第39話 吸血鬼事件1

 居住区の朝は静かで穏やかだ。

 夜行性の人達を不必要に起こしてはいけないからみんな自然とそうするんだけど、だけどいつも、調停に向かう時だけは鼻歌を歌いたい気分を抑えられなかったりする。というか既に脚が弾んでスキップなんてしてる。

 まあ浮かれまくっても正門までの道は夜行性獣人エリアを通るので見てる人もいないし、なんて思ってたらばっちり知ってる人と鉢合わせて俺は慌てて足を止めた。


「あ」

「やあ白ヤギくん。おはようございます」

「…………おはようゴザイマス」


 黒髪に黒い耳、黒いスーツが最高に格好良く決まっている好青年。

 神出鬼没の狼男、俺にとっての先生は、軽く会釈をすると怪訝そうにこちらを見下ろしていた。

 それで自分がひどい仏頂面をしてることに気付き、先日の幸せな記憶、その中で何度か見られたトールさんの滑稽なものを見る目を思い出し、子どもっぽく口を尖らせてしまう。


「あの、先生? 先生に教えてもらった『人間と調理をする時の常識的マナー』、なんか全部間違ってたみたいなんですけど……」

「ええっ、そうなんですかーっ? それは失礼しました。いや、僕も人間社会に隠れ潜んでいた歴が長いとはいえ結局は獣人ですからね。知識が正しくないことも多いんです。本当に申し訳ない、いや恥ずかしいな」

「……いえ、誰でも間違えることぐらいありますし。先生にはお世話になってますから」


 間違えたのか、間違えたなら仕方ない。うん、一瞬でも先生が俺を騙したとか考えたのが間違いだったな。

 などと自分を戒めていたら、先生はクックと面白そうに笑い、それからふと目を細めてちょっとだけ申し訳なさそうに眉を下げた。


「ああ、そういえば。随分と余計な気を遣わせてしまったようですみません」

「?」

「でもね、準禁種の指定解除なんて幻想に君を付き合わせるのは忍びない。もう諦めてやめてくださいね」


 やんわりと命令されて目を瞬く。

 ああ、バレてたのか、狼男の準禁種指定解除を区長に働きかけてたこと……まあ力不足で結局一蹴されてしまったけど。


 しかし俺もだいぶムキになって反論したので危うく不死鳥の炎で山羊のソテーにされるところだった、ミニョルが水ぶっかけて止めてくれてなきゃ神獣大戦争の幕開けだったな……


「…………でも、先生は危険なんかじゃないのに! 絶対に人間を襲ったりしないなら、そんな不当な扱いは……」

「襲ったことありますよ。人間」


 絶句して見上げると、先生はいつもの飄々とした笑みをほんの少し悲しげに緩めて、諭すように言った。

 ……先生が?


「白ヤギくん。居住区に来る獣人なんてね、みんなどこか変わってて、ちょっと訳ありなものなんですよ。君と同じように」


 俺の胸の辺りを指さして言う先生の声は優しく、俺は未だ消えない胸の傷に爪を立てながら、それでも未練がましく呟くのだ。


「先生は…………先生は、良い人です」

「優しいですよね、白ヤギ君は。そんなことでいちいち傷ついてたら神様なんてやってられませんよ」


 ふっふと笑って、またいつものおどけた調子を取り戻すと、先生はくるくると指を回しながらわざとらしく声のトーンを上げた。


「あ、そういえば昨日、知人からよく聞いていた噂のデートスポットに行ってみたんですよ」

「デートスポット?」

「はい。図書館っていうんですけどね」

「…………」


 その知人俺じゃん。

 顔を赤くしつつ黙っていると先生は懐から長方形の何かを取り出し、やや俺から引き離すように掲げて見せた。見覚えのありまくる、しかし居住区では目にしないように避けてきたそのフォルムに、一瞬意識が飛んで目を瞬く。


 ………………。

 本だーーーーーーー!!!!


