第90話

 左手の熱で、目を覚ました。







 微睡んでいた意識が編み上げられていき、胸から指先まで現実感が刷り込まれていく。


 あぁ、此処か。


 横たえていた身体を起こすと、身体の下で無数の骨の欠片が砕ける音が聞こえ、気味の良いとも悪いとも言えない音を立てる。


 足元には大小様々な骨が敷き詰められ、それでいて腐肉の様とも、野花の様とも言える独特の匂いが漂っていた。


 所々に突き刺さった松明が、道標の様に骨の砂利を不気味に照らしている。


 その照らされた骨の砂利の上に、眼窩から抉り取られた眼の無いカラス達が数え切れない程に集まっていた。


 眼球すら無いまま、カラスの目線が自分に集まっているのを感じ、首筋の辺りに冷たい物が伝う。


 前に見た様な、錆びだらけの古びた玉座は無い。代わりに数え切れない程の、盲目のカラス達が居る。


 暗く淀んだ、それで居て端から夜空を覗き込んでいる様な、胸の奥が冷たくなる様な不気味な場所。


 俺は、この場所を知っている。正確に言えば、“この空気”か。


 灯火か道標の様に、左手の痣が蒼白い光と共に仄かに熱を持っている。


 一羽のカラスが鳴き始め、それに呼応する様に大勢のカラスが鳴き始めた。


 大騒ぎどころ、狂気さえ感じる程にカラスの鳴き声が重なり合っていく中、左手の痣の熱が呼応する様に強くなっていく。


 大した熱では無かったが、何を示しているのかは言うまでもなかった。


 嗚呼、来たな。


「久しいな、デイヴィッド」


 老人の様な嗄れ声と共に、足元の骨を踏み砕きながら蒼白い目の不気味なフクロウが暗闇から顔を突き出すようにして、姿を表した。


 カラス達が荒れ狂い、一目散に散っていくカラスも居れば、周囲を羽ばたきながらもウルグスや俺から離れないカラスも居る。


 まるで意に介さない様子で、フクロウが言葉を続けた。


「街には今、恐怖と鮮血が満ち溢れている」


 ウルグス、か。


 古代から信仰されている神霊、俺にこの奇妙な“痣”を授けた張本人。


 腐肉の様とも、野花の様とも、はたまた濡れた香木の様とも言える香りが強くなる。ウルグス自身か、もしくは“この場所”の香りか。


「私の贈り物が何をもたらすのか、少しずつ分かり始めた様だな」


 蒼白く発光する左手の痣を、同じく蒼白く光る双眸でウルグスが見つめてくる。


 少しだけ、興が乗った様な声色に思えた。


「デイヴィッド、お前は途方も無い試練に直面しては、その手を血に染めて切り抜けてきた。驚くべき事だ。例えお前が、浄化戦争の英雄だという事を差し引いてもな」


 瞬きすらしない、蒼白い眼。人を丸呑みにしそうな巨体。見た事も無い紋様の毛並み。それでいて、嗄れた老人の様な声。


 奇妙という言葉を、煮詰めて固めた様なフクロウだった。


「だが、お前は血の意味を知っている。どれだけ自身が血に染まっているか、そして、血に染まるという事の意味を」


 無根拠のまま、静かに確信する。こいつは、“視ている”。俺が今までどんな戦いを切り抜け、どんな思いで剣を振るっているかを、視ている。


「そして、血の意味と重大さを知り尽くし、血と刃を使いこなすお前でさえ、手に余る試練が現れた」


 俺がどんな窮地に陥り、俺がどう決断してどう切り抜けるかを、こいつは視ているのだ。


 不快感とも、恐怖とも違う、正しく不気味な感覚が独特の香りと共に肌を撫でる。


「血に染まった英雄程度では、到底切り抜けられない様な試練だ」


 そう語るウルグスは、まるで冒険譚を読んでいる様な口調と共に此方の顔を覗き込んだ。


 左手の痣がそんなウルグスに共鳴するかの如く、一際強く脈打つ。


「そしてお前は、過去に超えてきたどんな一線よりも重大な一線を踏み越え、途方も無い試練を乗り越えた」


 そう語るウルグスの声に、また一段と興が乗った様に思えた。


 少しずつ分かってきた。こいつが、何を見たいのか。俺の、何を見届けたいのか。


 こいつは破滅を見たいのか、と考えた事があった。俺が国中で暴れまわり、人々を八つ裂きにしていく姿が見たいのか、と。


 だが、違う。


「驚愕に値する事だ。お前に、そこまで自分を穢す覚悟があったとはな。つくづく、楽しませてくれる」


 俺がレガリスに革命を起こすのが見たいのか、と考えた事もあった。


 不当な扱いを受けている奴隷にラグラス人、圧政に苦しんでいる人々を救う姿が見たいのか、と考えた事もあった。


 だが、それも違う。


「重い代償と引き換えにお前は虚無に触れ、運命をねじ曲げる程の力を手に入れた」


 こいつは、この古代から伝わる神霊は、俺に破滅を呼べとも、革命を成せとも言わなかった。


「お前はどうする、デイヴィッド。この国を叩き落とすのか?それとも、引き上げるのか?」


 こいつは俺が力を与えられた結果、“世界をどうするのか”を見たいのだ。


