありません』
だから泉はあきらめろ、と。
「ですが…泉殿は、海野殿との約束で……」
「主人が己の側室を、家臣に与えることは古来よく行われてきたことだろう?」
そうして。
一度あきらめた者を、与えてやろうという囁きは、頼時には甘美な毒だった。
そんな頼時を見て、頼家は小さく笑った。
これで良い、と思った。
これで頼時を捕まえられた。
時が来るまでは、泉を自分の側室のままにしておけば、確実に自分のために動くようになるだろう。
「その時」が来たら、泉がどうするのか、頼家にはわからない。
ただ、「その時」が来ても、頼時がいれば、悪いようにはしないはずだった。
頼家が知る頼時は、好意を寄せる女性に、無体なことはしない人間だ。
泉が「否」と言えば、絶対にそれ以上の無理強いはしない。
……泉を巻き込むのは、本意ではなかった。
けれど、泉は自分が抱き寄せても逃げなかった。
何故逃げなかったのか、それも頼家にはわからない。
だが、泉を「その時」までもう手放せないことは、わかっていた。
「夢」を、見るために。
刹那の中で、優しい「夢」を。
★
「私は、お前をこの鎌倉の者と娶わせるつもりはなかったのだがな」
目の前に座った父は、深いため息を吐いた。
「よりにもよって、将軍の側室としてお前を嫁がせることになろうとは……」
「ごめんなさい、お父……」
泉は、父に頭を下げた。
だが、泉にとってもそれは思ってもいないことだった。
頼家が自分を側室に迎えるなど、半月前には思いもよらないことだった。
あれから。
泉は、頼家と会わない日々が続いた。
三幡の死後、泉は政子の侍女として阿古夜の下で働いていた。
頼家は将軍として御所の方で生活していたから、当然のことだった。
だから。
泉は、あれはなかったことだと思って、小御所の仕事をこなしていった。
夫と娘を立て続けに亡くした政子は、さすがに気落ちをしていて、一番の侍女である阿古夜は、そんな政子を支えるために奔走していた。
そして泉は、阿古夜の手伝いをして、日々を過ごしていた。
そんなある日、泉は政子に呼び出された。
何だろうと思って政子の所に行くと、政子はとても鎮痛な表情をして、泉に言ったのだ。
お前は、征夷大将軍様に、側室として仕えることになりましたーと。
泉は、最初「はい?」と間抜けな返事をしてしまった。
政子の言うことが、よくわからなかったからである。
『お前にも、思いもよらないことだったみたいですね……』
そんな泉を見て、痛ましい表情で政子はそう言った。
確かに、思いもよらないことだった。
だが、頼家はごくごく内輪の者達のみだが、『泉を側室にする』と、宣言したらしい。
『将軍が命じた以上、従う必要があります。お前は、頼家の側室として、お傍に上がることになります』
『あの……私、そのようなものにならなくても、頼家様の侍女になりますよ?』
けれど。
当の泉は、結局はそういうことなのだろう、と思っていた。
『泉……』
『側室にならなくても、頼家様のお傍でお仕えすることには、何ら不満はありません』
『そういうことではないのですよ』
あまりにも泉の泉らしい発言に、政子は苦笑を浮かべた。
『でも……お前がそう言ってくれるのならば、恥を忍んで頼みます』
そう言うと、政子は泉に頭を下げた。
彼女が頭を下げるのは、これが二度目だった。
『ま、政子様!?』
だが、現代で言えば直系の皇族が、庶民に頭を下げるようなものだ。当然、泉は驚いた。
『止めてください、政子様っ』
いくら私的な場でのこととは言え、将軍の母であり、御台所でもある政子に頭を下げられるわけにはいかなかった。
『いいえ、泉。私はずっと、あの子は兄弟達とは仲が悪いと思っていました。ですが、大姫のことがあって、そうではなかった、とわかったのです。あの子は、兄弟達と絆を深めていました。今のあの子が何を考えているのか、わかりません。でも、姉と妹の死を哀しんでいることは、わかります』
『政子様……』
『あの子がお前を望むのは、大姫と三幡との思い出を、誰よりも共有しているからかもしれません。本当に勝手な願いです。ですが、あの子の母親として、あの子の傍にいて、あの子の哀しみを癒して欲しいのです』
確かに、それは勝手な願いかもしれなかった。
政子が泉に求めているのは、「哀しみを癒すこと」だ。
それ以上のことは、求めていない。
