第8話 本が読みたい獣人さん④

 図書館に行く用がなくなって一週間が過ぎた朝。

 私は重い足取りで事務所へと続く階段をとぼとぼと上っていました。

 と、


「…………あ゛」

「あ、おはようございますエミリア先輩。今から調停ですか? 気をつけて行ってきてください」


 私はぱっと引き出しの奥の奥から笑顔を引っぱり出すと、今まさに仕事に出ようとしている先輩にできるだけ明るく告げました。


 彼女はシオンさんからの手紙の返事も依頼の電話もなくなった私をいたく心配して慰めてくれました。優しい先輩です。

 そして未だに指名率最低な私の代わりにこうして調停師の務めを果たしてくれている。心は虚無ですが、笑顔で送り出さないわけにはいきません。


 しかしいつも私の3倍元気いっぱいで笑顔標準設定な彼女の顔は、私を見るなり真っ青になってだらだらと冷や汗までかいています。

 はて、と首を傾げていると、


「…………ああ、やっぱり駄目! 私こういうの黙ってるの絶対無理だもの、ごめんねトールちゃん、正直に伝えておくわ!」


 先輩は私のいるステップまで駆け下りると、きゅっと手を握り、真剣な声で述べました。


「あ、あの、あのね……深く考えないでほしいんだけど、今から行く調停、例の図書館の獣人さんからの依頼なの……」

「へ」


 ズドン、と脳内で何かが大破した音がしました。わぁ、思考壊滅。


「あ、でもね、男女の指定は無かったし誰でもいいって話だったらしいから、そんなに気にすることはないと思うのよ! たぶん気まぐれとか、大した意味ないっていうか、」

「あの、えっと、でも……ひとまず私を指定はしなかったんですよね?」

「ひえ」

「ていうかむしろ、『私以外なら誰でもいい』って指定だったり……?」

「あ、うう、あわわ……」


 先輩、嘘をつけない人って時に残酷ですね。

 わりとあんまりな事実に大ショック受けつつ、私は恐る恐る尋ねます。


「あの、ちなみに……今日の依頼も、図書館で読書、ですか?」

「はっ…………どぁ……」


 先輩は何かを口から生み出しそうなほど苦悶してから、やがて涙目で口を開き、


「…………そ、それが、『ただゆっくり話を聞いて欲しい』って依頼、らしくて……」


 その後の記憶はうっすらとしかありませんが、多分私はカタコトで先輩にイッテラッシャイを告げ、どうにか階段を這って事務所に辿り着いたのでしょう。

 仕事はなくても貴重な職場です。私は弟のためにお金を稼がないといけないのです。

 その思いだけでどうにか雑務をこなそうと稼働していた私でしたが、死んだ目をした所長からポンと肩を叩かれて虚ろな視線を上げました。


「ホープスキン、今日はもういい。帰れ」

「いえ、まだ戦えます、これぐらいで働けなくなるようでは弟に示しが……」

「いいからこれを飲んで帰れ」


 所長が差し出したのはさっき私が淹れたコーヒーのカップでした。

 ぼんやりと口を付けると、お湯にミルクと砂糖が入った斬新な液体でした。

 私は大人しく帰り支度をして、ふらふらと帰路につきました。





 どうして手紙なんて書いてしまったんでしょう。

 過去に戻って、ビリビリに破り捨ててしまえたらいいのにな。


 シオンさんにとってやっぱり私はただの調停師だったのです。

 あんな手紙読んで、重かったに決まってる。優しい人だからどうやって私を傷つけずに返そうかと思い悩んだのでしょう。

 であれば、もう二度と会わないように気をつけるしかありません。お互いに忘れてしまえるまで。


 そう思って歩いていたのに世界とはなんと残虐なものなのでしょう、私はたまたま通りかかったカフェのテラス席でお茶を飲むとんでもない美男美女、というかシオンさんとエミリア先輩をばっちり見つけてしっかり目を合わせてしまいました、顔面蒼白で脅えたようにこちらを見るシオンさんと。


