第66話
出来る事は無い。それだけは、間違いなかった。
日課の自己鍛練を終え、秋口の風を感じながら紅葉の中を歩いていた。
スクランブルエッグになりそうなあの猛暑も収まり、随分と心地よい風が吹く様になってきたものだ。
漸く、秋か。
黒羽の団の本拠地となるこの大陸、カラマック島の原生林には正直余り良い思い出は無いが、折角良い風が吹いており、天気も良い。
折角なら、季節の空気を感じたいのも事実だった。
煙草があればな。いや、あっても禁煙中か。
一日一本にした方が無理なく続くのでは無いだろうか、いや駄目だな。一本でも吸う理由が欲しいだけだ。理屈をこじつけているだけで、動機は禁煙とは真逆の発想だ。
そんな下らない事を考えながら、心地良い自然の中を歩いていく。
考えてみれば、禁煙した理由も昔の彼女が嫌煙家だったからだ。健康の為だと誤魔化してはいたが、結局は昔の女が忘れられずに続けているだけだ。
別れた恋人の写真や手紙が捨てられないのと同じだ、我ながら何と女々しい事か。
………駄目だな、考えが散って纏まらない。
折角良い天気だと言うのに、雨でも降っているかの様な気分だ。
気分が晴れない理由は、言うまでも無かった。
今、俺がイステルから奪い取った証拠と情報を元に、黒羽の団がイステルを破滅させる為に動いている。
端的に言って、その情報工作が上手く行かずイステルを破滅させる事が出来なければ俺は切り捨てられるだろう。
レガリスに最早居場所の無い俺がこの黒羽の団から切り捨てられると言う事は、殆ど処刑と同意語だと言って良い。
黒羽の団に取っては次も、次の作戦もあるだろう。だが、俺個人にはこの作戦が全てだ。
当面は猟用鳥として生かされるか、書き損じの書類の様に破り捨てられるか。
今後、俺が生きていけるかどうかの分水嶺だというのに当人の俺自身は、祈る事しか出来ない。
鮮やかに紅葉した広葉樹と、緑のままの針葉樹が調和している美しい自然の中を歩きながら、長く息を吐いた。
何度も考えた事だ。そして、何度も同じ結論を出した筈だ。俺に、今出来る事は無い。
日課の自己鍛練は終えた。後は精々、この美しい自然でも楽しむとしよう。数日後に処刑されるとしても、最後の数日を部屋で過ごすよりは自然を楽しんでから処刑された方がマシだ。
深く息を吸い込むと飾った庭園等には絶対にない、手付かずの自然特有の飾らない芳香が鼻腔を擽る。
血中成分のマナを精製した揮発性燃料、ディロジウムが発明され、その副産物として特殊不燃性ガスのジェリーガスが開発され、その二つから飛行船が建造される様になってから二世紀以上が経った。
最早人々は鋼と真鍮、銅と鉛、そして煉瓦と木材で練り上げた都市で生活する事が当たり前の時代だ。
その上、都心部の方ではディロジウム駆動の階差機関が自分の歯車で計算結果を算出し、それに従って稼働している。
噂によると最近は植物や土壌の仕組みを知らず、花弁に油を注いで“稼働”させようとする奴も居るには居るらしい。
浮遊大陸の自然に棲息する中型鳥類や空魚類、そして樹木や土壌の匂いを知らず“過去の遺物”として捉えている奴等も居るそうだ。
個人的には、自然から遠ざかってしまう所か“自然”という概念さえが失われようとしているのは、とても遺憾に思っていた。
土と空から生き物は始まった。鋼と鉛から人は生まれたりはしない。
勿論、空中都市を廃棄しろなんて事は言わない。だが………自然を完全に歴史から消し去ってしまって良いのだろうか。
植木鉢の中だけの植物や、農場だけの自然を“自然の全て”にしてしまって良いのだろうか。
切り出された木材が野から生えてくると思い込んでる様な連中を、果たして進歩していると言って良いのだろうか。
自然の中で樹木の太い幹に触れ、そんな考えばかりを巡らせていると、視界の端に緑がかった何かが音もなく入り込んでくる。
不意に視線を向けると、全身に黒の斑点を散りばめた様な色合いの空魚が、幹に触れている腕の袖の辺りまで俺を何一つ警戒しない様子で浮遊してきていた。
少し、面食らった。空魚か。