子を産むこととか、頼家を支えるために一族の者達との橋渡しを頼むとか、そんなことは、他の側室達のーそして何よりも、政子達が選ぶ「正室」の役目になるのだろう。
おそらく、「頼家の心を癒すこと」という役目がすんだら、泉は「側室」という立場を離れることになるのかもしれない。
でも。
それでも良い、と泉は思った。頼家の力になれることがあるのならば、そうしたかった。
「―お前の父の甲田殿は、お前が生まれる前に亡くなった」
そんな泉に、父はいきなり語りだした。
「お父……?」
「鈴殿が……鈴がお前を身ごもったと知って、とても喜んでおった。お前を会えるのを、誰よりも楽しみにしておった。お前の名前を、何個も考えて。鈴が悪阻になった時は、上から下に大騒ぎしとった」
過去に思いを馳せる父の瞳には、泉の実父の姿が見えているのかもしれなかった。
「だから、お前を遺して逝かねばならなかった時、とても悔しかったと思う。生まれたお前を見ることも叶わず、守ることもできず、とても哀しかったと思う。お前の持つ「
「お父……」
父の言葉に、泉は目を丸くした。
「お前を案じて甲田殿が授けた『
泉は、父が繰り返し言っていた言葉を思い出した。
『お前のその「力」は、お前を守るために使うべきもの』だと。
幾度も、そう繰り返して言い聞かされた。
「頼家様は私の『力』のことはご存知です」
泉は、父にそう言った。
「何!?」
「間者の者達に襲われた時に、つい使ってしまって……。でも、頼家様はお父と同じことを言ってくださいました」
―なら、便利だな。お前を守ってくれるものなんだ。
泉はこの言葉を聞くまで、自分の「力」は忌むべきものだと思っていた。
けれど。
頼家は、「お前を守ってくれるもの」だと言ったのだ。
その言葉は。泉を、救ってくれた。
だから、今度は自分が、頼家を少しでも支えていきたいと思うのだ。
「それに私は、ずっと側室としてお傍にいることはないと思います」
「泉……?」
「頼家様がお元気になられたら―私の役目が終わったら、私は木曽に戻ります。ここに……鎌倉に、ずっとはいません」
それは、確信だった。
泉は、自分がこの鎌倉にずっといるとは思えなかった。
時が来たら、自分は木曽に帰る。
父と母と弟達と、里の者達が待っているあの里に。
「お前は、それで良いのか?」
父の言葉に、泉は静かに微笑んだ。
「全然っっっ、良くないわよ!」
と、その時だった。
ふいに。
怒りを含んだ声が、泉達の話に切り込んできた。
「ちょ、お待ちを!」
作蔵の慌てるような声も聞こえてくる。
「どうした? 作蔵」
父が木戸越しに作蔵に問うた。
「失礼するわよ!」
閉じられた木戸を両手で、ばんっと開けた人物を見て、泉は目を丸くした。
「由衣様!」
「海野小太郎殿ね? 突然の不躾な来訪はお詫びするわ。けれど、失礼を承知で、泉と話をさせて欲しいの」
だが、由衣は驚く泉には構わず、父に視線を向けてそう言った。
「先の征夷大将軍の姫君・由衣様ですな?」
その視線を受け止めて、父が言った。
「私のことを、知っているのね」
大姫の影武者のような立場だった由衣を知る人は、実はあまり多くない。
小御所では公然の秘密だった由衣の存在は、御家人には知られないようにされていたのだ。
「娘がお仕えしている方のことは、知るように努めております」
けれど、父は違ったらしい。
「そう。重ねて私の無礼はお詫びするわ。けれど、あなたの娘御と話をさせて欲しいの」
頭を下げた父に、由衣も頭を下げた。
「由衣様!?」
「我が娘は、良き主人に仕えたようですな」
父は小さく笑って、立ち上がった。
「どうぞ、ごゆるりとお過ごしください」
そうして、作蔵を連れて部屋を出て行った。
「由衣様……」
「久しぶりね、泉」
一方由衣の方は、そう言うと、泉の前まで来て、そのまますとんと座った。
「ごめんなさいね、失礼な真似をして」
そうして、開口一番謝って来た。
「ゆ、由衣様、お顔をお上げください」
泉の方は、由衣のその低姿勢な態度に驚き続きだった。
「でも、無礼を承知で言わせてもらうわ! 泉、頼家の側室になるってどういうこと!?」
「ゆ、由衣様……」
「あれだけ頼家だけは止めときなさいって言ったのに! どうしてそんなことになっているのよ!!」
肩をつかまれ、ゆさゆさと揺さぶられる。
だが、由衣の気持ちは十分伝わって来た。
「由衣様……」
「って、何であなた笑っているのよっっ!」
「お元気そうですね、由衣様」
