第10話 マツダ
追加のセックスを終えると、すぐに本田は寝息を立て始めた。俺はベッドから抜け出して、いつもの場所に行く。
ふだんは賑わっている朝市のスペースも、いまは暗く静まり返っている。車も人も通っていない。当たり前か、まだ深夜の四時。俺がここにタイムスリップした時刻と同じ。タイムマシンを他者に目撃されないようにと設定された時間だ。
例の電信柱にスマホの光を当てて、5までしか書かれていないことを確認する。辺りを見回す。タイムマシンが出現することもない。ホっとする。俺の嫌な予感は当たらなかった。
電信柱に背を向け、本田のマンション目指して歩く。帰る途中にあるコンビニでピザまんでも買って帰ろう。そんな呑気なことを考えた矢先だった。
背後で足音が聞こえた。
俺は反射的に電信柱を振り返った。
女が電信柱にスマホの光を当てて立っていた。
考えるより先に脚が動いていた。
女に向かって走る。夜の冷えた空気に頬を擦られる。
ハッとしたように女が俺を見て、体の向きを変え逃げようとする。
「待てよ! あんた三澄さんだろ?」
俺は名前を呼びながら、彼女の手首を間一髪で掴んだ。
逃れようと激しく振られていた手が、一瞬止まった。
俺はスマホを女の顔の近くに持って行く。
やはり三澄だった。
「なんで私の名前」
彼女が俺を見上げてくる。大きな目がより大きくなる。
「俺が五人目だからだよ」
「あ――そういうこと……」
彼女が納得したように息を吐いた。彼女も前任者の顔写真を見てからタイムスリップしたのだろう。
俺はまだ三澄の手を解放しなかった。彼女が握っているのは、黒いサインペンだった。これは依頼人がくれたものだ。過去に着いてすぐ、現場に数字を書き込むために。
「あんたは本田に死んでほしいの?」
彼女が6を書き込むつもりだったのは明らかだ。それ以外に彼女がここにいる理由がないだろう。ということは――五人目の俺に「あんたも失敗したよ」と嘘の情報を伝え、任務遂行を諦めさせようとした、ということだ。
唇を噛んだまま黙る三澄に、更に聞く。
「本田のこと、好きじゃないのかよ」
「今は違う」
彼女がきっぱりと言いながら、俺の手を振り払った。
「もう私は、違う人と結婚してるし、子供もいる」
自由になった手の薬指を、もう片方の指で擦りながら彼女が続ける。
「相手は本田製薬の専務の息子。出会いは本田副社長のお葬式だった」
お葬式、のフレーズに、思いがけずにショックを受ける。胸から肩にかけて痛みが走った。
そうだ、本田は、本当に死んだんだ。俺がいた2022年にはとっくに故人になっている。彼が死んだあと、本田製薬の専務が副社長に就任し、経営の指揮を執った。(本田の父親である社長は、相変わらず存在感がないらしい)本田が推し進めていたすい臓癌の新薬の研究をストップさせ、この年に流行したウイルスのワクチン開発に予算を割いた。
だから依頼人は、本田を助けたいのだ。本田が生きていれば、依頼人の母親はすい臓がんで命を落とさずに済むかもしれない。
「だから何も変えてほしくないの。副社長が死ぬのも、私とあの人が出会うことも、子供が生まれることも!」
三澄が俺を睨みつけるように見つめてくる。強い意志を持った目だった。
俺は即座に言い返せなかった。
俺が本田を助けたいように、彼女だって自分が築いた家族を守りたいのだ。
依頼人もそうだ。新薬の治験が始まるまでに母親の命は持たないと悟った彼は、私財を投げ打ってタイムマシンの現実化に奔走した。もともとタイムマシンの設計図はできていたが、実際に出来上がるのは十年も二十年も先になると見越していたものを、二年弱で完成させたのだ。
俺は彼の熱意に心を打たれたんだ。見返りを求めない親への愛情――それは俺にはないものだ。
「お願い、過去を変えないで」
