第114話
水面に映る顔は、随分と不機嫌に見えた。
事実、機嫌は御世辞にも良くない。
真鍮製の洗面器に溜めた水面に映る自分の顔は、我ながら近付きたく無い程に不機嫌な顔をしている。
もう一度顔を洗ったが、それでも当然ながら表情は晴れなかった。
こんな表情になっている原因は分かっている。
冷たい霧に包まれた、枯れ木の森。
不気味に鳴き続けるカラス達と、哀しく哭いているフカクジラ。
断末魔と共にフカクジラから突き出した、不気味な肉厚の両手剣。
赤黒い血と脂を蒼白く塗り潰しては、光る文字列を蠢動させる骨の剣。
“不機嫌”が顔にへばりつくには、充分過ぎる悪夢だった。
見たのはもう数日前だというのに、未だにあの腐肉の様な匂いが喉の奥に残っている様な気がする。
この左手の痣が発現した時の様に、頭が割れそうな頭痛と共に何か変化があるのかと思ったが、今の所そんな兆候も無い。
あの悪夢の最後、何処からか聞こえてきた弾んだ調子のウルグスの声が、無根拠のまま一つの確信をもたらしていた。
神霊ウルグス…………あのフクロウは、まず間違いなくあの夢でこの“痣”と同じ様に、俺に何かを託した。宿した、と言い換えても良い。
言い様の無い確信があるのだ。あのフクロウが、俺を黒く濁った“彼方側”へとまた一段と深く引き込んだという、確信が。
……最も、あのフクロウに引き込まれたのではなく、俺が自分から深みへと踏み込んでしまったのかも知れないが。
まるで昨日の出来事かの様に甦る、明確な死線の記憶。
コールリッジ暗殺の際に間違いなく俺は、常人ならば知らずに生涯を終える様なおぞましい一線を踏み越えてしまった。
果たして、俺はどこまで黒く淀んで行くのだろうか。
あの濁った冷たい力を得る事によって、俺はどうなっていくのだろうか。
どれだけ冷たい氷でも机の上では溶けるしか無い様に、どれだけ熱く沸いた湯でも時が経てば冷えてしまう様に、この“黒い淀み”は俺一人が抗える様な物では無いのかも知れない。
老いに勝てる者など居ない様に、抗う者と受け入れる者の差が幾らか開く程度で、“黒い淀み”に沈んでいく事からは誰も逃れられないのだろうか。
左手の、刺青の如く縁が際立った痣を眺める。相変わらず滲む事も霞む事も無く、痣は左手の甲に明瞭に残っていた。
濡れた顔も拭かず、溜め息を吐く。
痣はインクを改めて刷り込んだかの如く、以前より幾ばくか濃くなっている様に見えた。
意識と力を込めるだけで、左手の痣はまたもや蒼白い光を発し始める。
顔をリネン織りの布で拭きながら、少し考えた。
見方を変えよう。
悲観的だが、俺自身が冷たく黒く、淀んで濁っていく事は避けられないと仮定しておくとして。
この無根拠な…………言い様の無い感覚について着目して、考える事にしよう。
俺は何を“授けられた”?何を“宿された”?
以前のコールリッジ暗殺の際の、あの“虚無”で顔を覗き込まれた際にはこんな感覚は無かった。
あの冷たい枯れ木の森で聞こえた、あのウルグスの弾んだ様な声。
そうだ、あの時の嗄れ声は確かに弾んでいた。
以前の“虚無”での不気味な記憶が、徐々に掘り起こされていく。
あの神霊、ウルグスは言っていた。
重い代償と引き換えに、俺は運命をねじ曲げる程の力を手に入れたと。
俺が“力をどう扱うか”、“世界をどうするのか”を見たがっているであろう、ウルグスが興が乗った様に喋るとなれば声が弾む理由は自ずと絞られる。
新たに黒く染まり、更に深く踏み込んだだけならば以前も奴とは虚無で会っている事から、上機嫌になる理由には考えにくい。
加えて、あれから“黒魔術”と仮称しているこの力は使っていない。断言こそ出来ないが、あの時より更に染まっている、なんて事はまず無いだろう。
となれば、やはり考えられる理由としては腐肉や香木の香りがする“虚無”に引き込まれた俺が、あの冷たい枯れ木の森でフカクジラから骨の剣を引き抜いた事。
それを理由と見るのが妥当だ。
「骨、か」
そんな言葉が不意に口を突いて出る。
考えてみれば、この痣を発現する際には雨の降る暗い孤島で、カラス達に左手を赤熱した焼きゴテで押印されるという、拷問紛いの悪夢を見せられた訳だ。
当時は酷い悪夢としか思わなかったが、今考えればあの悪夢は俺の手に“痣”を焼き付けた事を、予め示唆していた。
逆に、あの冷たい枯れ木の森の夢が俺に何を示しているのか、割り出す事は出来ないだろうか。
真鍮製の洗面器の傍に両手をつくと、水面に映った自分の顔が不機嫌そうに見つめ返してくる。
考えてみよう。
あの夢ではフカクジラだったが、クジラの骨という意味だろうか?それとも空魚類ならクジラに限らないのか?
