二 紺碧(こんぺき)
―お父。何でワカバは、餌食べてくれんの?
そう言って、自分の指差す先には、父の愛馬であるワカバが、目を閉じて座り込んでいた。
ワカバは、子どもを生んだ後、産後の肥立ちが悪く、ずっと座り込んだまま、動かずに、餌も食べなかった。
自分にとっても、ワカバは大切な馬だった。
家人達と一緒に世話をして、ワカバも自分になついてくれていた。
だから、自分が餌を与えれば、ワカバは食べてくれると思っていた。
―ワカバは、覚悟を決めたのだ。
そんな自分に、父は静かに言った。
―覚悟?
―そう……。自分の運命を悟り、受け入れる覚悟を。
それから、数日後。ワカバは、死んだ。
小さい、一匹の子馬を遺して。
「起きたか、泉」
父の声に、泉は、はっとなった。
懐かしい夢を見た。
アオがまだ子馬だった頃の夢。
「お父……」
泉は、まだ夢うつつのまま、それでも自分を見下ろして来る父を見た。
「すまんが、起きてくれんか。政子様から使いが来て、お前に戻って来て欲しいそうだ」
「政子様から?」
だが父の言葉を聞いたとたん、目が覚めた。
昨日、泉はその政子から父に使いを頼まれ、この鎌倉にある父の館に来ていた。
まだ小御所で働き出して半月ほどだが、鎌倉での役目を終えた父が、数日後に木曽に帰るので、その前にゆっくりと過ごして来る様にと、政子の配慮だと阿古夜から聞いていた。
「明日までの休みだったが、どうしても戻って来て欲しいらしい」
人手が足りないのかもしれなかった。
どちらにしても、泉が拒否することはできない。
「わかりました」
父の言葉に頷いて、泉は褥から立ち上がった。
ふと外に目をやるともう夜は明けていた。
「お父、ごめんなさい!」
泉は慌てて褥を片付け始める。
「いや、良い。あちらの方も、迎えの者は昼過ぎに来ると言ってきた。ここは木曽ではないのだから、少しはゆるりとするが良い」
木曽では絶対に聞けない言葉を言われて、泉は目を丸くした。
幼い頃から母と共に夜が明ける頃に起き、一日てきぱきと働くことが当たり前になっている泉には、「少しゆるりとする」ということは、ありえなかった。
「昨日お前はここに来て早々、掃除をしてくれたから、掃除する場所もない。この館は、掃除に時間を使うこともないしな。たまにはゆるりと過ごしてもバチは当たるまい」
確かに、鎌倉の屋敷と言ってもとても小さくて、「屋敷」と言うよりは、町民達の「家」と言った方が良かった。
そこに父は、一人の家人と一緒に住んでいる。
作蔵(さくぞう)と言って、父が木曽から連れて来た男で、父が不在の時もこの鎌倉の屋敷を守ってくれていた。
「それでは、朝御飯を作ります」
「それも作蔵が用意してくれた」
木曽の里の家でも、小御所でも考えられない事態に、泉は目を丸くするしかない。
「昼には、迎えの方が来られるから、それまでは父の相手をしてくれ。里の母達にも、お前のことは話してやらねばならぬ」
そんな泉に、父はあいかわらず表情を変えずに、だが少し切なそうに言った。
「木曽に帰れば、しばらくは会えぬからな」
「お父。お父が鎌倉に来た時は、会えるのでしょう? お父の弓の腕は、御所様もすごく褒めてくだっていると聞きました。近いうちにまた会えます」
泉の言葉に、父は少し寂しそうに微笑んだ。
「上手くやっていけそうか?」
「阿古夜様が色々教えてくださるので、何とかやっております」
泉が父の前に座りなおしながらそう言うと、
「泉。お前は、これからこの鎌倉で、心ない言葉を聞くことがあるやもしれん」