泉が笑いながらそう言うと、由衣は目を丸くして、それから、くくくっと笑い出した。
「久しぶりね、泉」
由衣と会うのは、本当に久しぶりだった。
去年の夏前に由衣が嫁いで以来だ。
「三浦の方はどんな様子ですか?」
「悪くないわよ。夫も良くしてくれるしね」
そう言って、由衣は大きく頷いた。
「でもね、それで誤魔化されないわよ! 頼家の側室になるってどういうこと!?」
再びそう言って、泉を揺さぶり始める。
「ゆ、由衣様……、落ち着いてください」
「落ち着けるわけないでしょ!」
泉はそう言うが、由衣は、止まらなかった。
「小太郎殿との話が聞こえたんだけど、あなたは何れ頼家の元を去るつもりなのね!?」
その言葉に、泉は苦笑するしかなかった。
「由衣様も、わかっていらっしゃいますでしょう? 私は、もともと頼家様の侍女になっても良いと思っていました。けれど、どういうわけかそうなってしまって」
「どういうわけもそういうわけも、最初っからお払い箱になることがわかっているなら、断ればいいじゃない!」
「でも、今の頼家様を、あのままにはしてはおけません」
由衣の言葉に、泉は首を振った。
「私は頼家様のお言葉で救われました。だから、少しでもその恩をお返ししたいのです」
今の頼家は、何か黒いものを纏っている。
それが何なのかは、泉にはわからない。
でも、今のままで良いとは絶対に思えなかった。
「泉……」
由衣は泉から手を放し、座り込んだ。
「泉の気持ちは、わかるんだけど。でも、それは無理よ」
そうして、由衣は言葉を続けた。
「私も、頼家が何をしようとしているのか、わからない。ただ……今のあの子を止めることができるのは、亡くなった三幡か……大姫様だけだわ。それだけは、確かよ」
その言葉を聞いたとたん、ずきり、と胸が痛むのがわかった。
「それは……わかっています」
泉は俯きながら、そう言った。
ただ、それでも。
泉は、頼家の元を去れない、と思った。
今はまだ。
この鎌倉を出て、木曽に戻るわけにはいかないのだ。
「お前なら、そう言うと思ったわ」
どこかあきらめたように、由衣が言った。
「ちせ、良い?」
「はい、こちらに」
由衣が戸の方に声をかけると、傍に控えていたのか、一人の女性が現れた。
二十代ぐらいの、利発そうな眼差しをした女性だ。
「母上の里から来た、ちせと言うの。側室に上がる時は、この者を連れて行って。私との繋ぎになってくれるわ」
「由衣様!」
「お前のことだから、お付の者は連れて行かないつもりでしょ? それに、今まで一緒に働いていた者達を侍女として使うのもしないでしょうし。女手は、あった方が良いわよ」
「しかし……!」
「頼家の力になりたいと言うなら、絶対連れて行って。きっと、私の方が、お前に正しいことを伝えられるわ」
遠慮しようとした泉に、由衣はそう言った。
「頼家の力になりたいのならば、お前は正しいことを知らなければならないはずよ。そうでないと、何が頼家のためになるのか、わからなくなるわ」
「由衣様……」
「私も、今の頼家は気に食わないのよ。あの子が何をしようとしているのかは、知らない。でも、気に食わないの」
由衣らしい言い草で、彼女は言葉を続けた。
「由衣様は、あいかわらずお優しい方です」
由衣の心遣いがうれしくて、泉は笑ってそう言った。
「何よ、いきなり! でも、そう思うなら、ちせは絶対連れて行ってよっっ」
「はい。お言葉甘えさせていただきます」
ありがとうございます、と泉は頭を下げた。
「つらくなったら、何時でも逃げてよ」
それを見て、由衣はそう念を押してくるのだった。
★
「すまなかったな、泉」
それから、数日後。
ちせと作蔵を伴って小御所に戻った泉は、大姫の離れへと行くように阿古夜に言われた。
そこには、頼家が待っていた。
「頼家様」
頼家と顔を合わせるのは、あの時以来―この離れで、肌を重ねて以来だった。
そのせいか、人払いをした二人っきりの部屋で体面した頼家は、どこか気まずそうにも見えた。
「いいえ」
それに対して、泉は首を振った。
頼家は、決して泉に無理強いはしなかった。
伸ばされた手を拒絶しなかったのは、自分の意志だ。
だから。
頼家が謝る必要はないのだ。
そんな泉に、頼家は思ってもいないことを言った。
「……お前には、ここに住んでもらいたい」
「ここって……この離れにですか?」
「そうだ」
泉の言葉に、頼家はこくんと頷いた。