“骨”という要素に限定するなら空魚だけとも限らない。鳥類を含め、シカ等の哺乳類も含めると具体的な意味を特定するのは難しいか。
顎に手で触れる。
一旦、骨という要素を置いておくとすれば、後はあの不気味な両手剣。
肉厚な、骨の両刃剣が何を示唆しているのか、という事だ。
広く考えれば刀剣のみならず、“武器”という意味に取る事も出来る。
斧かも知れないし、槍かも知れない。囚われずに考えれば矢という事も有り得る。
武器と、骨か。
広く考えれば単語と意味をその2つに纏める事になるが、生憎と検討がまるで付かない。
単なる骨の武器、は些か短絡的過ぎるか。駄目だ、結論は出そうに無いな。
静かに嘆息し、リネン織りの布を適当に片付ける。
そもそも前提条件として、俺の憶測の域を出ない話に変わり無い。
ただ、客観的な事実として幾つか挙げるなら神霊ウルグスは俺に目を付けていて、奴は俺に幾つかの不気味な“力”を与えては俺がその力をどう扱うのかを、何処からか眺めている。
ウルグスは俺に何かの契約を持ち掛け、俺はそれに同意して契約し、重い代償を支払った代わりに“虚無”に触れ、不気味で奇妙な力を振るう事になった。具体的にどんな代償を支払ったのかは、未だ分からない。
事実は、それだけだ。
悪夢を見せられたせいで少し神経質になっているのかも知れない、改めて振り返ると取り留めの無い事を考え過ぎたな。
答えが出ないと分かりきっている事を、延々と考えても意味が無い。
数日間悩まされて、それでも答えが出なかったんだ。少なくとも、この思案は保留だな。
何を“宿された”のか判明したら、その時にまた考えよう。
静かに左手の痣を見やる。
まさかとは思うが、左手と同様に右手にも痣が出来るんじゃないだろうな。
そんな下らない事を考えていると不意にノックの音がした。それも、扉ではなく窓から。
振り返る事もなく、息を吐いた。
この部屋で、扉ではなく窓をノックする客など分かりきっている。
加えて言うなら、そいつが何を伝えに来たのかも。
ゆっくりと振り向けば、窓の外に幾分膨れて見えるヨミガラス、グリムが留まっていた。
何も言わずに窓を開けてやると、想像以上に冷たい風が吹き込んで来る。
考えてみれば、あと数日で“紅葉の月”も終わりか。直ぐに落雪の月が来て、再来月の氷結の月が来ればもう年末だ。
ここ数年で今年、この1838年程、波乱に満ちた年もそうそう無いだろうな。残す2ヶ月も、一体どんな目に合うやら。
そんな事を考えている間にグリムが窮屈そうに窓枠を抜け、身を振るわせたかと思えば部屋の中央の机に羽音と共に飛び移る。
「アー、サムカッタ!!スゴクサムカッタ!!ダンボーツケテ!!ダンボー!!」
そんな言葉と共に、改めて身を振るわせるグリム。
この部屋には可搬式の小型蒸気暖房がある分、冷え込む外よりは随分マシなのだろう。
入るだけで上機嫌とは言わないが、冷たい風が吹き込む外よりは暖かい筈だ。
直ぐにディロジウム式の小型蒸気暖房が部屋を暖めている事に気付いたらしく、グリムが爪の音を立てながら暖房の方へと、机の上を歩いていく。
少しでも暖まろうとしているのか、大きく翼を広げながら歩いているグリムを尻目に、窓を閉めた。
正直に言ってもう用件は分かりきっている様なものだが、この寒さの中をはるばる飛んできた客を無下にする事もあるまい。
「これからもっと寒くなるぞ、お前も上着が着れたら良いのにな」
そんな言葉と共に俺も暖房の方へと歩いていく。
そんな俺に返事もなく、机から飛び下りて小型蒸気暖房にグリムが翼を広げながら、どんどん距離を詰めているのに少し苦笑しつつ椅子に座った。
「一応聞くが、用件は?」
「ウン?」