 尋常ならざる、超常的な力。世界を歪めてしまう程の、強大な力。


 それだけの力を与えられた人間が、“力をどう扱うのか”が見たいのだ。


「それほどまでに虚無に堕ち、手を穢し、お前は何を成したい?何になりたい?」


 老人の様な嗄れ声が、微かに弾む。


 左手の痣が蒼白い光と共に益々発熱し、カラス達が益々騒ぎ立て、飛び回る。


 そのまま俺を啄むのではないか、という程にウルグスが俺に顔を近付けて覗き込んだ。


 瞬きすらしない、不気味な蒼白い双眸が俺を貫かんばかりに見つめている。







「お前は何を失い、何を手に入れるつもりだ?」















 目が覚めた。





 見飽きた天井が、窓から入り込んだ日光で照らされている。


 自身に何が起きたのか理解したが、それでも起きる気がしなかった。


 神霊ウルグス。この左手の痣を焼き付けた“神霊そのもの”が俺に問い掛けてきたのだ。悪夢ではない。奴は、確かに“其処”に居た。


 まだあの香りを覚えている。あの、形容しがたい香りを。


 ベッドに横になったまま、それでも左手を目の前に翳した。


 暖炉で遠巻きに炙られた様な熱の感触が、まだ手の甲に残っている。


 奴は言った。


 そこまで自分を穢す覚悟があったとは、と。


 重い代償を支払ったとも。その代償と引き換えに、“虚無”に触れたとも。


 あの任務の時にも感じた事だが、俺はやはり相当な一線を踏み越えてしまったのだろう。それこそ、あの不気味な神霊の声を弾ませてしまう程度には。


 どんな代償を払ったのかも、分からぬまま。


 横になったまま、身体の節々の傷の事を思い出した。分かってはいたが、手足を動かしてみる。


 痛い。当然の事ではあったが。


 起き出す気はまるでしなかったが、それでも身体を起こす。


 信じられない程気乗りしない朝だったが、それでも今日は絶対に動かないといけない。


 デイヴィッド・ブロウズとしてではなく、レイヴンとして。革命の犠牲になった者に、敬意を表する戦士として。


 痛む身体のまま、手早く身支度を終える。


 先日の任務で戦死した、パトリック・ケンジット。


 その告別式が、今日行われる。


 痛む腕で頭を掻いた。


 きっと、素性からしても歓迎はされないだろう。石が飛んでくるかも知れないし、家族でも居たら俺に唾を吐いてくるかも知れない。


 それでも、俺は行かなければ。


 今回の件で顔さえ出さないという訳には、絶対に行かない。


 戦友の葬儀、か。


 レイヴン達が所属する黒羽の団において、生前の本人の特別な希望等が無い限り、戦死者を含む死者の葬儀方法は基本的に降葬を採用していた。


 故人の棺を降下台から空へと投下し、この大空に葬るという方法だ。


 降葬の起源としては聖母テネジアが最期、緩やかに空に落ちていった事に由来しているそうだが、個人的には後天的な意味合わせだと思っている。


 だが希望があった場合、一旦土をかけ土に還した形、所謂“土葬”の形を取った後、降葬される事もある。


 二世紀以上前、具体的にはまだ空中都市が建造される以前。


 浮遊大陸に人々の殆どが住んでいた時代、敬虔なテネジア教徒の一部では、死者を大陸の地中に埋葬する“土葬”が行われていた。


 土葬により“墓地”として実質土地を消費する事からも、実際の土葬は富裕層や王族など高位な人間にしか許されない、“高貴な葬儀”であったが。


 何故、そこまでして土葬に拘る連中が居たのか。


 聖母テネジアの子孫の遺体が降葬ではなく土葬、つまり埋葬された事から、“土葬こそが真のテネジア教徒の葬儀方法だ”という意見があったからだ。


 時代が進むにつれ、人々の基盤が空中都市に移ってからは大陸の地中に埋葬する“土葬”は最早、専用の土地を保有している富裕層や王族のみに限られた葬儀方法になってしまったが。


 現に今回葬られる、パトリック・ケンジットはテネジア教徒ではあるが特にそこまで希望は無い、と伝えていたそうだ。その為、現代では一般的な“降葬”で彼は葬られる事となる。


 ………レイヴンになって以来、自分は一切葬儀に関して要望を聞かれた覚えは無いが、大して気にするつもりも無かった。


 どのみち、無宗教だからな。


 もう一人の戦死者、スヴャトラフ・チェルイシェフにおいても後日、同様に降葬される事が決まっていた。


 一つ違う事があるとすれば、スヴャトラフはテネジア教徒ではなく“ザルファ教徒”だったという事だ。





 あの任務の後、手当てしたばかりで包帯にも血が滲んでいた頃。


 黒羽の団において戦死した二人の葬儀はどうなるのか、カラマック島への便を待つ間に崩落地区でユーリから聞いたのだが、ユーリ曰くこの黒羽の団において、葬儀及び信仰する宗教は殆ど二極化しているそうだ。


