第38話 林檎のワイン煮
「トールさんと!」
「えっ? し、シオンさんのっ?」
「おうちで簡単クッキング~~~!!!」
ぱちぱちぱちー、と元気よく拍手されましたので、つい勢いに負けて真似てしまいましたが。なんでしょうかこの前振り。
「あれ?人間はこうやってからお料理するのが礼儀なんですよって先生……俺の知り合いの獣人が」
「それはその人の勘違いか仕込みだと思いますよ……」
「??」
シオンさん、区長さん以外にも曲者な知り合いがいるみたいですね、どんな方か存じ上げませんが。
さてさてここは我が家のキッチン、本日は私の週休日、ミーナちゃんは絶賛区役所でお仕事中な昼下がりです。
かねてよりお料理がしてみたい!と希望されていたシオンさんをお招きして、今日は楽しいクッキングの日なのでした。シオンさん相当楽しみにしてくれていたのか、なんだかスタート前からテンションがおかしいのですが。
「えー……で、では、気を取り直して始めましょうか。手はしっかり洗いましたね?」
「はい先生っ!」
「いいえシオンさん、今日の先生は私ではありません。こちらの『初心者でもできる!もうこわくない!簡単お菓子レシピ集』先生の言うがままに手を動かすのみです」
「す、すごい! やはり本は偉大なる叡智の集合体っ!」
「同感です。図書館の本ですので汚さないように気をつけましょうね」
「はーい。それでトールさん、今日は何を作るんですか?」
「ベーコンエッグの次ですからね、そんなに難しいことはしません。今日のテーマは切って煮る。というわけで『リンゴの赤ワイン煮』を作りたいと思います」
「イエーイ!」
「そのお返事も別に人間の礼儀じゃないですからね!?」
「あれ??」
騙されやすすぎるシオンさんに頭を抱えつつ、調理台に材料を並べます。
艶の良い真っ赤なリンゴが1つと、赤ワインのボトルが1本。ワインは先日アルフレッドが送ってくれた今年の出来たての物で、父の育てた葡萄を使用しています。
それを見てシオンさんはサーッと青ざめ、困惑気味に慌てました。
「と、トールさん、お酒は俺たちには劇物なのでは……」
「使うのは少量ですので大丈夫でしょう。少しも味わえないというのももったいないですし……レシピは単純、ワインと水と砂糖を煮立たせた鍋でリンゴを煮るだけです」
「おお!」
「ではシオンさん、包丁の練習です。リンゴの皮を剥いてみましょう」
「嫌です」
「いやです!?」
即答の拒絶に面食らっていると、シオンさんはごくごくピュアな眼差しのままきょとんと首を傾げました。
「皮にも栄養があるので。切除するのは可哀想です」
「あっ……はい、そうなんですけど見栄え的にワインの色に染まった方が綺麗に……あ、いや、いいです、私が剥くので鍋の方をお願いします……」
「? はい」
自然を司る神獣さんを納得させられる話術もなく、私はあっさりと神との対話を諦めました。こんなところでも文化の違いが……。
謎の敗北感に打ちひしがれつつ包丁の刃をリンゴに添えると、シオンさんは物珍しそうにキラキラした目で私の手元を見つめました。やりづらい……。
どうにか気にせずリンゴを回して皮むきを開始すると、するする~と細長く連なっていく赤い皮にシオンさんがクワッと目を見開くのが分かりました。やりづらい。
「す、すごい……! トールさんナイフ使いだったんですか!? 魔法のようです! 神の御業!」
「植物の声聞いたり花を咲かせたりするリアル神様に言われると恥ずかしいんですけど……」
て、ていうかそんなじっと見つめられると心臓がもたなかったり……あーほらまずい手が震えてきました、このままだと手が滑ってサクッとい
「あ痛」
「トールさん!!??」
スカッ、と僅かにずれた刃が親指の先を軽く掠め、ほんの少しだけ皮膚に切れ目が入りました。
ですがピリッと痛みが走ったのは一瞬で、うっすら切れた傷痕から一滴に満たないほどの血が出ただけです。大事には至りません。
あー何をやってるんでしょう私は恥ずかしい……
「えーと……シオンさん、今のは悪い見本です。包丁は気をつけて使わないとこのように怪我をする恐れもありますので、調理中はちゃんと集中して」
「トールさん。血出てます」
「あ、はい、そうですね。でもこのぐら」
い全然平気です、と言いかけた私の声は混沌の彼方へと消え去りました。
シオンさんが私の手を取って自分の口元へと引き寄せ、小さく口を開き赤い舌を覗かせると、そのまま親指の傷口をそっと舐めたので。
………………。
………………?????