必死な形相で三澄が言い募ってくる。俺は彼女から目を逸らした。
三澄の気持ちはわかる。でも、俺だって大事な人を守りたい。死なせたくない。
「俺はもう任務を果たしてるんだ。あとはなるようにしかならない」
本田が事故に遭う運命は、彼が生まれたときから決まっていて、人間の手でおいそれと変えることはできない。そんな予感がする。(ファイナル・デスティネーション的な何かか?)だから依頼人も、本田を事故から回避させようとはせず、彼にベンツを買わせるように俺に指示してきたのだろう。
「どんな任務だったの?」
三澄が探るような目で問うてくる。俺は首を横に振った。
「そう、だね。私に言えるわけないよね。なんでこの仕事引き受けたの?」
「あっちに未練がなかったから。いつ死んでもよかった。投げやりだったよな。三澄さんは? 依頼人とどうやって知り合ったの」
これは聞いておきたいことだった。
「私の弟、住む家もなくて、街をブラブラしていたら、依頼人に声を掛けられたんだって。弟はタイムマシンなんてって本気にしないで断ったけど、弟からその話を聞いて、私は気になって」
それで彼女は、自ら依頼人に会いに行ったのか。
「ここに来てから、何してた?」
「何も。色々やってみたい事があったはずなんだけど、実際は何をするのも怖くて。ホテルに閉じこもってるか、この場所で数字が書き込まれるのを待つぐらいしかできなかった」
そうだよな。俺もそうだったんだ。自分の些細な言動で、未来が大きく変わる(そういうのをバタフライエフェクトって言うんだっけ)のが怖くて、本田以外の人間とあまり話さないようにしていた。――いや、でも、すでに俺の存在のせいで未来は変わってるんじゃないか?
「三澄さんって、二年前会社辞めました?」
「は? 辞めてないけど。だから副社長のお葬式に出たんだし」
「俺がここに来たことで変わったんだ」
「そんな――じゃあお葬式であの人と会うことはなくなっちゃうわけ?」
急に彼女が険しい顔になって、俺の胸倉をつかんできた。
「どうすればいいのよ、私は」
今度は泣きそうな顔になる。どんな表情をしても美人は美人だな、と場違いにも感心してしまった。
「自分で考えろよ。頭良いんだろ? 違うやり方で旦那と出会う努力すれば良いじゃん」
話している途中で、俺は閃いた。
俺が三澄に協力する代わりに、本田を説得してもらうんだ。今日は一日、事故に遭う可能性があるから車に乗るなって。本田の信頼を得ている三澄が言ったら、彼は渋々にでも承諾してくれるかもしれない。
名案だと思った。だけどすぐダメなことに気がつく。
今日のスケジュールは頭に入っている。朝から隣県の研究センターに赴き視察をし、その後に行われる会議に出席する。すい臓がんの新薬開発をこのまま進めるか、やめるのか決めるのだ。部長以上の面々で。
俺と三澄が研究センターに行くなと言っても、本田は受け付けないだろう。彼は大事な局面に立たされているんだ。
それに、やっぱり俺は、三澄を本田に会わせたくない。彼女はもう、本田の優秀な秘書ではないし、信頼の置ける人物でもないんだ。
さっき俺は見たじゃないか。自分の未来を守るために、本田の死を願う彼女の険しい顔を。
三澄と別れたあと、俺はマンションに戻り、ベッドにもぐりこんだ。本田はまだ熟睡している。
なるようにしかならないんだよな、本当に。
俺はため息を吐いて、幸せそうな顔をして眠っている本田に軽くキスをする。
運命は些細な選択の違いで変えられるかもしれないし、どんな手を打っても変えられないかもしれない。
本田の生死も神のみぞ知る、だ。
だけど俺は決めた。どんなことがあっても、俺はベンツの助手席に座る。本田の隣に必ずいよう。
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