「じゃじゃーん。一冊借りてきちゃいました。読みます?」


 読みます! と叫びかけて開いた口から、しかしじゅるりと涎が出そうになって、慌てて口を押さえる。

 身体の奥底から湧き上がり、血が沸騰しそうな程くらくらする衝動に、奥歯を噛んで必死に抵抗する。


 ああ、紙だ、紙だ。いや違うあれは本だ、でも紙だ、紙じゃないか。紙の集合体だ。紙は美味しい、紙は食べなければ。ああ美味そうだ食べたい、いや違う、読みたい、食べたい、読みたい、食べたい読みたい食べたい食べたい食べたい────


「………………っ!!」


 ガン、と横にあった木に角を打ち付けると、脳が揺さぶられるような衝撃と共に、俺は理性を食いかけていた獣の本能から意識を奪い返した。

 ぜえぜえと息を切らし、額の汗を拭う。

「めっちゃ痛い」と木からは抗議の声が聞こえたが謝る余力すらなく、うるさく鳴る心臓を落ち着けようと深呼吸をくり返す。あ、危なかった、もう少しでむしゃむしゃ食べ出すところだった……。


 先生はそんな俺を同情……いや違うな、自分の同類を見るような哀れみの目で見つめ、十分に距離を置いてから手にした文庫本を見下ろす。

 ……これぐらい離れてもらえればどうにか堪えられるけど、まだちょっとヒヤヒヤする。トールさんがそばにいれば別なんだけどな。紙を食べてしまう過ちは、トールさんからの手紙で最後にしたいものだ。


 先生は深く頭を下げて「すみません。浅慮でした。そこまで苦しむとは思わなくて……さすが神の血に刻まれた本能ですね」とひどく後悔したように呟いた。

 俺は首を横に振る。一度満月の夜に先生のそばにいたことがあったけど、あれを見れば、俺の衝動ぐらい何てこともないってことが分かる。

 この人は頭を打とうが自分に噛みつこうが抗えない地獄のような本能と毎月戦っているのだから、別にちょっと角をぶつけたぐらい何とも思わない。


「……僕にも分かりますよ、本能とは抗い難く憎むべき劣情ですが、それに意思を食われる瞬間は不思議と背徳的で甘美なものです。紙を前にした神山羊、満月を見上げた狼男、そして……血を目にした吸血鬼も、そうでしょうね」


 唐突に吸血鬼の名前が出たので何でだろう、と思っていたら、先生はひらひらと文庫本の表紙を揺らし、俺がそこに『吸血探偵の真っ赤な推理』なるタイトルを認めると、さっと懐に戻してくれた。目に毒だという配慮だろう、ありがたい。


「へえ、探偵もの。推理小説ですか」

「なかなか面白かったですよ、オススメです。数冊蔵書がありましたのでぜひ白ヤギ君も読んでみてください。感想聞きます?」

「いや、先生の読書感想文とか全文ネタばらし確実なので遠慮しときます……」


 事件の概要から犯人の名前、トリックに至るまで事細かに教えてくれそうだ……もちろん笑顔で。


「それにしても人間の創作ってすごいですよね。俺、推理小説は何冊か読みましたけど、いつも最後まで犯人が誰か分からないんです」


 カレイドさんにこの話をしたら、


「そもそも獣人には犯罪を犯す文化がないからしょうがないよ。特に殺人なんてハイリスクノーリターンだからね、そこを理解できない以上読解が大いに阻害されるのは当然のことさ」


 なんて言ってたっけ。犯罪を文化と見なすかどうかは疑問が残るけど。

 すると先生はきょとんとした顔で俺を見て、とても不思議そうにこう言った。


「犯人が誰かなんて、どうでも良くないですか?」


 それには今度は俺がぽかんとする羽目になり、先生は神妙な講義をするように、静かに言葉を続ける。


「僕はね、白ヤギ君。誰がやったかフーダニットよりなぜそうしたかホワイダニットに興味があるんです。この話も誰が犯人かは前半には察しが付きます。重要なのは動機です。獣の本能とは違う、人の、意志に基づいた、リスクや合理性を考慮してもなお犯される愚行の根源にこそ、知る価値がある」


 どこか予言者めいた深みのある先生の言葉の意味を俺が推し量りかねていると、彼はにこりと嘘っぽく笑って、楽しげに指を鳴らして言った。


「だから君も考えてください。主人公が最初に線路上で出会った少女(実は少年)が、なぜ最愛の双子の妹を自身に偽装して殺害するに至ったのかを」

「うわあああ何てことするんですかこのネタバレの悪魔!!消せ!!消してください俺の記憶を!!」


 最低だ!推理小説のレビューでいきなり犯人を明かすとかテロ行為だ!!!この人最低だー!!!


