第36話 小指の約束


 簡素なベッドと小さな棚、テーブルに椅子が二脚。

 それが全てでした。


 白で統一された部屋は物が少ないせいでがらんと広く、なんだか世界が終わってしまった後の暮らしみたいな物寂しさを感じさせます。


 ああでも、どうせ彼が本当に欲しいものはこの部屋に置くことはできないのだと、私は遅れて気づいて視線を落とします。

 山を降りてこの街で生きることを選ぶに至った理由。──大好きな本の一冊も、シオンさんは手元に置くことは許されないのでした。だったら何もいらないという気持ちも、ほんの少し分かるような気がします。


「お茶も出せなくてすみません。火が使えないのでどうにも……」

「ああいえ、気を遣わないで下さい。ありがとうございます、いただきます」


 申し訳なさそうに椅子を引いてくれたシオンさんに、軽く膝を曲げ礼をしてから着席すると、私はテーブルの上に出されたお水をこくりと飲みました。美味しい。


 冷たいそれは少し暑い陽ざしで乾いていた喉を潤してくれて、思わずほっと目を細めます。庭からちぎった摘み立てのハーブを浮かべてくれたのですが、それがちょうどいい爽やかさを加えてくれていました。


「あ、すみません、はしたなくごくごく飲んで……」

「いえ。お口に合ったのならうれしいです」


 そう言って私の向かいに座りグラスを傾けるシオンさんを見つめながら、ふと思います。


 ちらと覗いた棚に見えたグラスもお皿も食具も、等しく複数用意されていました。

 ……一人暮らしをしたことがないので分かりませんが、これだけ物の数を抑えて生活している人の暮らしにしては、数が多いようにちょっと思ったり、それにもてなしの手つきも慣れた感じがしますし、…………。


「あの、お招きいただいてうれしいのですが、シオンさんはこういうこと」


 誰にでもするんですかー、と言いかけて、慌てて口をつぐみます。


 ……いや、いやいやいや、さすがに何……?

 いくら今日はお仕事じゃないとはいえ、私はシオンさんの何のつもりでいるのでしょう……。自分のおこがましさに頭が痛くなってきました。

 シオンさんはそんな私を不思議そうに見下ろしながら、にこやかに言います。


「この家には毎日誰かしらが顔を出してるので、食器は必要かなと思って最近用意したんです。あまり物を多く持つのは好きじゃないんですけど」

「な……なるほど、だから随分とすっきりしてるんですね! あそこの壁なんて悠々と家具が置けそうですし」


 マイニチダレカシラという部分に大いに胸をかき乱されつつ、誤魔化すように私は話題をそらします。あー我ながらなんと雑な力業……。


 しかしずびしっ、ととっさに指差した出入り口対面の壁は確かに広く、この部屋の寂しさを最も強調するスペースに思えました。

 絵とか飾ったら映えそうですが……ああいや、絵も紙に描くからダメですね、壁画ならあるいは……?


 などと考えていたら、シオンさんはそのだだっ広い空間をじっと見つめて、なんだか重大な秘密を打ち明ける前みたいに真剣な顔で口を開きました。


「あの、実は…………」

「白ヤギのお兄さん、ごめんくださーい!」


 言いかけたシオンさんは、ふいに玄関から飛んできた元気な子どもの声にハッとして立ち上がりました。

「すみません、少し外します」と大層うろたえられましたので、私は小さく笑って首を横に振ります。


 シオンさんが扉を開けると、外からあたたかい日差しと、小さな男の子がぴょんと室内に飛び込んできました。

 ぴょん、というのは比喩ではなく、本当にぴょんとしていました。何しろその子のふわふわした髪の隙間から天井に向かってピンと、長いふわっふわの耳がぴょこぴょこ伸びていたからです。


 こ……これは間違いなくうさぎの獣人さんっ! かわいいっ! フロム先輩でなくとも胸が高鳴るほどにとんでもなくかわいいです!!

 さわりたいなーとよこしまな欲求と戦いつつ、絶対に1メートル以内に近づかないよう警戒している私を不思議そうに見てから、うさぎさんはきょるんっと丸くて大きな瞳をシオンさんに向け、ぺこりとおじぎしました。


「こんにちは白ヤギのお兄さん。急に来ちゃってごめんなさい」

「いいよ、こんにちは。何か困ったことでもあったのかい?」


 シオンさんは優しく膝を折って男の子と目線を合わせると、柔らかな声で尋ねました。

 し、シオンさんがお兄さんしてる……! レアな姿にドキドキしつつ水を飲んで平静を装います。


 男の子はちょっと口を尖らせて、背中に隠していた物をすっと差し出しました。

 土の盛られた小さな鉢植えに、ひょこっと顔を出す若葉が見え、私は目を瞬きました。うーん、あの葉の様子、なんだかちょっと……。

 男の子はうさぎの耳をしゅんと垂らして、泣きそうな顔で呟きます。


「前に分けてもらった種がね、芽を出したんだけどね、あんまり元気がなくって……お水もたくさんあげてみたんだけど。このまま枯れちゃうのかなあ?」

「なるほど。ちょっと貸してね、から」


 言うとシオンさんはひょいと鉢植えを受け取り、じーっと芽を見つめて耳を澄ますように目を細めました。


 ああそう言えばユージンさんが言っていましたね、神山羊さんは自然に生きる植物の声を聞くことができるとか……葡萄酒の育ちまで分かったぐらいですから、目の前のそれの声はちょっとうるさいぐらいなのかもしれません。シオンさんは目を瞬き、少し吹き出すと、不安げな男の子にそっと鉢を返して言いました。


