第72話

 皮肉に思える程、気持ちの良い朝だった。






 ベッドから起き出して、大きく伸びをする。


 考えてみればもうじき“薪山の月”も終わりか。来月の“紅葉の月”になればいよいよ持って、更に暖炉の薪が必要になるだろう。


 また明日にでも薪割りをしないとな。欠伸混じりにそんな事を考えつつ毛布を畳み、顔を洗った。


 氷を詰めた冷蔵箱から、食材を幾つか取り出す。


 ついでに冷蔵箱の氷を確かめ、同じく併設している製氷機から氷塊を取り出して、冷蔵箱の上部に再び詰めた。


 いつの間にか只の鉄の箱になっていて、腐臭がするなんて事態は御免だ。


 予め作り、寝かせておいた生地を取り出す。


 炉にかけて熱したフライパンに油を引き、レードルで流し込み薄く伸ばす様にしながら焼いていく。


 焼き色を見て裏返し、両面が焼けたら皿に載せ、再び同じ手順で焼き上げて皿に積み重ねていく。


 元々、料理は好きだった。食堂に行くと自分は目を引く存在な事を踏まえ、自分一人で何とかする為にわざわざ冷蔵箱と製氷機を調達してもらったぐらいには。


 これぐらい焼けば取り敢えずは大丈夫か。


 皿に他の具を盛り付けて、焼き上がったブリヌイと同じくテーブルに据える。


 同じく冷蔵箱からクランベリーを煮詰めて作っておいたジュースを取り出し、丁寧にカップに注ぐ。


 さて、こんなものだろう。


 椅子に腰掛け、一息ついてから朝食に手を付けた。


 ブリヌイに空魚の燻製を包んで、食べる。バターをもう少し使うべきだったかな。


 今はまだ大丈夫だがもう少し寒くなれば、故郷で“ペチカ”と呼ばれている大型の暖炉一体型の炉を使う季節になる。この炉は来月か、再来月にでも片付けるとするか。


 そうだ、花にも水をやらなければ。一通り水をやったらその後に、紅茶でも淹れるとしよう。


 口を動かしながら、花壇の事を考える。


 水やりついでに見回って、荒れている箇所や乱れている箇所があれば整えた方が良いかも知れないな。


 それにもうじき、咲き終える花もある筈だ。咲き終えた花ガラを摘んでおかなければ、植物自体が傷んでしまうかも知れない。


 ふと脳裏に先日の、鮮血と惨劇の記憶が飛来する。


 叩き潰される仲間のレイヴン。結局、生きて帰る事が出来たのは、自分一人だった。


 クランベリーのジュースでブリヌイを流し込む。やめろ、今その記憶を振り返る必要は無い。


 報告書は提出した。ヴィタリー・メニシコフ教官の言葉通り、失敗ではあれど失点ではない。


 少なくとも、自分の報告書で何かしら対策が講じられる筈だ。あれだけの怪物を相手にするのだから、難儀するだろうが。


 自分の報告であの巨人への対策を練る事が出来る、と思うしかない。どのみち、あの場所から逃げる事が出来なければあの報告すら出来なかった。


 深く息を吸って、頭からそんな意識を追い出す。


 朝食のブリヌイも食べ終わり、外に出てみれば随分と天気も良い。


 今の季節ならこの前の様な、うだる様な暑さの中で雑草を摘む様な事も無いだろう。


 そんな事を考えながら、いつの間にか外の郵便受けに入っていた新聞を手に取る。


 恐らくは、団員の誰かが自分の所に届けに来てくれたのだろう。


 仕事と言えばそれまでだが、こんな辺鄙な場所までご苦労な事だ。些か悪い気がしないでも無いが、自分の領分は任務と戦闘、そして作戦以外では余り愛嬌のある方じゃない。


 きっと、自分がこんな辺鄙な離れに住み着いてくれて、内心胸を撫で下ろしてる者も多く居る筈だ。


 ………正直、滅多に来客すらないこの生活は寂しく無いとは言い切れないが、皆の為には仕方無い。どのみち自分が他の団員と会って、他愛もない話をする事も無いのだから。


 郵便受けの前で立ったまま広げた新聞には、先日のコールリッジの作戦の事が書いてあった。あの巨人が如何に恐ろしい存在か、如何に強敵かが長々と説明されている。


 胸の中に苦いものが滲み出し、顔が険しくなった。


 やめろ。今思い出した所で、自分には何も出来る事は無い。


 報告書は提出した。対策が講じられ、次の作戦に抜擢されたらその時に全身全霊で戦えば良い。


 今、自分が苦悶し、後悔した所で何の役にも立たないのだから。


 カラスのトライバルが刻まれた懐中時計を取り出し、時間を確かめる。


 よし、天気も良い事だし花の水やりを終えて花壇を整えたら薪割りをしよう。


 その後に、自己鍛練をしても良いな。暑くもない、寒くもない。逆に言えば、汗を流すには絶好の気温でもあるのだから。


 そしてその後は食事の仕込みをしても良いな。どうせなら、思いっきり時間のかかる仕込みをしてみても良いかも知れない。






 来客の予定など、ある訳も無いのだから。

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