ふいに、父がそう言った。
「だが、この鎌倉はお前が生まれた故郷だ。そして、父と母のもう一つの故郷でもある。母は、この鎌倉で育った。父は、この鎌倉でかけがいのない日々を過ごさせてもらった」
「お父……」
「怨みは、何も生まぬ」
父の細い瞳が、泉を見た。
「怨みだけの破壊では、何も生まれぬ。そこに、未来を望む心がなければならぬ。かつての父の主の方も、それを望んでいた」
だが、父の瞳に映っていたのは、泉ではなく、過去の思い出なのだったかもしれない。
「お前の持つものは、決して怨みで使ってはならぬ。お前が本当に必要と思う時、それを使うしかないと思う時のみに使うものだ」
それは、木曽でも繰り返し聞かされた言葉だった。
お前の持つものは、決して使ってはならぬ、と。
本当に、それだけしか使えぬ時に、それでしか助からぬ時にしか、使ってならぬと。
だから。
泉は、それをほんの幼い頃にしか使ったことがなかった。
それは、本来は存在してはいけないもの。
そして、忌むべきもの
父が自分に対して、それについて話す表情を見て、泉はいつからか、そう思うようになっていた。
「本来ならば、私達は、お前とこの鎌倉とは、無縁でいさせたかった」
そして、それは。
父の、まごうなき本音なのだろう。
木曽源氏の、家臣の娘。
それが、泉の鎌倉での立場だ。
決して、言われの良い立場ではない。
けれど。
泉が大姫の侍女になることを、御台所である政子が、望んだ。
助けて欲しいと、一御家人である小太郎に頭を下げたのだ。
「だが、この鎌倉からお前が逃れられぬ宿命であるならば、鎌倉を見て欲しいと私も母も願ったのだ。鎌倉をお前自身の目で見て、それからお前自身が決めても良かろう、と」
「お父……」
父の言葉に、泉は何も言えなかった。
「小太郎様、お食事の用意ができましたぜ」
と、その時だった。
台所の方から、作蔵が呼ぶ声が聞こえた。
この小さい館であれば、食事の支度ができたことを知らせるのも、わざわざ移動しなくてもよいのだ。
父はふっと笑うと、立ち上がった。
「それでは、行くか」
「はい」と父の言葉に頷いて、泉は立ち上がった。
そうすることしか、できなかった。
★
馬小屋に行くと、父の馬であるアオが、泉を見てプヒヒと鳴いた。
「アオ、お前ともしばらくお別れね」
泉は、手を伸ばしてアオのうなじに触れた。
そうして、今朝見た夢のことを思い出した。
アオの母親であるワカバは、このアオを自分の命と引き換えにして産んだ。
泉はこのアオをワカバの忘れ形見として、必死で世話をした。
他の子を産んだ馬から乳を分けてもらい、それこそ生まれたばかりの頃は、馬小屋で寝るぐらいのこともした。
さすがにこれには一日しただけで、下人達にも止められたが、泉は決してアオの傍を離れるつもりはなかった。
だが、さすがに父には叱られた。
『下人達に迷惑をかけるな』と。
だから泉は、父の言葉に従って、昼間だけ面倒を見るようにした。
下人達も、泉の気持ちをわかってくれて、一番若かった男が馬小屋で寝るようにしてくれた。
一生懸命世話をしたアオがきちんと一人前に育って父の馬に選ばれた時は、本当にうれしかった。
「……良い馬ですね」
と、その時だった。
泉のすぐ傍でそんな声が聞こえた。泉は驚いて、振り返った。
そうして、さらに驚いてしまった。
自分のすぐ近くにいたのは、頼家とよく似た顔立ちをした人物だった。
「さすが、信州名産の馬だ。毛並みがとても良いし、体つきも良い」
