風の囁きが聞こえる~御家人田舎娘は鎌倉幕府次期将軍と共犯の恋に落ちる~
kaku
一 萌黄(もえぎ)
切り立った石の壁を通り抜けると、視界が開けた。
閉じていた空が急に割れて、一気に広がったように思えた。
「お父(とう)、あれが海?」
泉(いずみ)は、馬を連れて自分の前を行く父に問うた。
泉の視線の先には、薄い青の色が広がっている。
暖かい、春の日だ。
「いや」と、父は、泉の方をちらっと見て再び前を向くと、首を小さく振った。
「ここからは、海はまだ見えん」
「ありゃ、かわいか娘さんじゃねえ」
その会話が聞こえたのか、切り立った石の壁のすぐ近くで、店を開いている男が声をかけて来る。
簡易に作られた軒下で、藁を編んで作ったらしい敷物の上に、野菜やら果物やらが並んでいる。
「こんにちは」と、泉は、頭を下げた。
「娘さん、海は初めて見るのかい?」
「はい、そうです」
話しかけられ、泉はこくんと頷いた。
「お武家さん、あんたこんな小さい子を歩かせているのかい? そこにそーんなりっぱな馬がいるんだ。乗せてあげりゃあいいのに」
男は商人特有の気安さからか、泉の前にいた父に声をかけた。
いつも無骨な表情を崩さない父は、じろっと男を横目で見下ろした。
「だって、馬は大切だもの」
そんな父を庇うように、泉は言った。
「あの畠山(はたけやま)重忠(しげただ)様(さま)だって、一(いち)の谷(たに)の戦の時には、馬を背負って崖を降りられたんでしょう? 馬は大切な時に使わなきゃいけないから」
それは、常々父が言っている言葉でもあった。
武士として、馬を使うことはよくよく考えなければならない、と。
馬は、人間を乗せて走ってくれる。
でも馬だって生き物なのだから、疲れる。
一番大切な時に走れなくては、武士としての役目は果たせなくなる。
だからこそ馬は大切に扱わなくてはいけない、と。
「こりゃこりゃ、賢い娘さんじゃなあ」
商人の男は、笑いながらそう言った。
「泉、よけいなことは言わなくていい」
そんな男の言葉を遮るように、父は言った。
「それよりも、急ぐぞ。先方をお待たせするわけにはいかないからな」
「お武家さん、娘さんを怒らんでくださいよ。わしの方から話かけたんですからね」
商人が、父に向かってそう言って、泉に
「これを持っていきな」
と、敷物の上に置かれていた枇杷を、泉に二個渡してきた。
「え、でも……」
「いいから。父上と一緒に食べな」
ぐいっと押し付けるように枇杷を渡され、泉は頭を下げて枇杷を両手に持つと、先に歩き出した父の後を追った。
小走りで父に追いつくと、馬のアオが、ぷひひひっと鳴いた。
「アオ、お前の主人は私で、泉ではないぞ」
父がアオの手綱を握り締めながら、それでもあきらめたように立ち止まった。
「さっきの人が、お父と一緒に食べろって」
泉は息を切らせながら、父に枇杷を差し出した。
父は黙って、その枇杷を手の平で受け取った。
ぶひひと、短くアオが鳴く。
「アオ……本当にお前は、泉には甘いな」
ため息を吐いて、父はそう言った。
「泉、お前がこれから仕える場所は、色んな方々が出入りする。お前はたくさんのことを見聞きするだろう。だがその中には、他言せぬようなことがあるやもしれぬ。先のようにお前が軽い気持ちで話したことが、取り返しのつかないことになることだって、あるかもしれぬのだぞ」
「お父……」
「お前を鎌倉にやるのは、できれば避けたがったが……」
枇杷をかじりながら、父は泉を見た。
「せっかくもらったんだ。食べるがよい」
「あ、はい」と、泉は父の言葉に頷いて、泉も枇杷を口元に運んだ。
「だがここは、お前の故郷だ。お前が生まれた、もう一つの故郷だ」
枇杷をかじる父の視線は、まっすぐに鎌倉へと連なる道を見ていた。
「お父達が昔お世話になった方に、私はお仕えするのでしょう?」
その名をこの道中では口にするなと、父に硬く言われていた泉は、そんなふうに言った。
「そうだ。この鎌倉には、私やお前の母の恩人でもあり、大切な方々がいらっしゃる」
父の言葉に、泉は顔を上げた。
「忘れるな、泉。ここはお前と私達のもう一つの故郷でもあるのだ」
泉に言い聞かせるように、父は言った。
泉にとって、「故郷」とは木曽のことだった。
四方を山々に囲まれたあの里が、泉が知る世界であり、あの場所で自分は生きていくはずだった。
だが、今。
泉は父と共に、母や弟達とも離れて、はるばるこの鎌倉へとやってきた。
「海」があるという、そして父達「武士」が守るべき、「武士の都」である鎌倉。
そこには、どんなものが自分を待っているのか。
まだ十一歳の泉には、わかりようもなかった。
★
「まあ……!」
泉を見て、その女性は大きく目を見開いた。
白髪の髪を後ろに流した女性は、鎌倉の父の屋敷で、泉達が到着する前から待っていたということだった。
「ご無沙汰しております、阿古夜(あこや)様」
通された対面の間で、父は上座に座ったその女性に、頭を下げた。
「この子が、あの時の子ですか」
阿古夜、と父に言われた女性は、父の隣に住む泉をじっと見つめながら、泣きそうな顔をしていた。
「はい。『泉』と申します。今年で、十一歳になりました」