「………ト、トールさん、」

「………お、お邪魔しましたぁーーーーーー!!!」


 脱兎の如く逃げ出した私の背に、慌てたシオンさんの声が微かに届きます。


「………っ! 待ってトールさん!」

「あ、ちょっとお客さんダメですよ。調停師のオーラから離れたら獣化しちゃうでしょう」

「あ、そっか……じゃあお姉さんも一緒に走ってください!」

「ええー? この獣人おとなしそうな顔して人使い荒いな……」


 なんかエミリア先輩かわいそうな会話が聞こえた気もしますが、私は気にせず走ります。怖くて怖くて走ります。「もう二度と顔を見せないで」とか「迷惑でした」とか言われたら笑って頷ける自信なんかありません。


 しかし私も山育ち、逃げ足の速さには定評があります。

 相手は調停師である先輩とのオーラ作用範囲キープ、というハンデのあるシオンさん。難なく振り切り、できるだけ人気の無さそうな裏路地にひょいと飛び込んだ瞬間、


「当たりだ」

「!?」


 ぐい、と腕を引かれて、あっという間に後ろ手に拘束されたことに気づき、私は目を瞬きました。

 叫ぼうとしてようやく、口に布を噛まされていることを知ります。


「もがごがごごー!」

「角は?」

「反応消失。大当たりだ、間違いない。こいつが調停師だ」

「もぐっ…!?」


 涎で湿った布を噛みつつ、私は目を見開きます。

 私を取り囲んでいるのは、三人組の体格のいい男性でした。総じて顔が怖く、いかにも悪そうな風貌をしています。

 そして一人は私を拘束、一人は刃物で威嚇、一人は……手の内に、楕円形の鉱物を持っていました。

 ……一角獣の、光る角。


「全く、こんな石ころに大枚叩いて何のつもりかと思えばこんな活用法があるとはな」

「事務所の位置は目星がついてたからな、コイツがしょぼくれて出てきたんで後を付けてみたらビンゴだ。さて、王都獣人調停事務所には優秀な調停師が揃っていると聞く……お嬢さん、アンタの知ってる顧客情報、俺らに教えてくれないかな? 何、悪いようにはしないさ、依頼主の目的地をちょーっと横流ししてくれるだけで、あんたは何も知らない不運な同行者ってだけで終わる。例え一緒にいた獣人が襲われて密売人に売られようが、あくまで調停が仕事のあんたらの責任は問われないだろ?」


 み、密売人……!

 希少な獣人を狙う不届き者がいるとは聞いていましたが、まさかこんな白昼堂々!


 …………いえ、何という身の程知らずでしょう。獣人が保護されている理由は、獣人マニュアルによればこの人達の認識とは180度違ったはずですが…………


 しかし私を狙うとはおまぬけにも程があります。私ほど顧客情報に疎い調停師はいないと言うのに。

 餌にもつかえぬダメ調停師であることをこんなに嬉しく思ったことはありません。捕まったのがエミリア先輩じゃなくてよか……


 あ。


「…………その人に触らないでくれませんか」


 通りの明かりの方から聞こえた低い声に、密売人は目を見張り、私はサーッと全身の血の気が引くのを感じました。忘れてたけど追われてたんでした、今一番来て欲しくない人に。


「おいお嬢さん、調停師仲間かい?」

「ぷはっ……。に、逃げてくださいシオンさん、先輩! この人たち獣人密売人です!」


 布を解かれて噛みつくように叫んだ私の声に、シオンさんは一瞬ぴくりと眉を上げましたが、何でも無いことのようにこちらに歩み出ます。


「ええちょっと、行くの……? 私は嫌だよ、刃物持ってるじゃない」

「ここまでありがとうございました。依頼はとっくに終わってますから、あとは自分で行きますよ」

「あれ、いいの? 知られたくなかったって言ってたのに」

「優先順位ってものがあるでしょう。離れた方がいいですよ、自分で言うのも何ですけど、結構派手なので」


 シオンさんはやれやれと首を振るエミリア先輩に礼儀正しく会釈すると、すたすたと彼女を置いて進みます。……調停師を、置いて。


「し、シオンさんダメです! 聞いてなかったんですか、獣人の密売人なんですよ!?」

「そっちこそ分かってるんですか、トールさんは拘束されて刃物向けられてるんですよ。それ以上に大事なことなんてありますか?」


 まっすぐ数歩踏み出した、その地点がおそらくオーラの範囲外だったのでしょう。ふわふわとしたシオンさんの白い髪の隙間から、金に輝く光が形取ったのは、長い二本の角でした。