その人物は、驚いている泉にかまいもせず、感心したようにそう言った。
「あの……どちら様でしょうか?」
口調から、頼家でないことはすぐにわかる。
「ああ、これは失礼。私は北条頼時(よりとき)と申します。お迎えに上がりました、泉殿」
そう言って、北条頼時と名乗った人物は、ぺこりと頭を下げた。
「政子様のお身内の方ですか?」
小御所で働いている泉には、まだ北条一族のことはよく知らない。
御所に勤めているわけではないので、その男のことは一度も見たことがなかった。
「はい。私は政子様の甥になります」
「義時(よしとき)殿のご子息だ。わざわざ迎えに来てくださって、ありがとうございます」
頼時の声と重なるように、父の声がした。
「お父」
振り返ると、父が馬小屋の傍に立っていた。
「海野殿。ご挨拶もせず無作法致しました」
その父に、頼時はぺこりと頭を下げる。
「いや。格別のお気遣い、いたみいる」
「いいえ。泉殿がいないと、小御所も大変みたいです。特に幼い方々に手こずっていて」
そうして、苦笑いをしながら言った。
「たった半月ほどで、泉殿は小御所にはなくてはならない存在になっているようです」
「この子が、御台所様達のお役に立っているならば何よりです」
父はそう言ってから、
「泉、支度はできているか?」
と、泉に聞いて来た。
「はい」
御所から迎えが来たら、いつでも出立できるように、荷物はまとめてあった。
「では、お父行って参ります」
「ああ。体は労えよ」
父の細い目が、さらに細くなったように泉は思えた。
泉が馬小屋の脇に置いていた荷物の包みを持ち上げると、頼時はこくんと頷いて、父に頭を下げた。
「では、行きますよ」
「あ、はい」
泉は先に行く頼時の後に着いて、歩き出した。
そうして、父の方を振り返ると、父はこくんと、泉に頷いてみせる。
父にぺこりと頭を下げてから、泉は前を向いた。
館を出て、しばらく行くと大通りに出た。
ここを真っ直ぐ行くと、御所へと着く。
頼時は何も言わず、黙って歩いているから、泉も黙って後を着いて行った。
伯母である政子はあんなにもおしゃべりなのに、どうやらこの頼時は寡黙な性質らしい。
あんまり似ていらっしゃらないのだなあと泉が思っていると、
「何も思いませんか?」
と、頼時が尋ねて来た。
「何がですか?」
いきなり黙っていた人がそんなことを聞いて来たので、泉は思わず尋ね返す。
「……周りのお屋敷を見て」
「大きいですね」
そうして、頼時の言葉にぐるりと辺りを見回して、そう言った。
「……他には、何か思いませんか?」
「掃除が大変そうだなあっですか?」
泉がそう言うと、呆気にとられた表情で、頼時は泉を振り返った。
「あの……頼時様?」
「私のことに、『様』は入りません」
ごほんと咳払いをして、頼時は言った。
「え?でも」
「あなたは海野殿の娘御です。海野殿は御家人。私とあなたの立場は対等なのです」
「はあ……」
頼時の言っていることがイマイチ理解できず、泉は曖昧に返事をする。
どう考えても、御台所の甥である頼時と、自分が同じ立場とは思えない。
一方の頼時は、くるりと前を向くと、またスタスタと歩き出す。
と、その時。
「何をやっているんだ、お前は」
ふいに、そんな声が聞こえた。
「頼家様?」
泉は、驚いたように目を見開いた。
馬を引き連れた頼家が、泉達の前に立っていたのだ。
「明日帰るんじゃなかったのか?」
「伯母上に懇願されて、戻られるんですよ」
頼家の問いかけに、スタスタと歩いていた頼時が戻ってきて、そう言った。