父は、泉の方を見ながらそう答えた。
「ご挨拶をしなさい」
「海野(うんの)小太郎(こたろう)が娘、泉と申します。どうかよろしくお願いします」
父に促され、泉は阿古夜に頭を下げる。
「鈴(すず)に、よく似ていますね」
阿古夜は、母の名を口にした。
「阿古夜様は、母の親代わりだった方だ」
それに付け加えるようにして、父が言った。
「あの頃の鈴を見ているようです」
阿古夜は、瞳を濡らしながらそう言った。そして、そっと泉の頭を撫でる。
「母は、木曽で元気に過ごしていますか?」
「はい」と、阿古夜の言葉に、泉はこくんと頷いた。それは、本当のことだった。母の鈴は、あの山里で父を支え、弟達を育てて、毎日微笑みを浮かべながら暮らしていた。今、母とは離れてしまっているけれど、今日も母は木曽で微笑みを浮かべながら、元気で過ごしていると、泉は素直に思っていた。
「幼きそなたを、その母から引き離してしまったこと、詫びねばなりません」
でも泉を見て、阿古夜はさらに瞳を濡らす。
「『自分の大切な人達が鎌倉にはいて、その人達が困っている。だから、お前が私の代わりに鎌倉に行って、助けてやって欲しい』と、お母は言っていました」
だから、泉は母が自分に言った言葉を、阿古夜に伝えた。
「お母は、その人達にたくさん助けてもらったそうです。そのおかげで、生きてこられたとも言っていました」
今度はその人達を、お前が助けてやって欲しいと。私達の娘である、お前に。そう、母は言ったのだ。
「鈴がそのようなことを……」
泉は、もう一度こくんと頷いた。
「鈴の言うとおりです。私達は、そなたに助けて欲しいのです。長き時、その心に傷を負った方のために」
「傷?」
「ええ。私達は、あの方が負った心の傷を容易く考えていました。『今はまだ幼いから、あのように嘆かれるのだ。きっと、ご成長すれば傷は癒えるだろう』と。けれど、その考えは浅はかでした」
そうして、阿古夜は語り出した。
鎌倉の、誰もが知る恋の話を。
悲劇に終わった、一人の少女の恋の話を。
★
丹永三年(一一八四年)、正月二十日。
木曾義仲(きそよしなか)、敗死。
その四ヶ月後、人質として鎌倉に入っていた嫡男・義高(よしたか)は脱出を図るものの、入間川にて追いつかれ、惨殺される。
享年、十二歳。
それは、仕方がないことだと、誰もが思った。
残された幼い姫のことは、幼いから、何もわからないだろう、すぐに忘れるだろう、と誰もが思った。
だけど。
それは、あまりにも浅はかな考えだった。
誰もが大人になれば癒えると信じた少女の傷は、十年経っても、癒えないままだった。
その子の名前は、「大姫」。
鎌倉幕府将軍の、一の姫。
当代随一の姫君として生を受けた彼女が、望んだものは、ただ一つ。
だがその願いを叶える者は、もうこの世にはいないのだ。
★
「まあ!あの頃の鈴を見ているようです」
その女性は、阿古夜と同じように、鈴を見て声を上げた。
でも、目に涙を浮かべているところは違うな、と上座の方に座る女性を、頭を下げた姿勢のまま、こっそりと思う。
―政子様はね、とても素直な方なの。自分のお気持ちを、いつも正直にお顔に出してしまう方だったわ。
そうして、母がそう言っていたことを思い出す。
浅黒い肌に大きな黒い瞳が印象的な政子は、泉を見て感激したように泣いている。
「泉、ご挨拶をしなさい」
と、ふいに自分の前に座っている父にそう言われて、泉は、はっとなった。
「海野小太郎が娘、泉でございます。よろしくお願いします」
あわてて、昨日阿古夜にした挨拶と同じ言葉を言った。
「幼いそなたを、両親から引き離すようにしたことを、謝らなければなりません」
正面の上座に座る政子は、そう言って、泉に頭を下げた。
その姿に、部屋に控えていた侍女達が驚いた表情になった。
一介の御家人の娘に将軍の夫人である政子が頭を下げるなど、考えられないことなのだ。
「そのようなことは、申されないでください。政子様からもらった恩があるからこそ、今のこの子がいるのです」
それに対して、父が頭を下げながら言った。
「いえ。謝らせてください、小太郎殿。私は、幼き泉をそなたや鈴から離した張本人です。それも、私の身勝手な思いのために」
だが、政子は首を振って、立ち上がった。
そうして、すっと、父の後ろに座っていた泉に近づいてくる。
「ですが、非道を承知でお願いします。どうか、私の娘を、助けてやって欲しいのです。死んだように生きる、私の娘の救いになって欲しいのです」
真っ直ぐに泉を見る黒い瞳には、涙が浮かんでいた。
この時、泉は母の言っていた言葉をこの人にも言うべきか、と思った。
だけど、自分を真っ直ぐに見る政子を前に、泉は違うことを口にしていた。
「私は……何をすれば良いのですか?」
それは、母と父の「恩人」であるこの人に、自分は何ができるのだろう、とそう思ったからだった。
泉は、自分が子どもであることを知っている。父のように戦うこともできないし、母のように自分達を育てながら、里の者達に心を配るようなこともできない。
自分にできることは、母の手伝いをして、母の負担を少しでも減らすことだった。
そんな子どもである自分に、この人は「自分の娘を助けてやって欲しい」と頼むのだ。