「……し、しおんさん」
「? 何ですか?」
いや、何ですかじゃなくて。
シオンさんは私の動揺など全く気にかけず、ごくごく普通なご様子で怪訝そうにされていましたが……
やがて私がリンゴよりも真っ赤な顔で困り果て、彼の形の良い唇に視線を泳がせては眉根を寄せていることに気がつくと、ようやく『文化の違い』に気がついたようで、鏡のように顔を真っ赤にして大いに慌てました。
「…………あ!? ち、違うんです誤解ですこれにはちゃんと意味があって、神山羊の唾液に鎮痛作用があるから俺の種族では怪我するとこうやって処置するのが普通で!! 決して何の意味もなくトールさんの指を舐めたいとかそういういやらしい気持ちはな……だあーーもうやだ消えたい崖があったら登りたいっ!!すみませんごめんなさいもう二度としないから嫌いにならないで下さい……」
「し、シオンさん落ち着いて……あの!!」
震えながら半泣きで謝罪しまくり、次は包丁に手をかけるか煮えた鍋に頭を突っ込むかしそうな勢いのシオンさんでしたが、私の必死の一声にぴたりと止まってくれました。
「……オーラで打ち消されるから、
「そうじゃん……」
真剣な顔で推論を提示した私に、シオンさんは真顔で頷くと「ばかじゃん……」と死にそうなくらい落ち込んでいました。そんな口調が迷子になるほどショックを……?
いや、私の方もまだ気持ちは全く落ち着いてませんが。
指先に残るわずかな熱に、まだドキドキしてしまって困ります。シオンさん、口の中意外と温かい方なんですかね……。
「……でもそうですか、もう二度としてくれないんですか……」
「はい……。はい?」
そんな感じでお互い混乱しすぎて訳が分からなくなっている間に鍋のワインが蒸発してしまったので、結局リンゴの赤ワイン煮は最初からもう一度作り直す羽目になったのでした。(※『初心者でもできる!もうこわくない!簡単お菓子レシピ集』を使ったはずなのですが……)
* * *
無事に皮を剥いて8つ切りに切り分けたリンゴは、ちょうどよく鮮やかで深いワイン色に煮込まれて、どうにかリンゴの赤ワイン煮になれました。テイクワンのことは忘却しましょう。
「で、ではシオンさん、お皿をテーブルに運んでもらえますか?」
「………」
こくんと元気よく頷いて、シオンさんは逃げるように皿を持ってすたすた行ってしまいます。指を舐められた上に口をきいてもらえなくなりました。踏んだり蹴ったり。
しょんぼりしつつ、遠ざかっていく後ろ姿をちらりと見て──ふと、違和感に目を瞬きます。
「…………あれ?」
キッチンからダイニングテーブルまでは近いですが、さすがに1メートル以内ということはありません。
だけどシオンさんの頭には、あの可愛らしいぴょこんとした山羊の耳も、雄々しい角も、少しも見当たらなかったのです。
「…………。シオンさん、」
「はい?」
くるっ、と振り返った瞬間、白い髪の隙間からにょきっと耳と角が生えて、シオンさんはまた気恥ずかしそうに口を引き結びました。
…………あれ、見間違いだったでしょうか。
シオンさんは人化が苦手なので、私のオーラの範囲である1メートルより離れると、耳や角を隠せないはずだったような…………。
目をこすっていると、シオンさんはまた泣きそうな顔になってしまったので、いや別に距離置いてないですと釈明しに慌てて私もキッチンを後にします。
……うーん、まあ、気のせいでしょう。あるいは偶然。一瞬でしたし、大した意味はないに違いありません。
無言を貫こうとしてるのに「いただきます」だけは律儀に言ってしまうシオンさんに笑いながら、私はささいな疑問には蓋をして、ただ一緒にテーブルに座る幸せだけを愚直に単純に味わうのでした。
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