第128話

 奇跡という物を、信じたのは初めてだった。






 遂に脱走を決行した時、炭鉱から脱走する事と見付からない事、その二つに神経どころか鼓動の全てを集中させていたのを覚えている。


 日頃の半分以下に見張りが減った炭鉱を歩き回り、微かに足音でも聞こえようものなら跳ね上がって物陰に隠れ、それでも警戒すらされていないであろう管理者どもの金を盗み出した。


 資金が事務所でぞんざいな管理をされている事、厳重に施錠されていようとその鍵自体は当たり前の様に引き出しに入っている事。


 そして、その鍵は書き忘れる様な手書きの帳簿で雑に扱われている事は、予め調べがついている。


 脱走計画の全ては、連中の気の緩みにかかっていた。


 俺達が、キセリア人の靴を舐めた事を自慢する様な従順かつ、愚鈍なラグラス人だと思っている事。


 だからこそ、まるで盗まれる事を危惧していない様な管理や見回り、確認状況。


 この、気が緩みきった状況だからこその、一度きりの機会。


 ここで誤れば、次は無い。


 連中の意識が変わり、盗まれる可能性を考慮し、抜け穴を塞ごうとするだろう。


 そもそも、脱走計画が露見した時点で此方が無事で済む保証は無いのだが。


 命懸けの脱走。言葉にすれば在り来たりに聞こえるだろうが、当然ながら本人からすれば命が懸かっているのだから、緊張するどころではない。


 ダニールの演説を聞きに行く連中から、出発前に抜け出すだけでも相当な動悸がしたものだ。


 管理してるキセリア人達が、まさか“有難い演説”を欠席しようとしてる奴なんて居る訳無い、と思ってる事を願った。


 結果、此方の思惑通りキセリア人達はまともに此方の頭数を数える事もなく、ヒヨコでも箱詰めする様に鹿車へ労働者達を詰め込み、ダニールの演説へと向かっていく。


 隠れていた場所から恐る恐る顔を出し、連中が俺の事を探さずに演説の飛行船へと向かった事を確認してから、予め調べておいた見回りが滅多に通らない道を駆けていった。


 普段なら出会っても追い立てられるだけで済むだろうが、今はダニールの演説に皆が向かったと思われている。


 自身は奴隷でこそないが、今見付かればどうなるかは明白だ。


 当然ながら無許可で事務所に入り込み、帳簿など書く訳もなく鍵を持ち去り、施錠が一つだけのぞんざいな管理の金庫を開けて、手が埋まる程の金貨を袋に詰め、背格好の合う上着の一つをコートハンガーからもぎ取る。


 帽子も目深に被り、人が居ない瞬間を見計らって足早に、だが目立たない程度の早さで目立たない道を歩いて炭鉱から出ていく。


 最も、あくまでそう心掛けているだけで実際には、足が駆け出さない様堪えるのが精一杯であったが。


 遠くに談笑しつつ歩いている二人組を見掛けた時などは、それだけで走り出してしまわないのが奇跡な程に、動揺したものだ。


 大丈夫だ、遠目には分からない。向こうは此方など見ても居ない。


 そう必死に言い聞かせ、恐らくは此方など見向きもしていない二人組に幸運を願いながら歩いた。


 炭鉱の事務所、及び炭鉱の管理区域から足を踏み出した辺りでもう限界だった。むしろ、よくそこまで耐えたと自分を称賛したい程に恐怖の限界だった。


 息すら詰まった様に、心臓が弾けそうな程に、いっそ弾けてしまえと思える程に全力で町へと駆け出す。


 頭の中に覚えていた経路をなぞりつつ、ひたすらに駆ける。


 少しでも、少しでも距離を取らなければ。あの炭鉱に見つかったら、連れ戻されたら、俺に未来は無い。命もきっと、無いだろう。


 重い金貨の袋を懐に、炭鉱の労働で培った筋肉と体力の全てを駆使して、どこまでも駆けていく。


 炭鉱から離れても安心は出来ない、少しでも遠くに離れなければ。奴等が諦める程に、遠い街へと向かわなければ。


 この手元の金貨を使って、どこまでもどこまでも。


 逃げなければ。


 慌てていない風を装いつつ、街から離れる方向の鹿車に乗り込む。


 送り迎えの鹿車で、手綱を握っている男は自分がラグラス人である事を良く思っていない様だったが、此方が「早く帰らないと殴られるんだ、割り増しで払うから頼む」と伝えると、嘲る様な笑みと共に金貨を受け取りアメジカを走らせ始めた。