どうすれば、その「大姫」と言う人を、助けられるのか。
「私達の長女(えひめ)である大姫は、もうずっと私達に心を閉ざしています。それは、私達が、あの子の許婚を殺してしまったからです」
それは、昨日阿古夜から聞いていたことでもあった。
泉は、ちらっと自分の前に座る父の背を見た。
その許婚は、かつて父が仕えた人だった。
父の背には揺らぎがなく、黙って政子の言葉を聴いているように見えた。
「私達は、あの子は幼いから、すぐに忘れてくれると思っていました。しかし、あの子の心は閉ざされたまま。私は、あれからあの子が笑った顔を、一度も見ておりません」
そんな泉の様子に気付くことなく、政子は言葉を続けた。
泉は、政子に視線を戻した。
「ただそんなあの子でも、幼い弟妹達はかわいいらしくて、よく面倒を見てくれます。幼い頃に世話をしてくれた鈴の娘であるそなたであれば、大姫も心を開いてくれるかと、思ったのです」
政子は、そう言って、涙を一筋頬に流した。
「私達に笑いかけなくても良いのです。ただ、もう一度、私はあの子に笑って欲しいのです。そうして、少しでも、明るく生きて欲しい」
その言葉と同じことを、阿古夜も言っていた。
だけど。
それは、泉が知りたい答えではなかった。
母が昔仕えていた、「大姫」という人が、深く傷ついている。
その人のために、自分に何ができるのかを、泉は知りたかったのだ。
だから。
自分に助けを求めるこの人達のために、何ができるのか、結局わからないままだった。
★
「難しく考える必要はない」
泉の言葉を聞いて、父はそう言った。
「お父……」
「お前は、何事も深く考えすぎる。そういうところは、父親似だな」
父は、苦笑しながらそう言葉を続けた。
「お前は、大姫様に誠心誠意お仕えすれば良い。そうすれば、自ずと自分のするべきことが見えてくるだろう」
「……はい」
泉は、父の言葉に素直に頷きつつも、父の視線が一瞬、ここではなく、違うところを見ているような気がした。
「そう言えば泉は、海を見ていなかったな」
ふと思い付いたように、父は言った。
「あ、はい」
それは、父の言う通りだった。
泉は昨日鎌倉に来て、父の屋敷に直行した。
そして今日は、この鎌倉御所に来て、政子達に挨拶をした。
今、泉達がいるのは、小御所の阿古夜の部屋だ。
泉は、これからしばらく、阿古夜の部屋で、共に寝起きをすることになっている。
「お前が宿下がりで屋敷に戻って来た時は、由比ケ浜に行こう。あそこは、お前の父と母も好きな場所だった」
「はい」と、自分の言葉に、頷く泉を見て微笑むと、父は立ち上がった。
父が帰るつもりなのだと察した泉も、立ち上がろうとした。
「ここで良い」
しかし、父はそう言って手を振った。
「お父、でも」
「お前も、これからはこの御所で働くのだ。阿古夜様の言うことをよく聞いて、一日でも早く慣れるようにせねばな」
泉は、立ち上がった父を見上げた。
細い目をした父は、さらにその目を細くした。
「では、またな」
そうして、頭を下げると、父は部屋を出て行ってしまった。
残された泉は、しばらく、父が出て行った縁の方を見つめていた。
阿古夜が気を利かして、父と二人だけにしてくれたのだが、父は短い時間で帰っていってしまった。
どうしよう、と泉は思った。
はっきり言ってすることがない。
何か手伝いをしようとしても、勝手知った自分の家ではない。
入ってきたばかりの自分が何かすれば、よけいに迷惑であることはさすがに想像できる。
「お前が、木曽の姫か?」
と、その時だった。
ふいに、そんな声が縁側の方から聞こえた。
え?と泉が思っていると、西日が差す縁側に、人影が現われた。
その人影は、黒い大きな瞳と浅黒い肌をした少年だった。
年の頃は泉と同じぐらいだろうか。
「……誰?」
泉は、いきなり現われた少年に、思わずそう尋ねてしまった。
泉のいるこの棟は、女性の仕え人達が使う部屋のみである。
それなのに、いきなりこの「少年」が現われた。
ここの仕え人の子どもが、この棟に来ていたのだろうか? とも思ったが、それにしては、少年の身形はりっぱなものだった。
「聞いているのは俺だ。お前が木曽の姫?」
「違います」
だがこの問いには、即答した。
泉は、自分が「姫」と呼ばれる身分ではないとわかっていた。
父の小太郎は確かに御家人だが、それでも、身分が高いわけではない。
里の者達も、泉のことは、「泉様」とか「嬢様」と呼ぶ。
「だが母上が言っていた木曽の姫とはお前のことだろう?姉上に仕える侍女になるのは」
その言葉に、泉は目を丸くした。
自分が使えることになる主人(ひと)を「姉上」と呼ぶこの少年は、つまり「若君様」になるのだ。
「俺は、源頼家(みなもとのよりいえ)。この鎌倉御所(かまくらごしょ)の太郎君(たろうぎみ)だ」
そして、少年は朗々とした声で名乗った。
その堂々とした様はだがこの使用人の棟には不釣合いで、泉はおかしくなってしまった。
「海野小太郎が娘、泉でございます」
それでも、主人の家族であるこの少年に名乗らないわけにもいかないので、笑いそうになるのを堪えながら、泉は頭を下げた。
「海野小太郎の娘?木曽の姫じゃないのか」