確かに空魚は大空や霧の中だけでなく森林や山岳等の自然にも棲息している、自分も勿論知らない訳では無かったが………まさか飼育すらしていない野生の空魚が、こんなに近くまで寄ってくるとは。
少し見つめていても、空魚の方はまるで警戒する様子が無い。
警戒心が薄いのか好奇心が強いのか、随分と近付いてくる空魚も居たものだ。
空魚。単に“魚”とも呼ばれる、鳥類と同じく太古から人類の歴史に刻み込まれてきた霧の中を揺蕩う魚類。
湖や池等の、水の中を泳ぐ魚類こと“水魚”も魚類の一つとして存在するらしいが、現代で魚と言われたら、自分含め殆どの人間がこの空魚を想像するだろう。
俺自身、水の中で生きる“水魚”を何度か見かける機会はあったのだが、息の出来ない水の中に居ながらも溺れずに、まるで水中昆虫かの様に涼しい顔で泳いでいる“魚”に随分と眼を丸くしたのを憶えている。
水の中に居なければ干からびて死んでしまう、そして陸地に上がれば泳ぐ事も出来ない。よくもまぁ、そんな不自由な生き物が今の今まで絶滅しなかったものだ。
現代でも、浮遊大陸の湖や池等にはかなりの数が棲息しているらしいが、個人的には近い内に絶滅するんじゃないかと心配している。余りにも、種として弱すぎる。
それに引き換え、空魚は鳥類に負けず劣らず、大空を縦横無尽に泳ぎ回っている。飛行船や気球を開発する前の人類は、さぞ苦労した事だろう。
鳥類の様な翼も持たず、昆虫類の様な翅も持たない空魚が何故空中を泳ぎ回れるのか、物理学者の間では空中都市の時代になっても研究が続けられていたらしいが、遂に一つの結論が出る事となった。
空魚のみが持つ“浮臓”と呼ばれる特定の臓器から、空力に作用しない浮力や推進力を生み出している、との事だ。
今度はその“浮力”はどうなっているのか、どう生まれているのか、という研究が今も行われているらしいが………何と言うか、研究熱心な事だ。
幹から手を離し、少し手を動かしてみるも空魚はまるで離れる様子が無い。それどころか、手を追って頭の向きを変える始末だ。
恐らくはこの原生林のどこか、それこそこの原生林、生い茂る枝葉の間にでも棲息しているのだろうが………今まで人を見た事が無いかの様な好奇心だ。幾ら原生林だとしても、黒羽の団の連中も原生林に踏み込んでいる筈なのだが。
ふと、空魚が顔で腕を突く様に押した。随分と好奇心の強い空魚も居たものだ。
そう、思っていた。空魚に服の袖を引っ張られるまでは。
空魚が服の袖に噛み付いて引き千切ろうとしている、そう気付いた瞬間に空魚を叩き落とす様にして振り払い、後ずさって距離を取った。
おかしい、この種の空魚は人から逃げこそすれ、人に噛み付く様な事は無かった筈だ。小型鳥類や小魚を捕食するならまだしも、人間に噛み付くなど聞いた事も無い。
叩き落とされたにも関わらず空魚は直ぐに体制を立て直し、逃げる素振りも見せず再び此方に顔を向けている。
何だ?服の生地を狙っているのか?いや、そんな訳は無い。季節か?狂暴になる時期か?いや、それも無いな。
そんな事を考えていると空魚が再び尾を翻し、再び俺に向かってきた。
あの空魚の歯がどれだけ鋭いのかはまだ未知数だが、小型空魚の中にも人の指を噛み千切る程に鋭い歯を持つ種類も居ると聞く。
先程、袖を咬まれた時は特に大事無かったがその類いだとしたら少し面倒だぞ。
動揺は未だに収まっていなかったが、それでも腰のリッパーの柄に手を掛ける。
怪我も面倒だが、それこそ指を噛み千切られたり今後の任務に支障が出る程の負傷を負わされでもすれば、面倒どころではない。
オオニワトリと戦った経験もある身としては一応の護身用に、と持ってきたリッパーをまさか小型空魚を相手に使うとは思わなかった。
いっそスパンデュールも持ってきた方が良かったか、と思ったが今考えても仕方ない。どのみち、この小型空魚にボルトを当てるよりは向かってきた所を斬り捨てる方が良い。
微かな風切り音。
横から聞こえた風切り音に、空魚を視界に収めたまま微かに意識を向けると、カラスが急降下する形で此方に迫ってきていた。
カラス?空魚に加えてカラスまで俺を狙うと言うのか?