 向こうはラグラス人から割り増し料金を取れて満足なのだろうが、まさかラグラス人の脱走を手伝っている等とは夢にも思っていないだろう。


 鹿車に揺られていると、急に思い出した様に疲れが来た。


 重たい身体で鹿車の外を見ながら、ふと炭鉱がどうなっているのかを考えたが大した事は浮かばなかった。


 今はまだ騒ぎになっていない様だが、奴等が飛行船から帰ってきて炭鉱に俺が居ない事を知れば、きっと奴等は俺が居ない事を容赦なく管理者達に伝えるだろう。


 それを見越して、俺は誰にも脱走を相談しなかったのだから。あれだけ一緒に働いた親友達にも。


 今日騒ぎが起きなかったとしても、油断も安心も出来ない。


 1日出遅れたとしても、炭鉱の管理者達が俺を探す張り紙でも張り出そうものなら、町中が俺を探す可能性だってある。


 そうなれば、亜人など殴るぐらいで丁度良いと思ってる連中が次々に、面白半分の“狩り”を始めるだろう。


 面白半分の狩りに興味が無い連中も、俺の首に少額でも賞金が掛かればまず間違いなく、俺を探し始める筈だ。


 人が伝え聞く速さに比べれば、俺の逃げる速さなど大した事は無い。


 だからこそ、少しでも遠くに逃げなければ。俺が金を盗んだ脱走者だと知れ渡る前に、少しでも遠くへ。






 思った以上の料金を取られたモーテルの一室で、ベッドは使わず部屋の隅で物音の度に跳ね上がる夜を過ごし。


 精一杯“金のあるラグラス人”を心掛けながら、出来る限り遠くへ向かう地方列車の便を予約し。


 遠くまで街を離れられる次の便が、二日後だと聞いた時には余裕を演じつつも内心は不安に押し潰されそうになっていた。


 街中には脱走の噂も、張り紙もまだ無い。


 最初は“まだ余裕がある”程度に考えていた。このまま余裕がある内に、遠くまで逃げる事さえ出来れば。そう考えていた。


 翌日、街中で宿泊客からある噂を聞いて、思わず振り返ってしまう。


 わざわざ、新聞まで買って確かめた。




 あの脱走した日。ダニールと飛行船が少しでも皆の意識を惹き付けておいてくれる様に祈っていた、よりにもよってあの日。


 あの日、飛行船の上で、ダニールが乗り込んできたレイヴンに暗殺されていた。




 騒ぎでも起きてくれたら、どころの話ではない。


 ラグラス人のダニールが黒羽の団、レイヴンに飛行船の上で斬り殺されていたのだ。


 少しして、ある事に合点が行く。


 “まだ気付かれてない”のではない。最早、周りは“それどころではない”のだ。


 僥倖としか言い様の無い偶然。


 然り気無く聞いた話によれば俺が脱走した炭鉱は今、ダニールが暗殺された事により大騒動になっているらしい。


 ダニールの死により“目が覚めた”と語る派閥と、ダニールの死により“教えを受け継ぐべきだ”と語る派閥が、対立するギャングさながらの抗争を起こしており、現在の炭鉱は以前とは比べ物にならない程の厳重な警備に囲まれているそうだ。


