犬の話かジジイの話か?

枯れた梅の木

第1話流浪の犬

場所は生駒山沿いの大阪府、昨今ほど猛暑日ではないにしろその日も暑い夏、昼下がりスーパー駐車場の隅っこで奴は鳴いていた、いや、吠えていた。リードをフェンスにつながれトリマーも一瞬目をしかめるような毛むくじゃら、炎天下で命の危険を悲鳴に乗せ精一杯吠える犬。


黒いミニチュア・ダックス・フント、痩せ細った胴体の横に『拾ってください』の置き手紙を添え、惨めにも捨てられた血統種が我が家の初代主人に拾われてきた時、毛玉に覆われた犬の姿を見て居候の私は正直厄介者がきたと心の中で舌打ちした。お荷物のタダ飯食いは二匹(一匹は人間)もいらない、卑屈な自衛本能がそう思わせたのかもしれない。


以前は様々なペットを飼っていた時期もある、犬・猫・インコにウサギにモルモット、だが一般家庭が飼育できるペットのフルコースを経験すると、同時に世話の大変さも理解し数年間愛玩動物と疎遠に、そこに現れた皮肉の運命を背負った小型犬の拾得物。


でも久しぶりに訪れた愛玩動物は私以外の人間にはそれなりに可愛がられたし、知り合いのトリマーに散髪してもらうとやはり血統種、見栄えはまあまあ良くなった。散髪する前のちのちこの犬の飼い主になる親戚の老婦人は、初見で言ったもんだ「こんな犬捨てればいいんや」


それぐらい汚らしく見えたのは否定できない。私も最初小綺麗なダックスフントしか印象になかったので全く違う犬種か雑種と思い込んでいたぐらいだ。ただ周囲から異物と思われていた、私に対する皮肉も込められていたことは容易に想像できる、老婦人の犬と私を交互に見る軽蔑の瞳がそれを物語っていたから。犬は人の嫌悪けんおに気づきにくいが、犬よりマシな知性を持つ哺乳類の私は苦笑いするしかなかった。


しばらくして犬は滋賀県奥琵琶湖の片田舎に引き取られていく。正確には体調の悪い我が家の初代主人が、故郷に住む親戚に押し付けたとも言える、押し付けられた相手は前出した我が家の玄関先で「こんな犬捨てればいいんや」と二匹を罵った老婦人だ。


こうして我が家の厄介者のうち一匹がいなくなり、当初内々ないないは口減らしたと安堵したが、不思議なもので犬に対する愛情をまったく感じなかった私が奇妙な喪失感に囚われた。これが大阪で捨てられ滋賀県の田舎に島流しにされた、犬に対する同情だと知るのは少し経ってからだろうか。決して愛情のたぐいではなかったが、自分にもこんな心が残っていたのかと若干驚きもした。


ただしそれは哀れな捨て犬と、惨めな己の姿を重ね合わせた結果、沸き起こる感情であり、真の動物愛護とはかけ離れた、低レベルの同情心のため、我ながら気恥ずかしくもなるがしようがない。犬猫を拾って帰った子供の頃から、愛情より可哀想だとの思いの方が強かったことを今でも思い出す、当時の性分のまま私は歳を重ねたようだ。


滋賀県へ島流しにされた犬は捨てられた経験を生かしてか、人に媚びることが巧みになり、会う人会う人に好かれるようになる。特に老婦人の旦那に溺愛された。


老婦人のまごが車で犬を送り届け、滋賀県の田舎に到着後、開いたドアから飛び出したダックスフントが、一目散に飛び乗ったのが、犬を溺愛する予定の主人あるじの膝、玄関先で椅子に座り、日向ぼっこをしていた旦那の膝上だったのは不思議。初対面で自分を1番の守ってくれる相手を、瞬時に見抜いたことになるのだから。


最初は迷惑がっていた「こんな犬捨てればいい」の老婦人も、吐き捨てた言葉を忘れたらしく犬の愛好者となり、旦那にいたっては自分の遺族年金まで犬に使うと公言させるほど、犬にとっての我が世の春が短期間続いた。


しかし時は無情、溺愛する旦那はあっけなく病没し、老婦人も高齢のため飼育が困難になり、大阪の我が家と滋賀県の飼い主の間を、たらい回しにされ始める。犬が我が家に来るたび、愛情のない同情心だけの私と犬は、微妙な関係で、犬の方も他の家人かじんがいる時は、私との距離をいい具合に保ち、消極的な愛想を振りまくのは、家屋で住居人が私一人になった時のみである。


別に不愉快に感じない、これはこれで不幸な流浪を繰り返してきた、犬の処世術だと認識しているから。それにもっと悲惨な動物はいくらでもいる、そう思えばこの犬は幸福とも言えた。


ただし時間が経てば境遇も変化する、そしてそれは概ね悪い方に変化する。犬を駐車場から拾ってきた、我が家の主人が大病のすえ帰幽きゆうすると、犬は大半の時間を滋賀県の田舎で過ごすことになる。この時悪い方に変化したのは私の境遇だった。


離職を繰り返し人の世話になってきた私は、周囲から当然のように冷たい態度と瞳を向けられるが、我が家の2代目主人との人間関係に悩みながらも、今日まで生き抜いてきた。賃金を稼ぐ能力のない自分が、一方的に悪いのを自覚しつつ、死ねずにしぶとくせいを消費する毎日。周囲に迷惑かけないのであれば、これはこれでありかもしれない、しかし私は人の援助なしでは生きられなかったし、生きようとする意欲もなかった。


他の人に自暴自棄はお勧めしないが、自分の末路は餓死がお似合いで、病死や老衰死ですらもったいないと考えることもある。それが偽りのない本心で、決して強がってもいない私の現在の心境だ。死神が迎えに来る日を一日千秋の思いで待つ。


犬の方はと言えば、我が家に初めてきた時からずいぶん歳をとり、最近ではオムツをつけた、白髪まじりの老犬へと変貌を遂げ、愛玩動物としての商品価値は当然レベルダウンする。令和も2年になった今年の10月の終わり、滋賀県の老婦人が体調悪化のため、十数回目の島流しにあった犬は、また捨てられた街、大阪に帰ってきた。


ヨタヨタ歩くダックスフントと再開した私は例の如く、愛情のない同情の視線を犬に向け、犬の方も私との再開を喜ぶこともなく、家屋の2代目主人と1階のコタツで過ごす毎日。私は2階で寝泊まりしながら、主人がいない時だけ犬の世話をした。必要以上に粗末に扱うこともないが、決められた範囲の作業を淡々とこなす。


犬の散歩が日課になりつつあった11月の初旬、我が家の2代目主人の気まぐれで、滋賀県へと犬の強制送還が決定した。おそらく犬の寿命が尽きるまで、我が家で面倒を見るのかと、内心覚悟していただけに、突然の強制送還に肩透かしを喰らった気分で、理由を知りたかったが、居候の自分に犬の世話をする資格がないことも理解していた。


人間関係が険悪になると、見猿みざるざるざるは現実になる。そしてそれこそが、立場の弱い人間の生きるすべだ。


だが、こんなクズ人生でも時には嬉しいこともあり、その瞬間が訪れる。犬の強制送還の護送役を私が務めることになり、表面上感情を押し殺しながらも、趣味と実益を兼ねた、久しぶりの中距離ドライブに、私は心の中で小躍りした。こうなると犬には感謝しかない。ドライブ前日の夜、安物だが好物のチクワを餌入れに放り込むと、ご馳走の真意を知ることのない犬は、ガツガツと喜んでチクワを食べた。

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