「何だ、泉がいないと駄目なのか」
その言葉を聞いて、頼家がそう呟く。
「しかし、泉が来てまだ半月そこらだぞ。いささか、頼りすぎじゃないのか?」
「頼家様はご存知ないかも知れませぬが、三幡さまと千幡様には手を焼いているのです」
しかし頼時のこの言葉には、何かしら棘が含まれていて、泉は思わず「いえ、そんなことはありませんよ」と言いそうになった。
実際、泉の知る頼家は、大姫の部屋にしょっちゅう来ていて、三幡や千幡達ともよく話している。
だが、泉が口を開く前に、
「泉、ちょっと付き合え」
頼家は泉の腕をつかむと、そのままぐいっと抱き上げて、馬に乗った。
「よ、頼家様!?」
馬に乗らされた泉は、目を白黒させる。
「何だ、お前。木曽育ちのくせに、馬も乗れないのか」
そうして、パシンっと手綱を馬に入れた。
「頼家様!」
「泉を借りるぞ、頼時!」
自分達に向かって声をかける頼時にそう言うと、頼家は馬を走らせた。
その瞬間。
泉は、風を感じた。
道行く人達が、流れるように通り過ぎていく。
「泉、しっかり捕まっていろよ!」
泉の体が落ちないように両手で、泉の体をしっかりと挟みながら、頼家は言った。
馬に乗る感触は知っていた。
だけど、誰かと一緒に乗ったのは、幼い頃以来だった。
そうして、しばらく走っていると、不思議な匂いがしてきた。
空の色は眩く、ちらちらと光が煌いている。
「海……?」
ザザア ザザアという音が聞こえてくる。
潮騒だと、泉が呟く声が聞こえたのか、頼家がそう教えてくれる。
「しおさい?」
「海の波の音のことだ」
泉は思わず、頼家の方を振り返った。
「おいおい、急に動くな。落ちるぞ」
「海」の話は、よく聞いていた。
鎌倉にいた時の思い出として、父も母も語ってくれた。
「由比ガ浜(ゆいがはま)……?」
その話に出てくる、浜辺の名前を泉は呟く。
「そうだ。知っていたのか?」
「お父やお母が、よく話してくれました」
「姉上が、義高殿と一緒によく来たらしい」
浜で馬を止め、頼家は言った。
「泉。姉上は、義高殿が死んだ時、心が死んでしまわれた」
そうして、静かな口調で言葉を続けた。
「本来の姉上は、母上のようにおしゃべりで、元気なお人なんだ。だけど、義高殿を失ってからは、一日一日を過ごすことさえ、おつらいんだと思う」
泉は、頼家の言葉にここ半月見た大姫の様子を思い出した。
一日の大半を寝て過ごし、食は細くてほとんど何も食べない日もあった。
「それなのに、父上や母上は姉上に何とか元気になってもらおうとして、あれやこれやと世話を焼こうとする。まあ……償いのおつもりなんだろうが、だが、毎日生きることですら必死な姉上には、傷口に思いっきり塩を塗られているような感じがするんだろう」
そこで言葉を切って、頼家は海を見た。
「だから、時々どういうわけか、御所にある俺の部屋に来られる。そうして、そこで眠ってしまわれるんだ」
「さすが……大姫様ですね」
小御所と御所は庭で繋がっているとはいえ、世間一般では「病弱な姫君」と通っている大姫は、やはり根は明るくて活発な性質なのだ。
「驚かないんだな」
泉の言葉に、頼家は意外そうに言った。
「そういうふうに、人に見つからないようにして行動されるのは、とてもお上手だったとお母から聞いています」
「海野殿は……そなたの父と母は、鎌倉のことをよく話していたのか?」
「はい。寝物語に、よく話してくれました」
「そうか……」
泉が頷くと、頼家は少しだけ黙まった。