「でも、他の方々は皆小御所以外の場所にお住まいですよね?」
頼家の「側室」と言われる女性達は、彼の長男である
所謂、「小御所」とは将軍の妻と子どもが住む場所である。
つまり、この「小御所」に住めるのは、将軍のー頼家の「正室」として認められた妻だけのはずなのだ。
「お前には、この離れに住んで、ここを管理して欲しいんだ。……姉上が生きていた頃と、変わらないようにして欲しい」
でも頼家の言葉を聞いて、泉は首を傾げる。
「それでしたら、私は別に側室になどならなくても、侍女で十分ではないですか?」
わざわざ側室にならなくても、侍女として頼家の傍に仕えることになれば、その望みは叶えられそうな気がした。
「お前のことだから、他の仕事をしながらする気だろう? 負担が増えるだろうが」
「そのようなことは……」
「ない、と言えないだろう? この間お前がここを掃除していた時は、遅い刻だったぞ」
ため息を吐く様に、頼家は言った。
「それに、俺が自分の侍女を特別扱いすると、めんどくさいことにもなるからな。だったら、最初から側室にしていた方がいい」
「はあ……」
泉としては、頼家の言い分にいまいち納得できないでいたが、
「……迷惑だったか?」
そう言われて。
目を見張ってしまった。
「頼家様?」
「お前の父親は、お前を側室に迎えるに当たって、お前の存在はなるべく公にしないようにすること、子ができても跡継ぎには絶対しないこと―この二つを、条件に付けてきた」
「父がですか?」
そのことは、泉も知らなかった。
「他の者達の父親は、飛び上がるぐらい喜んでいたがな……。お前の父親は違うらしい」
自嘲気味に言う頼家に、「それは違います」と、泉は首を振った。
「父は、私の『力』のことで心配になっているのだと思います」
「おまえの『力』?」
「はい」
頼家は一瞬けげんそうな顔をしたが、泉の言葉に思い出したのだろう。
納得したような表情になった。
「……では、お前はどうなのだ?」
「頼家様?」
「俺の側室になるのはいやか?」
「そんなことはありません」
この言葉にも、泉は首を振った。
「ただ、わざわざ側室にならずとも、お力になることがあれば私はいつでもそうします」
「ならば泉、この離れを守ってくれ」
泉の言葉に。頼家は、まるですがるように言った。
「頼家様……」
「この場所は、姉上と三幡と千幡と、そしてお前とで過ごした場所だ。
できるだけ、あの時のままの状態で遺しておきたいんだ。千幡のためにも」
「千幡様の?」
「ああ。ここはいずれ、あいつにも必要な場所になる」
何がー見えていたのか。
頼家の眼差しは、泉ではなく、何か別のものを見ている。
それは、過去の思い出を語る時の父と同じだった。
だけど。
一瞬、それがワカバの
―ワカバは、覚悟を決めたのだ。
―覚悟?
―そう……。自分の運命を悟り、受け入れる覚悟を。
―私も、頼家が何をしようとしているのか、わからない。ただ……今のあの子を止めることができるのは、亡くなった三幡か……大姫様だけだわ。それだけは、確かよ。
父の言っていた言葉と、由衣の言っていた言葉が重なる。
頼家は、「何か」を決めているのだ。
それは、何なのか。
彼は、自分の姉妹の死を嘆いていた。
今もその哀しみを抱えているに違いない。
そうして、千幡は最後に残された弟だった。
頼家は、その遺された千幡を、案じているし、守ろうとしている。
でも、この離れを泉が守っていくことが、それとどう繋がっていくのか。
確かに、姉達を立て続けに亡くした千幡にとっては、この場所に泉がいることで、息抜きにはなるのかもしれない。
けれど、それだけではないような気がした。
―頼家の力になりたいのならば、お前は正しいことを知らなければならないはずよ。そうでないと、何が頼家のためになるのか、わからなくなるわ。
由衣の言葉を、改めて思い出す。
由衣の言うとおり、ただ頼家の望みを叶えるだけでは、頼家を支えることはできないのだろう。
今の自分には、何ができるのだろう?
「……わかりました」
そう思いながら、泉は頼家の言葉に頷いた。
「引き受けてくれるか」
「あまりお力になれないかもしれませんが、そのお役目、お引き受けします」
「お前なら、十分にやってくれるさ」
満足そうに微笑む頼家に、泉は頭を下げた。
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