まるで気の入ってない返事をしながらグリムが爪の音と共に床を歩く。
「用件だ。何か伝えに来たんだろう?まぁ、想像は付くが」
「アッ、ソウダッタソウダッタ!!サムカッタカラ、ワスレテタ!!」
距離を詰めた暖房が少し熱すぎたのか、グリムが翼を畳んで後ろに下がりつつ振り返った。
「ゴシュジンガ、サイスー……“サイシューチョーセー”、ガアルカラ、トウニコイッテサ!!!!コンナニ、サムイノニネ!!」
上手く言えたからか、その語気は何処と無く誇らしげだ。
…………やはり、か。
まぁ、わざわざあいつがグリムを使ってまで、俺に天気と風向きを教えに来る訳も無いのだが。
最終調整となると、最早考えるまでもなく注文していた装備、ヴァネル刀の事だろう。
ここの所、色々な事が起きすぎてすっかり忘れていたが、確かに考えてみれば注文したのはコールリッジ暗殺任務の直前だ。
あいつの腕前なら、とうに完成していてもおかしくない。
“最終調整”と言う辺り、恐らくは最後の取り回しを確認しに来い、と言った辺りか。
注文したヴァネル刀はまず間違いなく、自分しか使わない代物だろうから、筋の通った話ではあるが。
しかし相変わらず、スクランブルエッグになりそうな炎天下に呼び出したり、外がいよいよ冷え込み出した時期に呼び出したりと、来客を口笛で来るヤギか何かだと思っているんじゃなかろうか。
寒空の下に呼び出されるのは勿論気が進まないが、今ばかりは気晴らしに丁度良いか。
今回は元々、此方が注文したのだから前回の様な不躾な呼び出しでもない。毎回の様に態度に難はあれど、今回に限っては向こうがやっている事は間違っていないのだ。
これで此方が呼び出しを拒否しようとも、“彼方が注文して受け取りに来ないのは此方の責任ではありません”と、平然とコーヒーでも飲みながら本を開くゼレーニナの姿が容易に想像出来る。
それに考えてみれば、前回塔に呼び出されウルグスの事を説明された経験からしても、あの悪夢について何か得る物があるかも知れない。
あの目を見張る様な知識量に加え、リドゴニアだかペラセロトツカだかの文献を引っ張り出して調べてくれる可能性だってある。
楽な相手では無いが、少なくともこのまま一人で悩んでグリムと遊ぶよりはよっぽど良い。
頭を掻いた。仕方無い、行くか。
結論が出たとなれば、早く向かうに越した事は無い。
壁に掛けてある防寒着を手に取り、袖を通す。そろそろ、真冬用の厚い防寒着を用意しないとな。
「グリム、俺はもう部屋を出るぞ」
一応呼び掛けるも、当のグリムはまるで動く気配が無い。蒸気暖房の近くに真っ黒なスコーンみたいに座り込んでしまい、このまま動く気は無いとでも言いたげだ。
「イッテラッシャーイ」
本当に動かないつもりらしい。昼寝していたら、親から留守番を命じられた子供の様な声音だ。
しかし、そうは行かない。窓を開けたまま部屋にデカいカラス、ヨミガラスを暖まらせておくつもりは毛頭無い。
「暖まってないで、お前も出るんだよ。部屋を閉めるんだからな。留守番させるつもりは無いぞ」
ボタンを留めながら話す、そんな俺の言葉にグリムが首を伸ばす様にして暖房から振り返る。
「ボクハヤダヨ!!アンナニサムイノニ、ソトデナイヨ!!!マドアケテオイテ、カッテニカエルカラ!!!」
想像以上に強い語気で言って、暖房に向き直ってはまた空気が抜ける様に丸くなっていくグリム。
グリムの方に歩み寄り、可搬式の小型蒸気暖房の、ボイラーに直結しているディロジウム原動機を停止させる。
部屋中に、カラスの声が響き渡った。
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