「泉、俺も姉上は、本来は明るくて元気な人だと思う。だが、義高殿を失った哀しみは、姉上の心をー魂を、痛み続けさせている。だから『生きている』こと自体が、姉上にとっては苦行みたいなもんなんだろうな。多分姉上にとって、御所の俺の部屋は、『逃げ場所』なんだよ」
だけど、すぐに口を開いてそう言った。
「逃げ場所?」
「まあ、我が姉ながら、目の付け所は良いと思うよ。俺は、昼間ほとんど御所の部屋にいないからな。俺がいなきゃ、俺の乳母達もあの部屋には来ない。もっとも、もう乳母達も俺の世話なぞほとんどせずに、ずっとしゃべっているけどな」
「だから……なのですか?」
そんな頼家に、泉は尋ねた。
「だから、本当は御兄弟の方々とお親しいのに、そのことを隠されているのですか?」
泉の言葉に、頼家は小さく笑ったようだった。
そうして、いたずらっぽく言った。
「隠れ場所は、ばれてしまったら、隠れ場所じゃなくなってしまうだろう?」
風が、吹きぬけて行く。
その風に含まれた匂いは、泉が知らないものだった。
「潮風だ」
風に視線を向けた泉に、頼家がそう教えてくれた。
と、その時だった。
「何者だ?」
頼家が、鋭くそう声をかける。
気が付くと、数人の男達が泉と頼家が乗る馬を囲んでいた。
「鎌倉御所の嫡男殿が一人で出歩くとは、不用心だな」
その中の男の一人が、にやりと笑いながら言った。
「泉、しっかり捕まっていろ!」
その言葉と共に、馬の嘶きが聞こえ、ビシッと頼家が鞭を入れた。
風が、走り出す。
馬は、泉と頼家を乗せたまま、浜を走り出した。
だが、男達もそれに遅れずに付いて来る。
「間者(かんじゃ)の者たちか」
苦く、頼家が呟く言葉が聞こえた。
その瞬間。
泉は、自分の意識が解放されたことを感じた。
そうして。
変化は、すぐに訪れた。
馬を追うようにして走っていた男達が、急に立ち止まってしまったのだ。
否。
そうではない。
動けなくなってしまったのだ。
間者の男達は、バタバタと倒れていく。
その隙を突くように、頼家は馬を走らせた。
風が、流れるように通り過ぎて行く。
泉は、自分が「力」を無意識の内に解放したことに気付いた。
どうしようか、と思う。
木曽の里では、そんなことはなかった。
あの小さな里では、泉は「力」を使うことなく、生活することができた。
決して豊かではなかったが、安心して暮らしていた。
……「生命」が危険になることは、何一つなかったのだ。
「大丈夫か? 泉」
何時の間にか、大きな鳥居のある場所に来ていた。
泉は、伏せていた顔を上げる。
「すまないな、怖い思いをさせた」
そう言いながら、頼家は馬を下りた。
「お命を……狙われておいでなのですか?」
泉は、そんな頼家を見ながら問うた。
「たまに、な」
それに、頼家は短く答える。
「だったら、あまり外を出歩かない方がよろしいのではないですか?」
いくら泉が木曽の山里で育って、政治のことなど何一つわからなくても、それぐらいは察することはできた。
「どこにいようと、一緒だ。防げる時は防げるし、駄目な時は駄目だ」
「頼家様……」
あっさりと言われた言葉は、どこかあきらめているようにも聞こえた。
「それよりも泉。あれ、お前だろう?」
だが、この言葉には、泉は答えることはできなかった。
頼家の言っている「あれ」とは、さっきの間者達が急に動かなくなったことを言っているのだ。
答えることは、できなかった。
泉の持つ「力」は、誰にも言ってはならない。
これは、本当にいらない「
存在してはいけないもの。
何故、自分はこんな力を持っているのだろう?