「ちなみにいかにも怪しげに登場する隻眼の男は実は事件とは何の関係も無くて助手役の女性が学生時代に」

「あーあーあーもうやだ!!この本殺し!!ネタバレは推理小説に対する冒涜ですよ!!」

「少し朗読します? いえほんの少しですよ、最後の頁だけ」

「全ての著者に謝れっ!!」


 区長、区長ー!!「つーかおぬし必死に守ろうとしとるがの、あの狼男は準禁種なぞ生ぬるいほどの最低なサド悪魔じゃぞ、騙されすぎー」とか言ってた意味がちょっと分かりました区長ー!!


「あっはっは、それではどうぞ蜜月の図書館を楽しんで来てください。でも公共の場で角をすり寄せたり指を舐めたりしてはいけませんよ、ちなみにこの人間豆知識は正確です」

「も、もう知ってますよ! ……いやちょっと待てなんでそれを先生が知ってるんですか!?」


 恥ずかしいから誰にも言ってないのに! 赤面していたら「あー、匂いですかね。ほら僕たちって鼻が利くので」とか純度100%の嘘を吐いて煙に巻かれた。お、面白がって……。


「いえね、本当に楽しんできた方が良い……きっと穏やかに笑って過ごせるのは、今日あたりが最後でしょうから」


 先生はスン、と恐らく今度は正しくその嗅覚を働かせ、居住区の壁の外から吹いた風の匂いに少し表情を曇らせ低く呟いた。


「良くないものがこの街に近づいてきています。君と僕はきっと少し忙しくなって、そして、ほんの少し傷つくことになる」


 真意が分からずに眉根を寄せていると、

「自分から約束を取り付けて遅刻する男は嫌われますよ」

 との正論に背中を押され、俺は慌ててトールさんの待つ正門へと駆け出すのだった。



 * * *



 さて図書館を訪れ【小説(推理)】の書簡、記憶を頼りに著者名を探し、そして目当ての背表紙、『吸血探偵の真っ赤な推理』の字を見つけて手を伸ばすと。


「……あ」

「あっ」


 隣でオーラを放って付き添ってくれていたトールさんと指が触れ合って、俺たちは少しの間見つめ合い、それからぱっと同時に手を離した。

 一瞬触れた手に動揺しつつ、必死で大人ぶってにこりと笑って見せる。いや、びっくりした声可愛かったな。

 トールさんは気恥ずかしげに手を後ろに隠しながら、困ったように笑って首を横に振った。


「すみません。少し気になっただけですのでどうぞ。私は借りて持って帰れますし」

「ああ、ありがとうございます……あの、どうして気になったんですか?」

「職場の人が……と言っても厳密には職員ではない、所長の友人の方なんですけど、その人がすごくおすすめされていて。こういうジャンルの本はなんだか怖くてあまり読んだことがないのですが、たまには良いかなって」


 へー、トールさんも紹介されたのか。偶然だなあ、流行ってるんだろうかこの本。


「じゃあお先に失礼しますが、犯人が誰かは絶対に言わないように気をつけますね」

「ああいえ、犯人はもうバラされちゃったので大丈夫です……」

「え?」

「え?」


 二人同時に固まり、困惑しつつ、おずおずと確認する。


「……主人公が最初に線路上で出会った少女、(実は少年)……ですか?」

「……正解です」


 シオンさん、名探偵だったんですか? なんて目を輝かせる彼女に、いや俺もネタバレされただけですと打ち明けたかったけど、羨望の眼差しはちょっとうれしくて、結局言い出せずに本の選定に集中するフリをした。

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