「確かに私は木曽から来ましたが、『姫』ではありません」
「じゃあ、お前は何なんだ?」
「だから、海野小太郎が娘、泉です」
もう一度、泉はそう言った。
「『姫』じゃなくて、『泉』?」
それに対して、頼家はそう聞いてくる。
「はい」と、泉は頷いた。
「ふーん……」
頼家はじろじろじろと、上から下まで泉を見て来る。
「あの……?」
「俺は、『頼家』だ。『源頼家』」
そうして、もう一度そう名乗った。
「頼家……様?」
「そうだ。それが、俺の名前だ。姉上の前では、『若君』と呼ぶなよ。あ、それから俺がここに来たことは、誰にも言うなよ」
頼家はそう言うと、くるりと泉に背を向けて、庭へと下りてしまった。
その姿は、すぐに夕闇に染まって見えなくなる。
「小太郎殿は、もう帰られたのですか」
泉は、呆気に取られていると、縁の方から話している声が聞こえたのか、足音がして、阿古夜が部屋に入ってきた。
「あ、はい」
泉はその言葉に、あわてて頷いた。
「ぜひ、食事を共にと思ったのですが。相変わらず、生真面目な方ですね」
そう言って、阿古夜は穏やかに笑う。
今、彼女の脳裏には、まだ少年の頃の父が甦っているのかもしれなかった。
「ならば、そなたに小太郎殿の分まで食べてもらうことにしましょう」
だが、次の言葉には、固まってしまった。
「小太郎殿は遠慮深い方なので、こちらも考慮したので、そなたでも食べきるでしょう」
その言葉を待っていたかのように、数人の下女達が膳を持って部屋に入って来る。
そこには、魚らしき物やそれを使ったような料理がてんこ盛り状態で置かれている。
「阿古夜様……」
顔が引きつっていることを、泉は感じた。
「そなたはまだ小さいのですから、しっかり食べねばなりませんよ」
にっこりとそう言って笑う阿古夜の顔を見ながら、『阿古夜様は、食事をよく「たくさんお食べなさい」と言って、食べきれないぐらい器に盛ってくださっていたわ』と、母が言っていた言葉も思い出した。
★
自分の部屋に入ると、板間の床に、姉が体を横たえて眠っていた。それを見たとたん、頼家(よりいえ)は深いため息を吐く。
小御所に自分の部屋を持つ姉が、庭続きの御所にある自分の部屋に来るのは、そうめずらしいことではない。
昔から、姉の大姫は何かあると、自分の部屋に来ていた。
どうやらここは、彼女にとって絶好の隠れ場所のようなのだ。
まあ、傍目から見れば、自分と姉はあまり仲の良い姉弟じゃないし、自分のこの部屋は、自分がいない時は、いつも周りにかしずいている乳母達も居つかない。
姉は、ちゃんとその辺のことを知っているから、ここに来るのだ。
それが物心着いた頃から続いているのだから、自分の部屋に勝手に入られることに対して、怒りを感じることはない。
それよりも頼家があきれるのは、姉が毎度毎度来るたびに、硬い居間の床に、袿(うちぎ)もかけずに眠っていることだ。
夏だろうが、冬だろうが、おかまいなしにそうなのだ。
幾度となく、眠るなら隣の寝所の畳の上で寝ろ、夜具もきちんと敷いて寝ろ、と言うのだが、姉は笑ってその時は素直に頷くくせに、その通りにしたことはなかった。
「……うん」
思いを巡らせながら、頼家が音を立てぬように戸を閉めていると、冷えるのか大姫が小さく呻き声を上げて、体を猫のように丸めた。
「まったく……」
春先とは言え、朝夕の空気はまだまだ冷たい。
夕刻にも近い今は、羽織だけでは肌寒く感じるぐらいだ。
頼家はあきれ気味に小さく呟くと、居間に続く寝所の方に足を向け、自分の夜具を持って大姫の元に戻ってきた。
そしてそして、体の上にかける褥を眠る姉にかけてやりながら、姉がまた少し痩せたことに気付く。
昔は―元気のいい人だったのだ。
そう。
婚約者を、父に殺されるまでは。
今は、だいぶんましになった方である。
義高を殺された直後などは、食を断ち、水も飲まず、無理に食べさせよう飲ませようとすると全て戻し、昏睡状態まで陥り、一度は医者に覚悟するようにまで言われたらしい。
その頃に比べたら、年に二、三度肝の冷えるような高熱を出そうが、一日の大半を眠って過ごしていようが、まだましなのだ。
少なくとも、今の姉は、生きることを拒否していない。
食は普段から細いが、どんなに気分が優れていなくても、ご飯は食べようとしているし、病気になっても、医師の言う通り薬を飲んで安静にしている。
生きようと思っていないなら、それらのことはとっくに放棄しているだろう。
けれど―あの頃の頼家は幼くて義高についても全然記憶にないのだが、それでも姉の笑顔が、今よりもずっと無邪気で輝いていたことは覚えている。
しかし、来年には十八歳になる今の姉は、そんな笑顔を浮かべることはない。
自分や、九歳の妹・三幡(さんまん)、三歳の弟・千幡(せんまん)に対して静かに微笑んでくれるぐらいだ。
「う……ん」
と、その時である。
大姫のまぶたが微かに動き、やがて両目が開かれた。
「目が覚めたのか、姉上」
しかし、目が完全には覚めていないのか、頼家が声をかけてもぼんやりとしている。
「姉上?」
「……頼家」
再度声をかけると、大姫は自分が眠っていたことを思い出したようだった。
「私……寝ていたんだ」