「……泉は、この鎌倉が好きか?」
と、その時だった。
ふいに、頼家がそう尋ねて来た。
真っ直ぐに泉を見つめてくる。
「それはまだ、よくわかりません」
だから。
泉も、正直にそれは答えた。
「ですが、この鎌倉はお母が育ったところです。お父が『二番目の故郷だ』と言っていた場所です。そして、二人が『大切な人達がいる場所』と言っていたところです」
そんな鎌倉に、「怨み」は抱きようがない。
泉は、「鎌倉」をまだ父と母の話でしか知らないのだ。
「だから私は、この鎌倉を見てみたいと思いました。どんなところか確かめてみたいと」
「怨む」にしても、泉はその場所を知らねばならない、と思った。
「鎌倉」という場所。
父が「武士の都」と言い、「武士が守るべき」と言う場所。
「じゃあ、この鎌倉を怨むと決めたら、どうするんだ?」
「それは、まだわかりません」
ただ、その先は決めていなかった。
「怨む」と決めた時、自分はどうするのか。
「じゃあ、まだ時間はあるわけだ」
泉の言葉を聞いて、頼家はにまっと笑った。
「お前がこの鎌倉を好きになればいい。そうだろう?」
「頼家様」
その言葉に、泉は目をぱちくりさせる。
「お前が仕える姉上は、優しいお人だぞ。チビ共も手はかかるが、かわいい奴らだしな」
「ええ。それは、私もそう思います」
この言葉には、泉も笑いながら頷いた。
「これは私の意志では操れないんです」
そうして、そうも付け加えた。
「そうなのか?」
「はい。私に命の危機があれば別ですけど、意識して使うことはできません」
泉が初めて自分の持つ「力」に気付いたのは、まだ幼い頃だった。
夜盗が、泉達が住む里に紛れ込んだのだ。
その時、夜盗はまだ幼かった泉の弟を人質にしようとした。
周りは他に大人達もいなくて、夜盗達は泉も人質にしようと思っていたのかしれなかった。
だが、弟に刃を向けようとした瞬間、夜盗達は、皆血を大量に噴出して死んでしまった。
泉と弟の泣き声に気付いた父が、泉達のいる場所に来た時は、夜盗達は全員死んでいた。
まるで、血が体から吹き出ていたようだったと、父は母にだけそう語っていた。
泉は。
今でも、夜盗達の死体を見た後の、父の表情を覚えている。
―これは……お前の仕業か? 泉。
まるで、何かを恐れるような、そんな表情をしていた。
それは、「恐怖」と言ってよい表情で。
泉は、その瞬間。
確かに、父が自分を「恐れている」と感じたのだ。
そうして。
その頃から、父は、繰り返し泉に言うようになった。
「怨みは、何も生まぬ」と。
父は、きっと泉の「力」を恐れているのだ。
泉がこの「力」を使い、人を「殺す」ことを恐れている。
その果てにあるのは、「一族の滅亡」と言うことを、泉は察していた。
「なら、便利だな。お前を守ってくれるものなんだ」
けれど、頼家は。
まるで何でもないことのように、泉に言った。
泉は。そ
の言葉を聞いた瞬間、頼家をまじまじと見つめてしまった。
それまでは、父や母に「決して使うな」と言われていた「
それなのに、頼家は、「便利だな」と言ったのだ。
「力」のことで、そんなふうに言われたのは初めてだった。
「どうしたんだ? 泉」
「いえ……」
自分をけげんそうに見つめてくる頼家に、泉は首を振った。
「そろそろ戻るか。今度は、父親と共に来れるといいな」
そう言うと、頼家は再び馬にまたがった。
その言葉に、泉は初めて会った時、頼家が父と自分の話を聞いていたのだと、気付く。
そして、もう一つ気付いたことがあった。
「頼家様、私は降ります!」
主人に当たる者と共に馬に乗るなど、有り得ないことだった。
泉の仕えている主人は大姫だが、弟になる頼家も同じ立場である。
「馬鹿言え。また襲ってくる者がいるかもしれないのに」
だが頼家は構わず、馬に鞭を入れた。
いえ本当に、構って欲しいんです。
泉はそう言いたかったが、馬は走り出して、言葉にすることはできなかった。
★
「急に呼び戻して悪かったですね、泉」
頼家と共に小御所に戻った後。
頼家とは侍女達が住む棟の近くで別れた泉は、阿古夜の部屋へと戻った。