そんな考えが直ぐ様浮かび、足を踏み直してカラスと空魚が視界内に収まる様に更に後ずさる。
が、そんな考えも直ぐ様霧散してしまった。
横合いから来たカラスが急降下の勢いのまま、目の前の空魚を横から連れ去ってしまったからだ。
空魚も鉤爪に掴まれたまま多少は抵抗していたものの、空中でカラスの嘴と鉤爪で引き裂かれた後、遂には地面に押さえ付けられ肉と皮を引き千切られた。
呆然とカラスを見つめていると、不意にカラスが足で空魚を押さえたまま此方を振り返る。
空魚の件もある、このカラスが俺に向かってくる可能性も無いとは言いきれない。このままカラスが俺に向かってくると言うなら、それこそ問題だ。
大きさから見た所、どうやらこのカラスはシマワタリガラスらしい。本気で俺を攻撃してくるなら、叩き落とせば済む空魚とは話が違ってくるだろう。
リッパーの柄に手をかけたまま身構える俺に対して、当のカラスは随分とのんびりした声で鳴いた。
何とも間延びした、気の抜ける様な、宥める様な声で鳴いた後、空魚の大半を掴んだままカラスは悠々と飛び立って行く。
カラス相手にリッパーの柄に手を掛けていた俺は、ただ一人取り残された形になった。
………俺は何をやってるのやら。
森に一人で入って、空魚に噛み付かれて、空魚相手に剣を握って。
かと思えば、剣すら抜いていないのに横からカラスに空魚を仕留められ。
最後には間延びした声で鳴かれて、飛び立って行くカラスを眺めているだけと来たものだ。
もしこの風景を見ている奴が居たとしたら、つい先週俺がレイヴンとして十数人を殺して手榴弾まで爆発させたなんて、絶対に信じないだろうな。
自然の花は飾らないからこそ、飾った花壇より美しいという言葉を聞いた事がある。
原生林、正に“飾らない”自然の中で俺はその言葉を噛み締める様にしながら、自然の中に咲く華に眼を留めていた。
花屋でもそれなりの値が付きそうな、立派で美しい青い華。
青い華はそれだけで珍しく価値があると言うが、まさか原生林の自然の中、こんなにも立派で美しい華に出会えるとは。
種類が分かる訳では無い。もしかしたら、俺が無学なだけで何一つ珍しい事では無いのかも知れない。
だが見物客が居る訳でも無い、研究者が観察する訳でも無い、画家が描く訳でも無いこんな自然の真っ只中に、こんなにも美しい華が誰に宣伝されるでもなく咲いている事に、飾らない自然の美麗さを感じずには居られなかった。
花屋が居れば持ち帰るのだろうか。高値を付ける為に持ち帰るだろうな。だが、断言しても良い。絶対に、持ち帰った華は今程美しく無いだろう。
飾らない自然に、誰に見られるでもなく咲いているからこそ、この華は美しいのだから。
立派な青い華に暫く眼を奪われていると、不意に影が諫める様に眼にかかる。
何をするでもなく辺りを見渡した。
どうやら、思った以上に森林浴を楽しんでいたらしく赤い夕暮れが原生林の高い木々の間から、眼を刺してくる。
森林浴も、切り上げ時か。
明日辺りにはいい加減、生かすにしろ殺すにしろ、進展があれば良いのだが。
もし明日、処分されるなら、最後に良い物が見られたと思う事にしよう。
きっと、処刑された後には誰かが俺の経歴を纏めるのだろうか。
“デイヴィッド・ブロウズ、浄化戦争で英雄になるも左遷された後に自主退役、後に抵抗軍“黒羽の団”に所属。だが、後に黒魔術を行使してレガリスを恐怖に陥れ、黒羽の団内部で処刑。最後の数日は、森で青い華を眺めて癒されていたという。”
………まぁ、歴史書の中で、偉人の傍に走り書きされる程度には面白い経歴だろう。