「ああ。気分はどうなんだ?」
「それは……だいじょうぶ」
悪くないわよ、と言葉を続けて、大姫は目を閉じた。
今度は、頼家も何も言わず、黙ってそんな姉を見つめた。
父上と何かあったのか?と聞こうと思ったが、何かあったらからこそ、姉はここに来ているのだ。
改めて聞くまでもなかった。
しばらくの間、沈黙が二人を支配した。
やがて、大姫が先に口を開いた。
「何も聞かないのね」
「話したいなら、聞くけど?」
「ううん……いい」
簡潔な弟の言葉に、大姫は目を閉じたまま、小さく笑った。
「話したら、また嫌な気分になるもの……」
その短い言葉で、頼家は自分の予想が当たったことを知る。
義高を亡くしてから、姉と父・頼朝の仲は折り合いが悪かった。
最愛の婚約者を亡くした姉は、健康を取り戻した後も記憶の混乱を起こし、父・頼朝を「自分の父」だとはわからなかった。
かなり後になってからそれは回復し、姉は頼朝を自分の父親だとちゃんと理解するのだが、それは、傷つけられた心が癒えた証にはならなかった。
心を閉ざした娘と、何とか娘の心を開かせようとする父。
父や母は、何とか傷ついた姉の心を癒そうと躍起になっているが、姉にとってはそれら全てが、傷ついた心に塩を塗られるようなものかもしれなかった。
誰もがすぐに忘れると信じていた心の傷は、十年たった今でも、癒えることなく姉の心にあるのだ。
「そうだ、姉上の新しい侍女を見てきたぞ」
頼家は、姉の気持ちを逸らせるために、軽い口調でそう言った。
「えっ、母上が言っていた子?」
とたんに、姉はがばっと起き上がり、頼家の方を向いた。
「姉上に使えていた侍女の子どもだろ?」
「そうよ、鈴の子ども。三幡とあまり年は変わらないはずなのに」
父や母には心を閉ざす姉も、幼い弟妹達には優しいし、よく面倒を見ている。
自分が姉のところにこっそり行くと、幼い弟と妹がいて、まあそうなるとお互いに話とかもするわけで、実は頼家はしっかり幼い弟妹達と交流
していたわけである。だが、周りはそうは見ていない。
両親でさえも、この姉と同様に、頼家は幼い弟妹達とはほとんど交流がないと思っている。
けれど、それは必要なことだった。
姉が、この世に留まっているためには。
「そんな小さい子を、呼び寄せるなんて」
その姉は、来たばかりの子を気遣っている。
「断らなかったのか?」
「断ったわよ、もちろん。だけど、無視して母上が呼びよせたのね。……大丈夫かしら、不安がっていないかしら」
「いや、それはなかったぞ。父親と一緒に話している時から見ていたけれど、別れる時も普通にしていたし」
「頼家、侍女達の棟まで行って来たの!?」
「俺がそういうの上手いことは、姉上も知っているだろう?」
姉が驚いたように言うので、頼家は意外に思ってそう答えた。
頼家は、姉が住む小御所の棟にしょっちゅう忍び込んでいるが、一度として誰にも気付かれたことがなかった。
それは、御所にある自分の部屋に、しょっちゅう忍び込んでいる姉も同じだった。
「でも、あそこは女性達がいる棟なのよ」
「それは、御所(ここ)にある俺の部屋に来ている姉上にも言えることだと思うけど?」
世間一般には病弱で通っている姉が、御所の自分の部屋に来ているというのは、見た者がいれば、それこそ顎が落ちる程驚くだろう。
だが、今のいままで、この御所に忍び込んで来る姉の姿を見た者はいない。
つまり自分もだが、姉もその手のことに関してはかなり長けているのである。
「……そうだったわね」
自分も同じ立場にいることを思い出した姉は、そう言って頷いた。
「どんな感じの子だったの?」
「ちんまい子だったな」
「ちんまい子!?」
頼家としては、見たままの印象を言ったつもりだったが、姉はそうは思わなかった。
慌ただしく、すくっと立ち上がる。
「落ち着けよ、姉上」
それを見て、慌てて頼家は言った。
「だって小さい子だったんでしょ! だったら、急いで帰れるようにしてあげないとっ」
「それはまずいって。姉上、考えてもみろよ。一応、泉は御家人の娘なんだし、何よりも母上が無理言って呼び寄せた子なんだろう? 母上の顔に泥を塗ることになるし、姉上の評判だって悪くなるぞ」
「別にいいわよ。私の評判なんて。どうせ、私の評判なんて、ないようなもんだし」
「姉上は良くても、木曽の方は良くないぞ」
頼家は、ため息を吐きながらそう言った。
「あ、そうか……そうよね」
勢いよく立ち上がった姉は、すとんと、板間の床に座り込む。
「一応、天下の御台所からの声かけて来たんだろうからさ、早々に帰すのは問題あるって。母上の顔に泥を塗るだけならいいけど、木曽の方では、一族の期待背負って来ているぞ」
「……そうなのよね~。木曽の方がその子が悪かったと勘違いして、その子がつらい目にあったとしたら、本末転倒だし」
姉の言葉を聞きながら、頼家は出会った、木曽の少女を思い出していた。
泉、と名乗ったあの小さな少女。
確かに、小さくてあどけない子だった。
だけど。
「大丈夫じゃないかな、姉上」
自分と対峙した時の泉を思い出しながら、頼家は言った。
「頼家?」
「確かに、ちんまい子だったけど。気持ちまで、ちんまい子じゃないと思う」
「そうなの?」
