神獣さんのお散歩係

奏中カナ

Ⅰ.獣人さんは紙の本が読みたい

第1話 バッドエンドのエピローグ

 地上にある地獄の話をしましょう。

 世の中には恋人同士の間でのみ許される特殊な言語というものがあって、今聞こえたそれも、おそらく星の数ほどあるそれらの内の一つなのだと思います。


「はい、あーん」


 ごくごくありふれていて、耳に入ったとしてもあーハイハイやれやれ、と多少顔をしかめるだけで終わるような短い定型句。


 でもまあそれが、自分の家で、自分の婚約者が、自分ではない女性から甘く囁かれている、まさにその瞬間を目撃したとあっては……さすがにハイと流すこともできなかったわけですが。



 村中が既に寝静まる、シンと冷える黒い夜のことでした。

 二十歳にして迎えた父の葬儀から一週間。

 悲しみにひたる暇もなく喪主として葬儀を終え、慌ただしく事後手続きや挨拶回りに奔走し。


 つい今しがた、遠方に住む父の祖母のいとこの……息子さんの義理の……弟の孫……? という、限りなく「誰?」なご親戚の所へ弟と一緒に顔を出したことで、それもひとまず区切りがつき。

 ようやく少し休めると安堵して帰宅した矢先に待っていたのが、冒頭の「開幕・はいあーん」なのでした。最悪を煮詰めた煮こごりです。


 朝方村を出発する際、「家のことは任せてゆっくりいってらっしゃい」と笑顔で送り出してくれた、幼なじみでもある婚約者の顔はしかし今。「あーん」の瞬間口を開いたその形のまま、完全に時間停止していました。明日には開口筋が筋肉痛になりそうですね。

 私に向けられた目が幽霊でも見たかのように見開かれて、その横をだらだらとものすごい勢いで冷や汗が流れていきます。失礼な。


 そんな婚約者のすぐ脇に座り、フォークの先に刺した真っ赤なリンゴを差し出したポーズのままぷるぷると震える……先ほどの「はい、あーん」のお声の持ち主たる女性は、愛らしい顔を可哀想なぐらいひきつらせて涙目で私を見ていました。

 こちらは夜道で化け物にでも遭遇してしまったような表情です。まあ私のことなのですが。


 …………確かに、今日は本来は向こうの町に一晩泊まる予定でした。

 そこを「明日は天気が荒れそうだ。今日の内に帰った方がいい」とお声がけ頂いて、手短に挨拶を済ませて急遽帰ってきたわけなので、驚かれるのも無理はないかもしれないのですが…………。


「と、トール、今日は帰らないはずじゃ……ああいや違う、誤解なんだ。僕だって君のお父さんとの約束を守りたい気持ちはある。でも自分の本当の心に嘘をつけなかっただけなんだ……!」

「違うわブラッド、私があなたの前に現れなければこんなことには! 私と出会わなければあなたはそこで棒立ちしている、親がなりゆきで勝手に決めただけな商売仲間の家の娘さんと予定通り結婚して、そこそこまあまあの人生を送れたかもしれないのに……!」

「こんな僕を庇ってくれるのか、なんて優しい人なんだ……。やめてくれトール、彼女は……エリーゼは何も悪くない! 悪いのはこの僕なんだ! だからもうやめてくれ!」


「まだ何も言ってませんけど……」


 絶句していたら先手を打たれて2人の世界に入られてしまいました。女性の方の妙な説明口調何??


 私は玄関先から一歩も動けないまま、何と声をかけていいのかも分からず小さくため息をつきました。


 ……父と私と弟は、小さな葡萄畑の世話をして生計を立てていました。

 広い面積ではありませんが我が家の土地の土壌はこの上なく肥えたものらしく、特に質の良いワイン用の品種を育てるのには最適でした。


 ブラッドの家は葡萄酒の醸造を生業にしていて、うちとは固定契約を結ぶ半ば共同事業関係にあり、長く懇意にしていた間柄なのです。


 そして互いの家の長女と長男が年も近く、私の方は間も無く成人を迎えるけれど特定の相手もいない……となれば、小さい村ですから、何となく将来は一緒に……という流れになるのは、ごく自然なものでした。

 その頃には働き詰めの父の体調も思わしくなく、安心させたいこともあって、私は深く考えず父からの婚約の提案に頷いてしまったのです。


 でもその結果がこの修羅場なら、あそこで全力で首を横に振っていればよかったのでしょうか。天国の父もガタガタ震えて青ざめてるに違いません。どうかこんな下界の地獄は気にせず安らかに。


 エリーゼ、と呼ばれた可愛らしい女性には見覚えがあります。

 数月ほど前から定期的に街から村にやってきていた商家の娘さんで、うちの葡萄酒の取引相手でもありました。

 主に商談はブラッドの家に任せていたので、私は一度しか話したことはありませんが……。


 そうですね、確か、懇切丁寧に商品であるお化粧品の説明をされた後に私の顔をじっと見て。


「ああでも、葡萄畑で汗をかいたら全部流れてしまいますから意味がありませんね。ごめんなさい、忘れてくださいな。その鼻の頭の上の土、どんなお粉よりとってもお似合いよ」


 とかにっこり微笑まれ……あれ、あの頃からもう色々始まってたんでしょうか……? 怖……。


 なんてぼんやり虚ろな目で考え込んでいたら、ガチャン、と何かの割れる音がして、ハッと顔を上げます。

 音のした隣を見やれば、そこに立っていた、今しがた一緒に帰ってきて共に修羅場に遭遇した弟──アルフレッドの手に、ワインボトルが握られていました。


 正確には『ボトムを壁に叩き付けられたせいで、赤い液体を滴らせながらギラギラと光る鋭利な筒状ガラスと化した元ワインボトル』でしたが。

 いやいやいや!?


