第92話
啜り泣く声が聞こえる。
痛む胸を抑える様な心境で、神父によって聖書が読み上げられていくのを聞いていた。
パトリック・ケンジットと知り合った時間は長くない。この葬儀に来た人々に比べれば、吹けば飛ぶ様な関係でしか無い事は自分でも分かっている。
それでも、同じ任務で戦った者として、最期を見届けた者としてこの葬儀、告別式に出ない訳には行かなかった。
正直に言えば、最初この告別式に俺が顔を出した時の周りの目の冷たさと来たら、相当堪えたのが本音だ。
その中でも偶然に会ってしまったヴィタリーに至っては、このまま噛み付いてくるのでは無いかと思う程に不機嫌な顔で睨み付けてくるものだから、心底参った。
だが、射抜かれる様な視線の中でも告別の祈りを終え、パトリックの今までの経歴と人柄を聞き、用意した花を棺の傍に献花する頃にはヴィタリーを含めて、随分と周りの眼も穏やかになっていた。
俺も曲がりなりにもパトリックの死を悼む一人だと伝わったのか、それとも眼すら向けられなくなったのかは分からないが。
パトリックの棺は、当然ながら空だった。本当の亡骸が、レガリスでどんな扱いを受けているかなど考えたくも無いし、考えるだけ無駄だろう。
黒羽の団の規則としても現実問題としても、パトリックとスヴャトラフの遺体は回収出来なかった。それが、事実だった。
俺達に出来る事はこうして精一杯、亡骸に関係なく魂が安らかに眠れる様に祈る事だけだ。
神父が聖書を読み終え、締め括った辺りでまた幾ばくか啜り泣く声が聞こえた。
手順通りに行くなら、聖書を読み終えた後はいよいよ出棺、降葬されるからだ。
手入れされているものの、それなりに年季が入ってそうな降下台。その下部に立っていた団員が神父の手振りに頷いた後、クランクのロックを外して回し始める。
黒羽の団の本拠地ことカラマック島の端、大陸の端から飛び出す様に作られた、降下台を備えた金属製の葬儀会場は、正直に言ってしまえば想像以上に豪勢で頑強な作りになっていた。
離れた椅子から降下台の先を見つめるのではなく、降葬された後も空に消えていく棺を見られる親切な作りになっている。見せない方が温情かどうかは、別として。
使い込まれた様子の降下台が、悲しかった。
重そうな音と共に降下台の先がゆっくりと下がり始め、大空を指したまま先程まで上向きだった降下台の先は、水平に向かって下がっていく。
もうすぐ、この世界からパトリックの棺が消える。人々の祈りと献花を引き連れて。
空の棺は空の底まで落ちるのだろうか。空の底、霧と瘴気を突き抜けた先には一体何があるのだろうか。
どんな物があるのかは知らない。だがせめて、安寧がある事を祈るばかりだ。
降下台の先が水平を切った。そのまま下がり続け、遂に棺が徐々に降下台を滑り始める。
思った以上に静かな音を立てて、降下台を木製の棺が滑っていく。
思わず顔を背ける者も居た。気持ちは、痛い程に分かる。
そのまま、呆気ないとも思える程に儚い音と共に、降下台から棺が滑り落ちた。
もう、何の音も聞こえない。ただ、啜り泣く声が僅かに残っているだけだ。
散った献花の花弁が、漂いながら棺の後を残り香の様に追い掛けていく。別れを惜しむ様にも、別れを告げている様にも見えた。
顔や鼻を抑える様にしながら、一人、また一人と葬儀会場から引き上げていく。引き上げる際、此方にヴィタリーは見向きもしなかった。当然と言えば当然だった。
引き上げていく連中とは逆に、脚が勝手に葬儀会場の端の方へと歩いていく。
意外にもこの葬儀ではユーリを見掛けなかった。周りを一人一人見る余裕が無かった、という理由もあるが。
まぁ、あいつの事だ。あの性格からしても葬儀に見向きもしない、という風には思えない。俺が気付かなかったか、別の理由があって出席しなかったか、そんな所だろう。
葬儀会場の中心、降下台の方向へと歩いていき、降下台の傍の欄干に両手を掛ける。