 既に数人死者も出ているらしく、更に死者は増えていくだろうとの事。


 もし、あの日脱走しなかったら。


 俺はきっとダニールの話を聞く聞かない関係なしに、猛獣の檻に閉じ込められたが如く抗争に巻き込まれていただろう。


 しかも今では炭鉱の労働者がいつ暴動として管理者達に反乱するか分からない為、歩いて脱走した自分の頃とは比べ物にならない程に厳重な警備。


 飛行船から帰ってくる前より、頭数が一人減っているなど誰も気にしない。


 噂では俺が脱走した事に気付かず、管理者達は労働者を締め上げて資金を盗み出した奴を探しているんだとか。


 正しく、奇跡だった。


 新たな勤務地に飛ばされるラグラス人を演じつつも、自分でも驚く程に余裕を持って遠い地へと向かう便へと乗り込む。


 長い便になるだろうから、暫くは客車でゆっくり出来るだろう。


 正直に言ってここまで上手く行くとかえってどうして良いのか分からかったが、一応“何もかも上手く行った際の”予定は決めていた。


 炭鉱の労働者から聞いていた、レガリスのギャングの中でも唯一、ラグラス人の人権の為に戦い続けているギャング“スナークス”。


 そのギャングに、入るつもりだ。


 こう言っては何だが外の低賃金労働者と同じく、自分にはもう身寄りは居ない。勿論家族も。


 “スナークスに入る事さえ出来れば、このレガリスでもマシな生き方が出来るのにな”と夢物語の様に仲間がぼやいていた事を、自分は未だに覚えていた。また、スナークスに会うには街の何処に行けば良いのか、誰に何を聞けば良いのかもその仲間は話していた。


 いつか此処を抜け出したら、俺はスナークスに入るんだと言いながら。


 最も、その仲間も最後にはダニールの教えに感化されて“贖罪”の道を選んでしまったが。


 その仲間は居なくとも、その夢物語の様な意思と計画だけは継がせてもらうつもりだ。


 クラウドラインですらない地方列車が少し揺れるも、まるで気にならなかった。


 揺れる客車の薄汚れた窓から、外の景色を見つめる。


 黒羽の団、か。


 自分は今回、結果的に生涯でも類を見ない程の僥倖を掴む事になった訳だが、考えてみればその僥倖は正しくレイヴンの功績でもあった。


 正直に言うなら黒羽の団には、もう期待していなかったのが本音だ。それこそ、今回の件が起きるまでは半分名前を忘れかけていたぐらいには。


 もう浄化戦争は終結し、抵抗軍と言ってももう先細りの話題しか無いものだと思っていた。


 しかし、先程の町で聞いた噂話にしても今回の騒ぎにしても、明らかに以前とは風向きが変わり始めている。


 たまには痛い目見せてやろう、重役を暗殺してメッセージを伝えてやろう、と言った程度の数ヶ月前の抵抗軍とは空気が違った。


 奴隷制度廃止と現政権打倒を掲げていた抵抗軍“黒羽の団”は今回、よりによってラグラス人のダニールを暗殺した事でラグラス人達の支持者を大きく増やす結果となっている。


 以前にも、薬剤師だか何だかを助けた事で市民からもかなり注目されていたらしいが、今回の件で“単なる人種贔屓ではなく真に未来を見据えた革命軍”と更に注目され、評価が大きく上がったそうだ。


 窓の外の景色が、客車と共に大きく揺れる。


 少しずつ、考えていた。


 未来が明るいなんて、冗談でも言わなかったあの日々。愚痴で笑い合うだけが一番の楽しみだったあの日々。


 希望など、持つだけで身体が重くなる程に苦しかったあの頃。


 抵抗軍など、悪足掻きにしかならないと諦めていたあの頃。


 浄化戦争はとうの昔に敗北という形で終結し、全てを諦めていたあの頃。


 しかしその抵抗軍は現に、俺達の炭鉱に“贖罪信仰”を広めていたダニールを暗殺し、あの恐ろしい“疫病”に一つの形で終止符を打った。


 またも、客車が揺れる。


 間違いなく、何かが起き始めていた。


 今までとは違う、何かが。


 きっとレガリスのラグラス人、その殆どが諦めていた事が起き始めている。


 もしかしたら。


 客車は冷えていたが、それでも胸の奥に暖かい物を感じた。


 もしかしたら、今度こそ本当に。


 薄汚れた窓越しに、日の落ちた空を見上げる。






 今度こそ本当に、世界は変わり始めているのかも知れない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る