頼家の言葉に、姉は怪訝そうな顔をした。
「うん。様子を見てからでも、遅くないよ」
確かに、体は小さい子だった。
顔立ちも、まだあどけなかった。
でも、気持ちは、かなりどっしりと座っているような気がした。
少なくとも、泉は自分が源頼家だと知っても、少しも驚かなかったし、態度を変えるようなこともしなかった。
たいていの人間なら、自分が「源頼家」と知れば、驚いたような表情をして、ぺこぺこと頭を下げるのに。
「ふーん。じゃあ、そうしてみる」
姉は、頼家をじっと見つめた。
それから、ふふっと小さく笑う。
「頼家が私の侍女についてそんなこと言うなんて、初めてね」
「そうか?」
「そうよ。会うのが楽しみになってきたわ」
そう言って楽しそうに笑う姉は、笑っていても、どこか寂しげに頼家には見えた。
★
暇だ。
そう、泉は思った。
泉は今、大姫の部屋と繋がっている控えの間にいる。
朝になり、朝餉を阿古夜と共に終えてから、泉は身支度を整えて、大姫の部屋のある棟まで来た。
だが、それからが長かった。
今はもう巳の刻(朝の十時頃)だ。
大姫の部屋と繋がった控えの間に入ったのが辰の刻(朝の八時ごろ)で、それでも随分と遅く起きられるのだな、と泉は思ったのだ。
木曽では泉は寅の刻(朝の四時ごろ)には起きて母と共に家の仕事をやっていた。
父はさらにそれよりも半刻早く起きて、野良仕事へと出かけていた。
泉の家にも下人は何人かいるが、それでも一緒に仕事をしていたし、泉はそれが当然だと思っていた。
だから、巳の刻まで何もせずにじっとしているということは有り得ないことだった。
暇。
とりあえず、泉はもう一度、心の中で呟いた。
何もすることがない、ということがこんなにきついことだとは思わなかった。
こんなことは、初めてのことだった。
と、その時だった。
隣の部屋で、空気が動く。
布のかすれるような音もする。
「どうしました、泉」
「お目覚めになられたみたいです」
小さな声で訪ねられ、泉はそう答えた。
「そうなのですか?」
驚いたように阿古夜は泉を見たが、やがて隣の部屋へと視線を向けた。
「お目覚めになられましたか?」
そうして、立ち上がりながら部屋にいる大姫に声をかけた。
「……起きたわ」
すると、薄暗い部屋から、か細い声が返ってきた。
泉は、そのか細さに、目を見張った。
「では、お仕度を」
「何故お前がいるの? 阿古夜」
そのか細い声は、拒絶するように言った。
「新しく入った侍女を紹介するためにです」
「他の者はいないの?」
「新しく入った者―泉ならば、おります」
阿古夜の答えに、か細い声が黙った。
「まだ不慣れな者ゆえ、ご不自由をかけてしまうかもしれませんが、かまいませんか?」
「……いいわ」
たが、次の瞬間。
か細い声は、ため息を吐くように行った。
「泉、行ってらっしゃい」
泉は、阿古夜をじっと見上げたが、こくんと阿古夜が頷くのを見て、さっと立ち上がった。
そうして、すっと大姫が眠る部屋へと足音をたてないようにして、入っていった。
「失礼します」
泉は小さめな声でそう言うと、一旦入り口の近くで座って、頭を下げた。
「お前が泉?」
木戸が締め切られた部屋は薄暗く、泉は声をした方に視線を向ける。
「はい。海野小太郎が娘、泉と申します」
「鈴の娘ね」
その暗闇の奥にいる人影が、笑いを含んだ声でそう言った。
「はい、そうです」
母の名は告げなかったのに、何故わかったのか。
そんな鈴の思いを見てとったのか、
「だって、鈴にそっくりだもの」
人影は、そう言ってまた笑った。
「木戸を……開けても良いですか?」
暗闇で見えない人影を見たくて、泉は遠慮がちにそう言ってみた。
「いいわよ。お前が開けてくれるの?」
「はい」
泉はそう言って、立ち上がった。
そうして、からからと木戸を両手で開けた。
次の瞬間。
明るい光が、ぱあっと弾けるように部屋の中へと入り込んで来る。
「ああ、やっぱり」
泉がその眩しさに目を細めると、か細い声は、明るい笑い声を含んでいた。
「鈴に、よく似ているわ」
その声に、泉は振り返った。
眩しい光の中で、その人を微笑んでいた。
白い小袖を細いその体にまとい、肌も、透き通るかのように白い。
だが、その瞳は。真っ直ぐに泉を見ていた。
「……大姫様」
―大姫様はね、とても元気なお人だったわ。いつも笑って、よくいたずらをされていたから、政子様に怒られていらっしゃったの。
それは、母が泉に語り聞かせていた少女が、成長した姿だった。
だけど、母が話してくれた少女の面影は、どこにもなかった。
痩せた体に、白い肌。
一目で、健康ではないとわかる姿。
それでも、泉をみる瞳は真っ直ぐだ。
つい、と大姫は泉から目を逸らすと、泉に「泉、私手水(ちょうずい)使いたいな」と、言った。
「わかりました」
泉はこくんと頷くと、阿古屋がいるはずの控えの間に戻った。
そこには阿古屋の他に、一人の侍女が手水用の器を持って控えていた。
「泉、この者と一緒に大姫様の世話を」
その後ろにいた阿古屋が、そう言って泉に指示を出す。
「わかりました」
泉は、またこくんと頷いた。
とにかく、今は周りの者達の動きを見て、どんな風に動けば良いのか、きちんと知らなければならない。