 宗教に関して二極化していると聞き、自分は“テネジア教徒か、無宗教か”の二択という意味かと思っていたがどうやら違うらしい。


 信仰の一方は、最早バラクシア全土に普及しつつあるテネジア教。


 そしてもう一方は、氷骨神話とも言われる“ザルファ神話”を信仰する“ザルファ教”という宗教だそうだ。


 スヴャトラフはテネジア教徒ではなく、北方国リドゴニアや東方国ペラセロトツカで古来から信仰されていた、ザルファ神話を信仰していた。


 …………浄化戦争において、俺は数々の礼拝堂へと侵攻、侵入していたがペラセロトツカの宗教については“下らない民族宗教だ”としか聞かされていなかった。


 思い出したくない記憶だがペラセロトツカでは確かに、テネジア教では考えられない様な彫刻や彫像、古代文字を見た記憶がある。


 それを見た当初、俺は地方的な民族宗教だと思ったし、現にそう説明された。


 だが次第に違和感を感じていた。明らかに、地方的な民族宗教程度では済まされない歴史や規模を感じた事を覚えている。


 自分は元々彼等の文化に興味があり、風習や生活についても勿論調べてはいたが、宗教や伝統に関して取り上げている本は殆ど皆無と言って良い。


 まぁ今考えれば、このレガリスでテネジア教以外の大規模宗教を詳しく解説する本を世に出すなど、相当な胆力が必要になるが。


 しかし、質問は無意味だった。上官に質問した所で“大した宗教ではない”と退屈そうに言われるだけだった。“あの男”ですら、「獣人どもの神など、焼き払うだけだ」と興味を示さなかった。


 ………今思えば、あの男は知っていたのだろう。あの男が中途半端のまま終わる訳が無い。知った上で“下らない”と切り捨てていたのだ。


 何にせよ、結局俺は浄化戦争が終わるまでその宗教が何なのか知る事は出来なかった。具体的な資料も手元に無かった。


 浄化戦争が終結してもう4年以上経とうとしているが、結論から言えばザルファ教はかつて、テネジア教と張り合う程の一大宗教だったらしい。


 だが、ここ一世紀辺りの宗教改革に加え、浄化戦争における徹底的な宗教弾圧。


 今や正当なザルファ教徒は、見る影も無い程に激減してしまっていた。かつての半分も居ないだろう。


 “敗北した宗教”、それがザルファ教だった。


 しかし、どれほど虐げられ弾圧されたとしても、決してザルファ教が絶えてしまった訳では無い。


 現に黒羽の団ことカラマック島では、テネジア教徒と同じ規模のザルファ教徒が集まり、各々の神に祈っているらしい。


 バラクシア都市連邦、特にレガリス国内では大っぴらに神を信仰出来ないザルファ教徒からは、宗教差別の無いカラマック島は安寧の地として感謝されているとの事。


 テネジア教には聖母テネジアとその息子や子孫が居る様に、ザルファ教にも様々な神や神の子が居るそうだ。


 加えてザルファ教は、テネジア教の様に聖母テネジア只一人を信仰するのではなく、多数の神を信仰するらしい。


 ユーリの話によるとザルファ教には貪欲な隻眼の戦神だの、奔放な豊穣の女神だの居るらしいが、中でも雷を司る最強の軍神が居るらしく戦士に人気の神だそうだ。


 かくいうユーリも、その軍神を主に信仰しているんだとか。


 ………正直に言って、ザルファ教の話を聞けば聞く程に、古傷が抉られていく様だった。


 自分があの戦争でどれだけの物を奪い、壊したのか、まざまざと思い知らされているかの様で胸の内に苦い物が溢れていく。


 勿論、ユーリにそんなつもりが無かったのは分かっている。それでもあれ以来、過去の戦争の記憶に、より一層償いがたい罪悪感を感じる様になっていた。


 俺達が壊して奪った物の中には修復出来るもの、取り返せるものもあったかも知れない。だがそれの数倍、数十倍も、取り返しの付かない物を俺達は踏み潰したのだ。


 言うまでもなく、俺がこの手で殺した人々は誰一人として帰って来ない。命に取り返しなど、付く筈も無い。


 俺はあの戦争で、数えきれない程の人々の命と未来を奪っただけでなく、どれだけの人々の安寧と拠り所を奪ったのだろうか。


 決して、許されない事だ。いや、許されてはいけない事だ。


 胸に溢れる、赤黒い錆の様な記憶を押し込める様に黒い上着に袖を通す。







 俺がどれだけ償おうと決して許されない事など、元々分かりきっていた事だろう。


 そんな後ろ向きな気持ちのまま、俺は自室の扉を後にした。

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