何もかも果たせずに浄化戦争で消えさっていくよりは、どれだけの汚名を着せられようとも、幾ばくか興味深い物を残せたと思うしかない。
もう少しだけ、この華を眺めてから帰るとしよう。帰った所でどうせ夕飯は一人で食べるだけだ。帰りが遅くなった所で、最早俺に文句を言う様な奴は居ない。
微かな、柔らかい風の音。
それに続く様に、肩から感触が伝わってくる。
何を考えるでもなく、木の葉でも払うぐらいのつもりで肩の方を見た。そして、呆気に取られてしまった。
肩から思い出した様に重さが伝わってくる。
重さを伝える俺の肩には、黒いカラスが毛繕いでもしそうな程に落ち着いた様子で留まっていた。
考える前に、言葉が出る。
「グリム?」
そんな言葉にもカラスはのんびりと周りを見回すだけで、何一つ慌てた様子も驚いた様子も無かった。
回っていなかった頭が、徐々に追い付いてくる。
グリムな訳が無い。グリムなら俺の問いかけに確実に言葉で返事をする筈だ。
加えて、グリムはヨミガラスだ。明らかに目の前のカラスはあの目測を疑う様な体格は無い。大型とは言え、恐らくはシマワタリガラスだろう。
そして、何よりも大きな問題。警戒心が強い野生のカラスが、餌すらもついていない人間の肩に留まる事は殆ど有り得ない。
怪訝な顔で眺めるも、当のカラスは何も気にせずのんびりと辺りを見回していた。
幾らか肩を動かしてみるが、身体を傾けて器用にバランスを取りながら平然と肩に留まり続けている。
なんだ、こいつは。
野生のシマワタリガラスの筈だが、まるで長年飼い慣らした様に落ち着いた様子で肩に留まり続けている。
攻撃してくる様な気配も無く、何かを此方に急かす様な事もない。俺の頭をつついて餌を催促する様な事もない。
俺が余りにも動かなかったから、止まり木と思ったという想定もかなり強引ながら出来る。だがそれなら俺が肩を動かした時に驚いて飛ぶなり威嚇するなり、何か反応を示す筈だ。
少しの躊躇の後に、カラスに自分の手を見せてみた。
当のカラスは不思議そうに見るだけで、何一つ攻撃する素振りは無い。指を噛もうとする様な事もない。
ただただ、俺の手を見ているだけだ。
………信じがたいが、どうやら好意的に受け取って貰えているらしい。しかし、野生のカラスがこんなにも初対面の人間に懐くなんてあり得るのか?
不意に左手が、微かに熱を持った。意識しないと分からない程度の微かな熱ではあったが、それでも確かに熱を持っている。
自分でも、目元が険しくなったのが分かった。
自分の前に止まり木の様に左腕を突きだし、合図する様に舌を幾度か鳴らす。
すると何一つ教育した訳でもなく、仕込んだ訳でも無いカラスが、直ぐに意図を読み取って肩から左腕に跳び移る。
腕に掴まったまま、応える様に低く鳴くカラスに「成る程な、全く」と言葉が漏れた。
考えてみれば空魚の時からそうだ。無理矢理に此方が捕まえようとして逃げるならまだしも、あの種の小型空魚が一匹だけで人間に向かってくる訳が無い。ましてや噛み付くなど論外と言っていい。
その上、懐く訳が無い野生のカラスが、呼んでも居ないのに肩に留まると来た。
少し舌を鳴らして呼んでみれば、教育した訳でも無いのに野生のカラスが意図を読み取って従う始末だ。
そして、左手の痣が微かに熱を持っている。余り考えたくないが、今出せる推論は一つだけだ。
胸の奥に、妙な冷たさが染み込んでくる。
「これもグロングスになった影響、って事か?」
カラスが肯定するかの如く、低く鳴いた。
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