そう思った泉は、侍女の後について行った。
「大姫様、おはようございます」
侍女は挨拶をすると、器を持った姿勢のまま、大姫の前に進む。
それを後ろから見つめながら、泉は自分が覚えるべき仕事を、しっかりと頭の中に叩きいれていった。
★
大姫と言う人は、本当に、生気のない人だった。
朝は、昼近くまで寝ている。そして起きてからは、食事もほとんどしないで、何をしているのかと思ったら、また寝ている。
(暇じゃないのかな)
泉は、今日も控えの間で大姫が起きるのを待ちながら、そんなことを考えた。
昨日一日大姫に仕えるための仕事を教えてもらいながら、大姫の様子も見ていたけれど、泉には考えられない一日の過ごし方だった。
昼近くまで寝ていて、ご飯はほとんど食べず、何をするわけでもなく、気付いたらまた寝ている。
大姫が起きている間は、傍に何人かの侍女達が控えているのだが、ほとんど何かを命じられることはない。
だけど、皆はそれに対して何を言うまでもなく、じっと静かに座って控えている。
しかし、それは泉にとって苦痛以外の何物でもなかった。
今も待っている間にせめて部屋の片付けぐらいはやりたいのだけど、それは下女―下働きの者達―の仕事を取り上げることになってしまう。
掃除や食事の用意は下女の仕事であり、彼らの仕事を邪魔するわけにはいかない。
だが、木曽の家では下女は確かにいたが、一緒になって掃除をしたり食事を作ったりしていたから、泉はこの「姫様のお世話は侍女の仕事」、「掃除・家事は下女の仕事」という分け方に馴染めなかった。
でも、それは自分の勝手な思いということもわかっていたから、泉は黙って控えの間で大姫が起きるのを待っていた。
と、その時だった。
「あねうえ!」
どっどっどっという足音と共に、幼い声が控えの間へと近づいて来る。
泉が何事だろうと思って立ち上がるのと、小さな人影が二つ、飛び込んで来たのは同時だった。
「あれ、あねうえは?」
最初に飛び込んで来たのは、小さな男の子だった。
きょろきょろと辺りを見回し、そして控えの間の入り口に立っていた泉を見上げて、そう訪ねて来る。
「千幡(せんまん)、待ってって言っているじゃない!」
と次に、泉とあまり変わらない年頃の女の子が、そう言いながら飛び込んできた。
「……あれ、姉様は?」
だが、次の瞬間に、目当ての人がいないことを気付いたのか、これまた男の子と同じように、控えの間の入り口に立っていた泉を見上げて、同じように尋ねて来る。
「大姫様は、まだお休み中です」
尋ねられた泉は、とりあえずそう答えた。
そうして、大姫のことを「姉様」と呼ぶこの二人が、彼女の弟妹達であることに気付く。
「三幡(さんまん)様と…千幡様ですね?」
「お前は誰?」
自分達の名前を知っている、見知らぬ人物を警戒したのか、姉である三幡の方が、泉を見上げながらそう尋ねて来る。
「大姫様の侍女・泉でございます」
「姉様の? でも、お前は初めて見るわ」
三幡の警戒した様子を見て、はしゃいでいた千幡も、姉の後ろに隠れている。
「はい。昨日からお仕えしております」
泉は、こくんと頷いて三幡を見た。
「どうして私達の名前を知っているの?」
「阿古夜様から教えてもらいました」
三幡の問いに、泉はそう答えた。
「じゃあ、姉様起こしてきて」
だが、次に言われた言葉は思ってもいないものだった。
「それはちょっと……」
「だって、せっかく姉様に会いに来たの!」
泉がそれは渋ると、三幡は癇癪を起こしたように叫んだ。
「私達は姉様に会いたいんだから、起こして来てよ!」
「それはできません」
だけど、泉は首を振った。
「何でよっ。お前は侍女なんでしょう!」
「ええ。でも、大姫様はまだお休み中です。ゆっくりとお休みされているところを、邪魔することは、大姫様のためにはなりません」
「私の言うことが聞けないのっ」
三幡の声は、高くなっていく。
「おいだれ(お前達)、かっしょべいっ(やかましい)!」
と、その時だった。
泉の口から、思いっきりな木曽訛りが出た。
それは、泉の優しげな雰囲気からは全然想像もつかない言葉で、三幡も千幡も、呆気に取られてしまった。
一方泉の方は、木曽にいた頃のノリでやってしまったことに、しまった!と思った。
何せ、幼い弟達や、農作業中の里人達の子ども達を見ていた時は、こんなことはしょっちゅうあった。
わがままを言う子ども達に、泉はよくさっきと同じ言葉を言って、黙らせていたのである。
『泉様はお優しいが、怒らせると怖い』と言うのが、里の子ども達の一致した評判であった。
実際、未だあどけなさを残した優しげな雰囲気の泉が怒ると、何とも言えない迫力があるらしい。
里一番のいたずらっこが泉に怒られて、夜に魘されるということもあったし、里の者達にも、「泉様に叱ってもらおうか」と言う言葉が最後の手段としてよく使われていたようである。
そうすると、子ども達はどんなにワガママを言っていても、ぐずっていても、「それだけは、止めて~!」と言って、ぴたりっと今までの態度を一変させて、大人達の言うことを素直に聞くようになったらしい。
まあ、泉としては、それを聞いた時は、複雑な気分にもなかったが、そもそも里の者達の暮らしを守るのが、泉の父の役目である。