眩しかった訳では無い。涙が滲んだ訳でも無い。それでも、勝手に目が細くなった。
果てしない空と、下層に滞留している霧を眺めつつ、静かに長い息を吐く。
「悪いが、この葬儀会場は普段立ち入り禁止になっているんだ」
背中にそんな声をかけられ、振り向くと先程クランクを回していた団員だった。どうやら、その背後から少し離れた辺りに神父も此方を見つめているのが見える。柔和な顔をしているものの、その眼は迷惑そうだ。
「後少ししたらこの会場は清掃の為にも締め切る、明日も予定が入っているしな。だから悪いが早めに帰ってくれ」
何とも言えない顔で団員が呟く。恐る恐る、という表情も微かに見える。全く、俺の事はどういう風に伝わっているのやら。
少しそいつを見ていると、それでも団員が一歩此方に歩み出る。
「気を悪くしないで欲しいんだが、俺達も仕事があるし、あんたはその、噂も立ってる。不気味なんだ、それに他の作業員も困ってる」
………カラスやら何やらの噂を考えれば、当然の意見とも言えた。告別式に、“悪魔の使い”が居たら確かに不吉だろうな。
「もう少しだけ居させてくれ、後少しで良い」
そう返すと、苦い顔の団員が再び口を開こうとする。
「知り合って短いが、パトリックは一緒に戦った仲間なんだ。任務で、最期の瞬間も傍に居たんだ。頼む、少しだけだ」
俺の言葉に、団員が唇を引き結んだ。視線を落とし、考え込んでいる様子の後に再び顔を上げた。
意外そうな、納得した様な顔をして、少しの間の後に口を開く。
「言っておくが、妙な真似だけは止めてくれよ」
「カラスが集まってきたら直ぐ帰るさ」
団員の背中を見送った後、再び欄干の先の大空に眼を向ける。
崩落地区で任務の予定日を待っている間に少しだけ話したのだが、パトリックも喫煙者だった。
崩落地区下層の待機部屋で随分と気楽そうに吸うものだから、随分と禁煙の決意を試されたものだ。
正直に言うと一本貰おうかと真剣に悩んだのだが、パトリックに声を掛けようとした瞬間、やはり昔の彼女の顔が浮かんできて断念した。
惨めな話だ。俺が英雄じゃなくなった途端に、書き損じの書類を破る様に俺を見捨てたあの女を、今でも忘れられないのだから。
きっともうあの女は俺を何とも思って居ない。なのに、俺だけが取り残されている。
自分でも嫌になる程に女々しいが、仕方無い。
禁煙が継続出来たのに、惨めになるのもおかしな話ではあるが。
…………禁煙してから身体が以前より動く様になった、という様な事も無かった。個人的に言うなら、調子が悪くなった上に不運な事しか起きていない様な気もする。
心の何処かでは分かっている。いっそ禁煙を止めて紙巻き煙草か、葉巻でも吸えばこの惨めなしがらみからも解放されると。
後に再び禁煙するかどうかは別にして、いっそ盛大に高い葉巻でも買って、一本吸うべきか。
ニーデクラでは、煙草の煙を肺にまで吸い込むのが流行りだと聞いた事があった。
生憎と自分は一般的な喫煙、舌の上で煙を転がす様な喫煙方法しか経験は無いが、もしそれをやるなら相当な経験になりそうだ。
そこまで考えた辺りで、胸の内で声が聞こえた。
お前には無理だ。お前は、自分からあのしがらみを断ち切れる程、強くない。
胸の内が苦くなる。
分かっていながらも、それが出来ない。最期の繋がりが切れてしまう様な気がするから。
かつては浄化戦争の英雄とまで呼ばれた男が、この体たらくだ。我ながら、笑ってしまいそうだった。
俺は、このまま死んだとして果たして最期の瞬間まで後悔無く消えられるだろうか。
最期の最期で、「やはり一本ぐらい吸っておけば良かった」と思わずに居られるだろうか。
早々に死ぬつもりは無いが、死んだ奴等の大半が“そうそう死ぬつもりは無かった”のが当たり前の世界だ。
先程見送られたパトリックにしても、死ぬ予感はしていても真っ先に死ぬつもりは無かったに違いない。
