第111話

 アーウィン・フィッツクラレンスは、もう随分と眠れていなかった。





 寝付けない事も理由の一つだが、浅く寝入る度に直ぐ様レイヴンの影が差した様な気がして、飛び起きてしまうのだ。


 どれだけ警備は万全だと自身に言い聞かせても、まるで安心する事も安眠する事も出来なかった。


 当然と言えば、当然だ。


 今までレイヴンに暗殺されてきた連中も、“警備は万全だ”と思いながら眠り、次の朝を迎えられなかったのだから。


 しかもまずい事に、最近は自律駆動兵でさえレイヴンを止められず、コールリッジは胴体からヤギの様に上下に引き裂かれて死んでいたそうだ。


 まるでクローゼットの悪夢だ、とぼんやり思う。


 自分の不眠は精神が原因な事は分かりきっていたので、様々な方法を試しては何とか眠る様にしていた。


 高いワインやウィスキーを何杯も飲んだり、疲れはてるまで運動したり、最近に至っては娼婦を買った事さえある。


 かの有名な高級娼館、“グース・ガーデン”から大枚を叩いて買った娼婦が今も隣で“仕事”を終え、高い値段のつく裸体でベッドに横たわっているのだが、アーウィンは気晴らしの後もまるで眠れそうに無かった。


 疲れると尚更、目が冴えてしまう様な気さえする。


 いつレイヴンが部屋に飛び込んでくるか、窓を突き破ってくるか、闇夜に紛れて傍に立っているか、気が気で無かった。


 ウィスキーの瓶を取り出し、飲みたいのかも分からないままグラスに注ぐ。


 中々に高級なウィスキーの筈だが、今のアーウィンには安酒の様にしか思えなかった。


 ふと、飼い慣らしているダニールの事を思い出して歯噛みする。


 亜人になりたい、等と人生で一度も考えた事は無かったが今だけは亜人になれば、酒も女も必要無い程に深く熟睡出来るかも知れない。


 何せ、抵抗軍のレイヴンどもは亜人の人権の為にも戦っている為、亜人を暗殺する事は殆ど有り得ないからだ。


 加えてダニールは、テネジアに会えたら歓喜と動悸でそのまま心臓が止まってしまいかねない程のテネジア教徒だ。


 救いを見いだしたとか何とか言いながら、周りや国が荒れようとも、見ていて奇妙な程に落ち着いている。


 神が自分の味方だとでも思っているのだろう。聖母テネジアが亜人の味方など、する訳も無いのだが。


 反抗的な亜人どもを血の一滴も流す事なく丁寧に“改心”させてくれるので重宝しているが、調子に乗る程度の扱いをしてやるのが精々だった。


 言うまでもなく、ダニールは役に立つから飼っているに過ぎない。


 靴は舐めさせるが、高い靴を履くのは自分だけだ。どれだけ有用だろうと、そこの線引きを変えるつもりは更々無かった。


 自分は警備が万全の豪邸に引きこもっているのに、考えてみればダニールは今も悠々と飛行船演説の準備を進めているのだろうか。いや、この時間なら眠っているか。


 支離滅裂な思考がアーウィンの中で渦巻き、理不尽な怒りが沸き上がっていく。


 何故キセリア人の自分がこんなにも憔悴し、眠れず、震えて苛立っているのに、自分に飼われているラグラス人風情が主人を差し置いて安眠しているのか。何故、ラグラス人等が命の危険を感じずに熟睡するなど許されるのか。


 突然沸き上がった、余りの不合理に意味もなくグラスを叩き割りたい衝動に駆られたが、何とか押さえた。


 隣で寝息を立てている高い娼婦を揺り起こすも、甘い返事と共に娼婦が振り返り、あからさまに作り笑顔を見せる。


 “残業”だと思っているのだろう。


 だが、アーウィンの返事は娼婦の予想とは外れた物だった。


「金は払う、文句も付けないからもう帰ってくれ」


 グラス片手にそう言うと、娼婦は心底困惑し事情を尋ねて来たが同じ文言を繰り返していると、少しして娼婦は不思議そうに服を着て帰っていった。


 明日の朝か昼まで好きに出来る金額を前払いしていたが、何一つ触れたいとも触れられたいとも思わなかった。


 頭を抱え、呻き声を上げた後グラスではなく瓶からウィスキーを飲み始めるアーウィン。


 恐怖と妄想で練り上がったカラスが、腐肉を啄む様に魂を脅かす。


 精神を磨り減らし、眠る度に恐怖で叩き起こす。


 憔悴しきったアーウィンが、当ての無い呻き声を上げる。





 一時は風前の灯とまで言われたレイヴンの脅威は、今や上流階級の節々に根を張るが如く、深く浸透していた。

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