それを考えると、自分の名前を出すことで、里の者達の負担が減るのならば、それは仕方のないことだと思っていた。
が、ここは木曽の里ではなく、泉は、「仕える者」としているべき場所なのだ。 だが、慌てる泉に対して、三幡と千幡は固まったままだった。
それどころか、何か怯えたような表情で泉を見ている。
「へえ、こいつ等を叱り付ける奴なんて、初めてだな」
と、その時だった。
すごく面白そうな物を見つけた時の弟と同じ口調で、頼家がそんなことを言いながら部屋に入って来た。
「兄様!」
「にいさま」
泉に怒られて固まっていた三幡と千幡は、兄の姿を見て、とっとっとっと駆け寄った。
「お前達、また部屋を脱け出して来たのか」
近寄って来た弟妹達の頭をぐりぐりと撫でながら、頼家はあきれたように言った。
「だって、姉様に会いたかったんだもの。なのに、この侍女が意地悪をして、会わせてくれないのっ!」
「そりゃ、姉上は寝ているんだろう? 三幡、お前眠っている姉上起こしてまで会うか?」
「それは……」
兄の言葉に、三幡は黙り込んだ。
「最近、姉上の調子悪いの、阿古夜から聞いていないのか?」
「……聞いてる」
「なら、お前が今言ったこと、ワガママだってこと、わかるよな?」
ダメ押しのように頼家が言うと、三幡も千幡も俯いてしまう。
「どうしたの?」
と、その時だった。
控えの間の奥にある入り口から、大姫のか細い声が聞こえた。
「姉様!」
「ねえさまっ」
とたんに、三幡と千幡が声を上げる。
「お前達、俺の話、聞いていたのか?」
それを見て、頼家の顔はため息を吐く。
「またお付きの者達を巻いて来たのね」
その声が聞こえたのか、奥の方から、か細いけれど笑いを含んだ声が聞こえた。
「泉、起きるから手伝ってくれる?」
「いいのか? 姉上」
「いいのよ。泉、お願いしていい?」
「はい、ただ今」
泉がそう言って大姫の寝所に入ると、大姫は既に体を半分起こしていた。
「木戸を開けますね」
泉はそう声をかけると木戸を両手で押した。
がらがらと音を経てて木戸を動かすと、外の光が大姫の寝所にぱあっと広がりながら入ってくる。
泉は、この瞬間がとても好きだった。
「良い天気ね」
差し込んでくる光に目を細めながら、大姫が言った。
その言葉に、泉は笑顔で頷く。
光は、とても良いものだ。
暗い場所にいれば、それだけで気持ちが暗くなる。
だけど、光が入ってくれば、明るい気持ちになれる。
「あの子達を叱り付けることができるのは、阿古夜と母上だけだと思っていたわ」
だが、この言葉を聞いたとたん、泉は慌てた気分になった。
「あ、き、聞かれていたんですか?」
慌ててそう尋ねてみたが、大姫は笑った顔のまま、何も言わなかった。
「さあ、起きる支度をしなくては、頼家が困ってしまうわね。泉、まずは手水をお願いしていい?」
「あ、はい」
泉は大姫の言葉に頷くと、廊下をぱたぱたと小走りで、大姫の手水の用意を頼みに行った。
その後ろ姿を、大姫が何か眩しい物でも見ているよう眼差しで見つめていることに、気付きもしなかった。
それから下働きの女性が用意してくれた水を器に入れて、泉は中の水を溢さないように気をつけながら、大姫の寝所に戻って来た。
「お待たせしました、大姫様」
そう言って、寝所の中に入ると、泉は、驚きのあまり目を大きく見開いてしまった。
「ありがとう、泉」
笑いながら礼を言う大姫は、自分で着替え始めていたのだ。
「大姫様、お手伝い致します!」
慌てて器を床に置き、泉は大姫に近寄った。
「いいのよ。これくらいなら、私一人でもできるのよ、本当は」
小袖の帯を締める大姫の手は慣れたものだ。
「私が小さい頃は、侍女なんて一人か二人ぐらいだったの。だから、着替えは一人でできるように、母上に躾けられたわ」
「そうなんですか?」
大姫の言葉に泉が目をぱちくりとさせると、
「泉だってそうでしょう?」
そう、大姫は言葉を続けた。
「私が千幡ぐらいの時は、父上もまだ流刑人の身だったの。だから、周りにいる者達なんて、ほんの数人……それも、父上に昔から仕えている者達ばかりで、母上が連れて来た侍女も、阿古夜だけだったし」
確かに、泉も、何でも自分のことは自分でできるように躾けられて来た。
下働きの者達もいるが、彼女達の仕事は母の仕事を手伝うことだった。
だから、泉が小さい頃は手伝ってくれていたが、ある程度成長してからは、自分のことは自分でするようになった。
「でも、髪をすくのは頼んでいいかしら?」
「あ、はい」
「私もすくけれど、二人で一緒にやった方が早いからね」
―この方は。本当は、とても明るくて元気な方なのだ。母が言っていたとおりの方なのだ。だけど。心の中にある、哀しい思い出が、この人の心と体を削ってしまっているのだ。
そう言って小さく微笑む大姫を見て、泉は思った。
泉には、どうして大姫がそこまで傷ついてしまったのかは、わからない。
ただ。
大姫が、深く傷ついていて、その傷が、大姫を弱らせていることだけは、わかったような気がした。
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