勿論、あくまでこれは憶測に過ぎず、俺が思っていた以上にパトリックが死ぬ覚悟を固めていた可能性もあるが。
あの任務でヴィタリー辺りが思い描いていた様に、俺があの自律駆動兵相手に“時間稼ぎ”の末に倒れていたら。
あの自律駆動兵に頭を踏み潰される寸前で、俺は使命を果たせない事以外、後悔せずに死ねるだろうか。
もしかすれば、本日の棺で弔われるのがパトリックではなく俺だったかも知れない。
……まぁ、こんなにも手厚い葬儀や告別式が行われたら、の話だが。
俺は、“俺自身”に胸を張って死ねるだろうか。
浄化戦争の半ばの頃の自分は、死に迷いなど無かった。死の寸前でさえ、敵のハラワタに噛み付き、引きずり出してやる。それぐらいの気概でいた。
周りに「どうせ死ぬのなら、楽しんで死ぬさ」と言いながら、煙草を吹かしていたのを覚えている。
周りから、喉が悪くなると言われても「別に歌手じゃない」と笑っていたのも覚えている。
何時だって、直ぐ様迷い無く死ぬ事が出来た。躊躇無く自分の人生を諦める事が出来た。
それが今ではどうだ。こうして思い返すだけでも心残りが幾つもある。心残りになりそうな事も。
浄化戦争の末期、少しずつ自身が“間違った方”に進んでいたのが今なら分かる。勝利や敗北ではない。国や政治でも無い。自分はあの頃から少しずつ、自身の“正義”を無視する様になっていた。
自分の“正義”を無視した結果、いつしか誰かに自身の行動の正しさを求める様になっていた。自分の正しさを信じられなくなっていた。
その度に、自国と自軍が「お前は間違っていないから迷うな」と背中を押していた。
背中を、押されていた。
結果、浄化戦争の最期の戦いで、俺は許されざる罪を犯した。
背中を押されるまま、自分自身の“正義”を踏みにじったまま、とてつもない過ちを犯してしまった。
浄化戦争の後、国中が俺と俺の戦果を誉め称えた。俺は生涯に渡り金の椅子が約束され、座っているだけで袋詰めの金貨が転がってくる人生が待っていた。
今では見向きもされない彼女も、あの時は眼を潤ませて伴侶となる事を誓っていた。
……………それから数ヶ月も立たない内に俺は名誉と肩書きを剥奪された後、閑職に飛ばされ、彼女は軽蔑と共に俺の頬を平手打ちして去っていった。
金の椅子に座れる立場でありながら、自分から抗議の書簡を提出した事は、今でも後悔していない。
強いて言うなら、何故もっと早く“自分の過ち”に気付けなかったのかを後悔したぐらいだ。
そこまで考えて漸く、一つの結論が出た。
俺は任務中にどう死んだとしても、死の間際にはきっと後悔するだろう。
パトリック達の様なレイヴンと違って、余りにも犯した罪、背負った罪が重過ぎる。誇り高く散る様な立場には程遠い。
それに俺一人が死んだ程度で、償える様な罪でもない。
彼らレイヴンは誰に言われるでもなく自分の“正義”を信じ、この間違った世界に立ち向かい、誇り高く散っていった。
両手で握っていた欄干が、僅かに軋む。
俺は結局、同じレイヴンの黒革の防護服を着込んでレイヴンマスクを被っていても、彼らとは根本的に違う存在なのだ。
過ちが積み重なり許されざる罪を犯した後に、漸く国の正義ではない“自身の正義”に気付いた自分とは。
………俺には、生きて戦い続けるしか出来ない。生きて戦い続け、どうしようもない敵に叩き潰され力尽きるその日まで。
そんな想いと共に、眼を閉じる。
すると、肩に重さを感じた。
何を考えるでもなく、振り返る。
シマワタリガラスが何でも無い様な顔で留まっていた。
眼を向けずとも、団員達が遠くでざわついているのが耳に入ってくる。
脳裏に、先程の言葉が明確に甦った。
“カラスが集まってきたら直ぐ帰るさ”
「あぁクソ、冗談だったのに」
肩に留まったまま、カラスがのんびりと鳴いた。
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