中で待っていたらしい阿古夜が、泉が部屋に入るなりそう言った。
「阿古夜様」
泉は、あわてて阿古夜の前に座ろうとした。
「良いですよ、泉。それよりも、すぐに大姫様のお部屋へ行きますよ」
だが阿古夜はそう言うと、立ち上がった。
「あ、はい」
戻ってきて早々の言葉にとまどうが、泉は阿古夜の言葉に従った。
とりあえず、自分は侍女なのだ。
「手が足りない」と言われて呼び戻されたのだから、本当に忙しいのかもしれない。
そう思って、阿古夜と一緒に大姫の部屋に行くと、部屋はとても静かだった。
「実は、大姫様が寝込まれております」
大姫の部屋へと続く控えの間に入る前に、阿古夜がそう言った。
「えっ?」
けれど、さっきまで会っていた頼家は何も言わなかった。
頼時も、同様である。
「泉、大姫様に着いていてあげてください」
「え?でも……」
自分ごときが、大姫の看病をして良いのか。
「多分、お前なら大姫様もお目覚めになるような気がするのです。お前が家に戻った直後に、寝込まれたのです」
「それは……」
ただの偶然ではないのか。
泉はそう思った。
「泉。お前がこの鎌倉に来てからの大姫様のご様子は、私達が見たら、とても驚くものがあるのですよ」
だが、阿古夜は静かに微笑みながら言った。
「幼いお前を頼りにするしかない私達ですが……少しでも、良くなって欲しいのです」
「わかりました」
両親の恩人である阿古夜にここまで言われたら、泉は頷くしかない。
自分はただの子どもでしかないが、自分のできることで大姫や阿古夜の助けになるならば、そうしたかった。
そうして。
泉は大姫の部屋に行きかけて、部屋が暗いことに気付いた。
「阿古夜様、戸を開けてもよろしいですか」
病人に明るい日差しは負担かもしれないが、それにしても、暗すぎるように泉には思えた。
「大姫様のご負担にならぬ程度になら、かまいませんよ。必要な物があれば、下女に伝えなさい。すぐに用意させます」
「わかりました」
泉はこくんと頷くと、真っ暗な大姫の部屋へと入って行った。
続きの間からの光があるとは言え、部屋の中は暗くて、見えにくかった。
泉は微かな光を頼りに、木戸の方へと歩いていく。
と、その時だった。
「泉……?」
か細い声で、大姫が泉の名を呼んだ。
「大姫様。ご気分はいかがですか?」
泉は、夢織姫の枕元に座り込んだ。
大姫の額に手を伸ばして、熱がないか確認する。
「お前は、屋敷に戻ったのではないの?」
「はい。おかげさまで、父が里に帰る前に共に過ごすことができました」
額は、焼けるように熱かった。まだ熱が下がっていないのだ。
よく見ると、枕元に濡れた手ぬぐいが落ちていた。
そうして
泉が戻って来る前までは、誰かが大姫の看病をしていたのかもしれない。
だけど誰もが―おそらくは阿古夜でさえ、ここには長くいたくないのだろう。
泉は、手ぬぐいを水に浸すと、硬く絞って、大姫の額の上に置いた。
それから立ち上がって、木戸の方へと歩いて行った。
がっと両手で木戸を握り締め、静かに気をつけながら動かした。
少しずつ木戸が開いていき、外の光が部屋の中に入って来る。
大姫に負担がかからない明るさになるように、木戸の開けた方を調節して、泉は大姫の部屋の木戸を開けた。
「……光」
部屋に光が差し込んで来たのを見て、横になっていた大姫が、そう言って泉の方を見る。
「眩しいのでしたら、元に戻します」
泉がそう言うと、大姫は首を振った。
「ううん……真っ暗なよりは、いいわ」
そうして、光が差す方に視線を向けて、眩しそうに目を細める。
―光を。
そんな大姫を見ながら、泉は思った。
この人の周りを、できるだけ光で満たそう、と。
こんな暗い場所で、じっとしていても、大姫の意識が現に向かうわけがない。
過去の傷を受けて、生きていることが精一杯の大姫には、周囲を「光」で満たさなければならないのだ。
それは簡単ではないような気がした。
ただ、それでも。
それが、自分のできる唯一のことならば。
やってみようと、泉は思った。
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