「『おなかがいっぱいだ』って……。水をあげすぎたんだね、『溺れるかと思った!』って怒ってるよ」

「あちゃー……」

「でも、君がいつも一生懸命お世話してくれてうれしいってさ。毎日たくさん話しかけてくれてるのにお返事ができなくて残念だけど、早く大きくなって花を見せてあげたいって言ってるよ」

「わあ、ほんとに!? ……うん、待ってるからねー、これからもよろしくね。ありがとう、白ヤギのお兄さん。またね!」

「うん。またね」


 男の子はぱあっと笑顔になると、鉢植えを大事そうに抱え、うさぎの耳をぴょこん!と立ててぴょんぴょん飛び跳ねながら外へと駆け出していきました。


 その後ろ姿が見えなくなるまでひらひらと手を振っていたシオンさんは、ふと気恥ずかしそうにこちらを振り返り、へらっと照れ隠しに笑いながら肩をすくめました。


「…………ってな具合に、俺は草食種の統括役でもあるので、いろいろ住民の相談に乗ったり困ったことがあったら対応したりしてて。だからこの家には来客が多いんです」


 すみませんお待たせして、と平謝りする彼に、私は首を振ります。

 シオンさんは居住区の獣人さんにとってとても素敵な神様で、みっともない嫉妬をしていた自分が恥ずかしいくらいでした。


「あーでも、俺から誰かを家に招待したのってトールさんが初めてで……」

「え」


 向かいに座り直して顎を掻くシオンさんに目を瞬き、ちょっと赤いその顔をただ見つめます。


「だからちょっと緊張してます、退屈させてないかなーって」


 私はグラスに口を付けて、鼻を抜けるハーブの香りに目を細めてから、


「してないですよ、ちっとも」


 そう言って、安心させるために笑いました。

 シオンさんは口を引き結んで頷くと、意を決したように少し息を吐いて切り出しました。


「あの、さっき言いかけたことですけど。あの壁、本当は置きたい物があるんです」

「置きたい物?」

「わ、笑わないで聞いてくださいね?」


 あの壁、と真っ白なその空間を見つめて首を傾げる私に、シオンさんはちょっと不安げに口を尖らせて念を押します。


「俺……自分の部屋に、いつか本棚を置きたいんです」


 囁くように言ったシオンさんの言葉にきょとんとしていると、彼は静かに続けました。


「人間の部屋って大抵本棚があって、みんなそこに自分のお気に入りの本だけを集めて、好きな時に手に取って読むんでしょう? それってすごいことだと思うんです。俺すごく憧れてて……。いつか、おとぎ話みたいな理想ですけどいつか、本能に打ち勝てるような日が来たら、自分の本棚が欲しいなって。だからそこだけは何も置かずに空けておいてるんです」


 言い終えると、シオンさんは何も無い壁を切なげに見つめて──

 それから、ハッと私の顔を見て慌てた様子で手を振りました。


「……あ、いや、無理なのは自分でも分かってるんですけどね!? でもまあ考えるだけなら自由っていうか、思うだけでも満足っていうか……」

「いいえ」


 私が少し声を大きくして否定すると、シオンさんは目を見開いてぴたりと止まりました。


「いいえ……とても素敵な夢だと思います。叶うといいなって、私もそう思います」


 心からそう言うと、シオンさんはむずがゆそうに頷いて、「ありがとう」とだけ呟きました。


「あ、でも、これは俺とトールさんだけの秘密ってことで。区長に知られでもしたら散々からかわれるに決まってます。着払いで山ほど棚だけ送ってくるかも」

「あはは。もちろん誰にも口外したりしませんよ。ほら、約束」


 ほら、と小指を差し出すと、シオンさんはぱちくりと目を瞬いて固まってしまいました。


 ……あ、しまった、ついアルフレッドによくやっていたような調子で指切りを申し出てしまいましたが、これってたぶん人間特有の文化ですよね。当たり前のように誘ってしまって申し訳ない……


 そう思って慌てて指を引っ込めようとすると、シオンさんはそれよりも早く、すっと自分の小指を伸ばして私のそれと絡めてきゅっと力を込めました。


 ああ、指、全然太さが違うんだな。


 そんなことをぼんやりと思って、絡まる指を見つめていると、シオンさんは少し不安げに尋ねました。


「……あの、これで合ってますか?」

「あ、はい、ばっちりです……」


 やがてするり、と解かれた小指にちょっとだけ名残惜しいものを感じて、私は赤くなる頬を隠そうとうつむきました。

 ……エミリア先輩に怒られた時は、今の関係のままで幸せだなんて余裕ぶっていたのに、私は何なんでしょうか。

 触れた手の大きさとか、骨張った形とか、何にも離れていかなくて、うるさい心臓は欲しがりな気がして眉根を寄せます。


 ……この部屋に本棚を置いても本を食べずに生活する方法には一つ、心当たりがあるのです。

 だけど賢いシオンさんがその案を考えついていないはずもないので、私に言えることはありません。


「トールさん?」

「……いえ。何でもないです」


 胸の早鐘が鳴り止むのを待たず、日はいつの間にか少し傾き始めます。

 人間と獣人である私たちには今日も、等しくお別れの時間が訪れるのでした。

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