「『はいあーん』はいいよね。『はいあーん』は実に合理的だ。わざわざ口を開けさせる手間を省いて直通コースでコイツの先端を突っ込んでやれるもん。拡散した何処かのバカップルに心から感謝だね」

「あああアルフレッド落ち着いて! 暴力はダメですよ! ていうか冗談にしては目が笑ってな……え?あれ?冗談ですよね?」

「ハハッ」

「乾いた笑いやめて!?」


 ボトルのネックを握りしめて顔だけ可愛く笑う弟をとっさに羽交い締めにして、私はサーッと青ざめました。

 な、なにこれ? 婚約相手の浮気現場に遭遇、からの実弟の殺人阻止パートとかどんな修羅場メドレーですか?? あ……いやでも待ってまだ殺す気と決まったわけじゃ


「離してよ姉さん、これ以上生き恥を晒させてもあの人達が可哀想じゃないか。大丈夫、クズが2人この世から消えるだけだよ」

「殺す気満々だったー!」


「っ……、待ってくれアルフレッド君! 悪いのは全て僕なんだ、彼女は悪くない。制裁を受けるなら僕だけで十分だ!」

「違うわ、私が全部悪いの! 私がトールさんより魅力的だったせいでこんなことに……! ごめんなさい、あなたが少しでも彼女を愛せるようにお化粧品を勧めたりもしたのだけれど、彼女さっぱり興味を持ってくれなくて……!」


 あっこのひとある意味すごいですね??


「や、やるならやればいいさ、彼女のためなら死んでもいい!」

「いいえ、あなたがいなければ私も生きていけないわ!」

「エリーゼ……」

「ブラッド……」


 隙あらば2人の世界に入るプロですねこの人たち……。


「聞いたかい姉さん。同意も得られたし満場一致のハッピーエンドだ、気が変わらないうちに殺ってしまおう」

「そういうのはメリーバッドエンドと言うのでは……? ていうか台詞に酔ってるだけでそんな覚悟なさそうですし、いざやろうとしたらすごく騒ぎ出す気がします。近所迷惑だからやめましょう」

「分かったよ姉さん。布を噛ませて静かにさせてから事に及べば良いんだね?」

「さっぱり何も分かってない上に1ミリも良くないですよ??」

「僕たちは予定通り一晩向こうの町に泊まった。今日この場に立ち会うことは不可能だった……という証言さえ取れれば後は」

「親戚に根回ししてアリバイ工作しようとしてるっ!?」


 い、いけない、村から初めて国一番の名門の王立学院進学者が出ると期待されてる可愛い弟の優秀な頭脳が、完全犯罪を遂行するためにフル回転してる……!

 ていうかこのままだと普通に15歳にして前科持ち、弟の輝かしい未来が私のしょうもない浮気騒動のせいで牢屋行きに……!?

 ああ深刻なツッコミ不足、修羅場が泥沼化していよいよカオスじみてきました……。


 そうこうしてる内にわあっ、と泣きはじめたエリーゼさんの肩を抱き、ブラッドは非難するような悲しげな目で私を見据えます。いやいやいや。


 ……小さく震えるエリーゼさんの体は小柄でか細く、凶器を握る弟を羽交い締めにして歯を食いしばる私と比較すれば、どちらが悪役なのかよく分からないだろうなと一人目を細めます。

 ふわふわした杏色アプリコットの長い髪を撫でる彼の手は優しく、さすがに情けなくて苦笑しました。

 ああそういえば私たち、一度も手を繋いだこともなかった。


 私はちらり、と視線を居間の壁、飾られた一枚の家族写真に向けます。

 生まれたばかりのアルフレッドを抱えるお母さんと、お父さんに肩車されて笑っている子供の頃の私。

 あれから何がどう狂ってこんなドロ沼の未来に辿り着いてしまったのでしょう。

 写真の中で穏やかな笑みを浮かべる、天国にいるはずのお母さんに申し訳なくていよいよ泣きたくなってきました。


「良い義兄さんになってくれると思ったのに!」

「君が嫌いになったんじゃない、もっと大切な女性に出会ってしまっただけなんだ!」

「ごめんなさい、私が貴女のように地味で愛嬌もない村娘C的なとるに足らない女だったらこんなことには!」


 ああ、いいなあ、みんな自分に正直で……。


 何もかもどうでも良くなりかけた時、私はふと思い出しました。

 病に倒れて小さくなった声で、母が私に言った最後の言葉は、確か──



「……分かりました。私、この村を出ていきます」


 阿鼻叫喚と化した我が家の喧噪は、ぴたりと止まりました。

 自由にのびのびと語っていた3人は鳩が豆鉄砲喰らったような顔をしてぽかんと私を見ます。

 静かで何より、と私は息を吸い込み、怖気付いて立ち止まらないように一息で言いました。


「婚約と言っても家族間での口約束でしたから、ブラッドがそれを望まないのであれば私に引き留める権利はありません。好きにすればいいと思います。うちの葡萄畑とそちらの醸造所の関係も、できれば父の望み通り、これまで通り滞りのないままであってほしい。……父の死後、うちの土地の権利は私ではなくブラッドに譲渡される、という約束をしてましたよね?」