 そうして彼はいつものように微笑んで。


「少なくとも俺にとっては、何一つだってありません」


 一瞬の光の後、地響きと激しい揺れに一帯が包まれて、私は目を閉じました。

 そして目を開けた時そこにいたのは。


「…………で、」

「でっっっか!!!」


 絶句する私の代わりに密売人たちの叫び声。

 そう、そこに現れたのは、見上げる程に巨大な獣。


 上質な美しい純白の長毛に覆われた体、凜々しく細められた思慮深い瞳。

 ぴょこんと跳ねた小さな耳だけがやけに可愛らしいけれど、頭上に生えた二本の折れ曲がる黄金の角は太く鋭利で、一突きの威力を思えば、生物であれば畏怖するなと言う方が無理な話でした。


 しっかりと地面を踏みしめる細長い四本足の先には、見るからに硬質な蹄。

 それがカツン、と苛立たしげに地面を軽く蹴っただけで、石畳のそこは簡単に砕け散ってしまいました。


 私はその神々しいまでの美しい獣を見上げて、ただ立ち尽くすばかりでした。

 密売人達の震える声が、ぼんやりと耳を掠めます。


「れ、霊峰の奥地に棲む……神山羊ゴートの獣人か!? 人里に降りることはあり得ないと言われてた気位の高い神話級が何でこんなところに!」


 脅えきったその声に、何を今さらと思います。

 獣人を欲する人間は数多くいても、実際に彼らを捕らえようとする者はほとんどいません。なぜならば、獣人は人間などには存在だから。


 調停師とは獣人を守るための職ではなく、むしろ獣人に牙を剥き返り討ちにされる愚かな人間を守るための職である──

 たたき込んだマニュアルの文章を思い起こし、私は密売人達を哀れみました。相手が優しい獣人さんでなければ、今ごろ無事では済まなかったでしょう。


 神山羊の放つ壮絶な威圧感に、密売人達はがっくりとその場にへたり込んで戦意喪失している様子でした。

 私はと言えば、抑止のオーラを持つおかげでしょうか、特に問題も無くその場に立って見上げる程大きくなってしまったシオンさんを見つめていました。図書館で本を読む横顔を見ていた時と同じように。


 山羊の姿をしていても、なぜだかわずかな表情の変化が分かるようで、私はくすりと笑いました。


「どうしてそんなに困ってるんですか?」

『…………いや、久しぶりに獣になったら、戻り方を忘れてしまって……』


 神々しい姿から発せられた荘厳な重低音の、あまりに間の抜けた内容についに吹き出して笑いました。

 それから、うずくまって震えている密売人達の間をすり抜けて、てくてくとその巨大な足下へと歩み寄ります。


 そうしてぎゅ、と抱きつくと、ふわふわの毛並みに包まれて全身の力がほっと抜けるような気がしました。

 ああそういえば、山羊さんの毛は高級な繊維として重宝されるのでしたっけ……なんて、不謹慎なことを思っている内に、その体は調停師のオーラを受けて、眩い金色の光と共にみるみるうちに小さくなっていきました。


 やがて彼が見慣れた姿に戻ると、まあ当然私がしがみついているような格好になり、とっさに離れようとすると。


「…………あの、」

「すみません、もう少しこのままで。顔が赤いんです」

「オタガイサマですが……」

「…………あの手紙のことですが」


 私は人に戻ったシオンさんに控えめに抱きしめられながら、ふっと笑って半目でその真っ赤な顔を見上げます。

 だって答えはきっと。


ですか? 私の手紙」

「…………ええ、とても」


 羞恥で死んでしまいそうなシオンさんの顔に、私はけらけらと笑い、その背後でエミリア先輩の呼んだ衛兵さんがテキパキと密売人達を縛り上げ。

 そうして街には再び、平和が戻ったのでした。

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