 ぎくり、とブラッドの目が細められました。

 ああ、やっぱりそのままどさくさに紛れて押し通すつもりだったんですね……。


 父が土地の譲渡を約束したのは、勿論「娘であるトールの夫となるならば」という前提の元だったでしょうが、文書も何も残っていない約束です。

 いくらでも不意にできるし、ブラッドが理屈をこねればいくらでも押し通せるものでした。


 今や両親の後ろ盾のない私たち姉弟を相手に、向こうには村の大切な物資供給源であるエリーゼさんのご実家も付いているとなれば、勝ち目は果たして如何ほどのものでしょうか。

 父がいなくなった手前、罪悪感もなく私との結婚の約束は白紙に戻し、ちゃっかり土地も手に入れて、可愛い奥さんと結婚して幸せに生きていく。

 なんとすばらしい人生設計でしょう、虫唾が走りますね。


 だから私はまっすぐ彼を見据え、迷いのないその顔にうんざりしながら言いました。


「いいですよ、その約束はそのままで」

「え?」

「姉さん!?」

「どのみち私たち姉弟2人ではあの畑を管理しきれないのは明白なので……協力を頂かなければとても。葡萄酒用の品種は生食には向きませんし、買い取って加工と販売を担ってくれる提携先をまた一から探して軌道に乗せるのは困難です。ですからあなたの予想通り、あなたとの縁を切ることは我が家には難しい。そこは諦めます。ですから権利を譲渡するというよりは、私の代わりに管理をお願いするという意味合いの方が近いです。

 その代わり、きちんと世話をして畑の質を落とさないこと。それから弟が学院を卒業するまでの間で構いませんから、葡萄酒の利益の一部をうちに渡すようにしてください。慰謝料代わりというわけではありませんが……。それと、弟が畑仕事をしなくてもいいように重ねて願います。勉強に集中させてあげてください」


「わ……分かった。それは約束するよ。でも君が村を出て行って何になる? アルフレッド君を一人にしてまで……今まで通り葡萄の世話をしてこの村にいればいいじゃないか。うちが雇用する形になるだろうけど、これまでとやることは大差ないんだし」

 いやいや、どのツラ下げてあなたがそれを言うんですか?? ……心底うんざりしながら、私は呆然としているアルフレッドの手から割れた瓶をやんわりと抜き取って視線を落とします。


 ガラスに映る自分の顔に思いのほか悲壮感もないことに、場違いに吹き出しそうになりました。

 ああ、本当に少しも好きになんてなれてなかったんですね。良かったんだか悪かったんだか。


「葡萄酒の利益の分配だけでは2人分の生活費と弟の将来の学費を賄うには足りませんので、その分は私が外に出て働いて稼ぎます。この近辺では望み薄ですが、王都なら私のような手に職のない女性でもそれなりの働き口があると聞きますから。まあ正直、居心地悪くてこのまま村にいるのも嫌だなって理由もありますが……」

「何言ってるんだよ姉さん! 僕が父さんの分も畑を守って働くから、こんな男に頼らなくてもやっていける販路だってすぐに開いてみせるから! 学費なんてどうせもう要らないし、これからだって2人で力を合わせて……」

「アルフレッド。アルフレッドはお医者さまになって、お母さんと同じ病の人をたくさん助けてあげるんでしょう? それが小さい頃からの夢だったじゃないですか。それこそこんな男のために諦めたりしちゃダメですよ」


 苦笑すると弟はつらそうに目を伏せて、ぐっと言葉を飲み込むと、「それじゃ姉さんが可哀想だ」と小さく呟きました。

 わりとそうでもありません。むしろちょっと晴れやかな気分だったりします。


 あのまま結婚して、捨てられるなり不倫を黙認するなりして一生この村で生きる未来を回避できたのだから、そんなに悪くもないと思うのです。

 母は今日この日が来ることを知っていたのでしょうか。

 母が私に言った最後の言葉は──


「トール。私がいなくなっちゃっても、代わりになろうとなんてしなくていいからね。お父さんのためでもアルフレッドのためでもない、まだ知らない誰かのための、あなたにしかできないことがきっとあるわ」







 さて、村娘のトールのお話はこれでお終いですが。

 そんなわけで、私は二十年の人生で一度も出たことのない村から飛び出して、一からスタートすることになりました。

 私にしかできないことが何かはさっぱり分かりませんでしたが、なぜだか不思議と、気持ちは軽いものでした。

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