第46話
煉瓦を擦る音がした。
足音。この地下独房への道程を歩く音が、微かな反響と共に伝わってくる。
聞こえてくる音に、眉を潜めた。缶詰の時間かと思ったが、体内時計から考えて断言は出来ないまでも、いつもとは恐らくタイミングが違う。
そして、人数。あの怯えきった哀れな看守は大抵、一人で現れる事が殆どだった。こんな危険人物を前に一人というのも、冷静に考えると少しおかしい気もするが。
聞こえてくる人数は少なくとも三人、一人はあの看守と仮定しても残りの二人は何者なのか。追加の看守ならば、このタイミングで看守が増える理由は?他の二人も武装しているならば、奴等は自らを防衛する、もしくは必要ならば俺を殺傷する可能性を考慮していると言う事になる。
恐らくは、ディロジウム銃砲、クランクライフルか。三人とも……いや、一人か二人は刀剣で武装している可能性もある。
僅かに、顔を上げた。
耳を澄ませる。足音は三人。だが、居るのは三人だけでは無い。煉瓦への足音の反響に僅かに違和感がある。
先程の三人を含めて少なくとも四人は居ると見るべきだ。誰か、気配と足音を抑えて歩いている者が居る。
他の三人の反響が無ければまず気付けなかった、おそらくは熟練者だ。習慣なのか、意図的な物か。何者にせよ、手練れである事は間違いない。
少し、眉を潜めた。
其ほどの熟練者が居るとなると、意味合いが変わってくる。牢屋に囚われている、鉄格子から発砲するだけで優位に立てるこの圧倒的不利な俺に、何故其ほどまでの手練れが必要なんだ?
………そうか。この痣。この痣の力で何が出来るのか、奴等は把握しきれていない。俺自身も。万が一、俺が鉄格子をすり抜ける様な事があれば、奴等の一方的な優位は無くなってしまう。そうなれば、あの看守の様な其処らの兵士では俺を止められる保証は無い。
だからこそ、“万が一”が必要なのだ。もし俺が想定以上の力でこの圧倒的不利を覆した時の為の保険が。
そして、そこから考えればこの訪問の意味合いも自ずと見えてくる。おそらくは、ここが分水嶺だ。首輪が付くのか、それとも、吊るされるのか。道具か、贄か。
しかし、足音の連中と実際に対面すると、呆然としてしまった。
そこに現れたのは武装した看守達では無く、看守に連れられた幹部三人だったからだ。
厳格な顔のアキム、見たこと無いほど険しい顔をしたクロヴィス、今にも噛み付かんばかりのヴィタリー。今回ばかりは、アキムもヴィタリーもいつもの様に味方はしてくれないだろう。
ライフルを握り締めたまま今にも震えそうな看守を、アキムが手で「外してくれ」と追い払うと看守が耐えきれんと言わんばかりに直ぐ様引っ込んだ。相変わらずの待遇ではあった。
「元気そうだな」
言葉の意味とは裏腹に、心底忌々しそうにヴィタリーがそう吐き捨てる。アキムとクロヴィスも今回ばかりはヴィタリーを諌める事も無く、鉄格子の間から此方を睨み付けたままだ。
「デイヴィッド。何の用件で来たかは、言うまでも無いな」
険しい顔のまま淡々とアキムが言う。よく見れば、アキムの動きから察するに何か腰に隠している。おそらくは、小口径のディロジウム拳銃か。鉄格子の向こうに居る事を考えれば、かなりの意味を持つ装備だ。
「……信用してもらえるかは分からないが、庭園の件で他意は無かったとは言っておく」
申し訳程度とは分かっていても一応意思表示はしておこう。砂粒程度だが、無いよりはマシだ。
「残念ながら、その証言を言葉通り捉える訳には行かない、デイヴィッド」
クロヴィスが此方を睨み付けたまま、淡々と言う。今まで見た事無い程に、その眼は鋭く冷たい。
どうやら、想像以上に俺の蝋燭は風前の灯火らしい。老いた猟犬を暖炉の傍で飼う、と前は考えていたがこの反応を見る限り、今回ばかりは余り期待できそうも無い。暖炉どころか、篝火にくべられるかも知れないなこれは。
「仮に他意が無かったとしても、だ」
ヴィタリーが歯軋りしそうな程に此方を睨み付けながら、呟く。
「あれだけの手品が出来る事を、今まで黙っていた事の説明はどうする?それも、自分の生き死にが懸かった作戦にも関わらず、だ」
少しばかり冷たい空気を吸った。審問は、始まっているらしい。奴等の中で天秤が傾けば、いや、“傾かなければ”俺に未来は無い。
「不確定な力だったんでな。俺自身も、あんな風に上手く行くとは思ってなかった」
「信じろと?」
クロヴィスが冷ややかに返す。天秤が揺れているのが伝わってくる、“どちら”に揺れているのかは生憎と分からないが。
「正直に答えた方が得策なんだろう?」
冷たい眼のままクロヴィスが息を吐いた。空気は冷たく、戦闘直前の様に張り詰めている。
「あの力は何処で手に入れた?」
アキムが鉛の様に重苦しい声で言う。先程の答えが正解だったかどうかも分からないまま次の質問が来る辺り、本格的に俺の処刑も考慮されてると見て間違いないだろう。
「……ある日、とんでもない頭痛と共に発現した。そうとしか言いようが無い」
「頭痛?」
怪訝な顔でアキムが返す。睨み付ける様な視線は変わらない、綱渡りの様な気分だ。
「頭痛だ。このまま千切れるかと思うぐらいのとんでもない頭痛だった」
「労働者が上司に言い訳する時に良く使う手だ」
ヴィタリーが呆れた様に言う。業腹ながら、その通りだと認めない訳には行かなかった。俺が逆の立場なら、まず間違いなく同じ事を考えただろう。実際に口に出すかどうかは別として。
「頭が痛くなって、気が付いたら手品が出来る様になっていた。お前の言い分はそういう事だな」
「あぁ」
少しの間をおいて、溜め息と共に同意を促す様な顔でヴィタリーが二人を見やる。
「もう、頃合いだろ」
何を指し示しているのかは、直ぐに分かった。分かりきった答えでもあった。その証拠に、アキムとクロヴィスの二人の眼が益々渋くなる。
天秤が、“まずい方”に傾いているのが手に取る様に伝わってきた。
「ヴィタリー、気持ちは分かるが些か……」
「早計だ、とでも言うつもりか?」
クロヴィスの言葉を、ヴィタリーがゆっくり丁寧に遮る。
「もう十分こいつは働いただろう、ここ最近の窮地を考えればここまで持ち直しただけでも十分な成果だ」
アキムが何か言おうとして、口を固く結んだ。その表情は、余りにも苦い。
「認めるさ、こいつが来るまで黒羽の団は窮地に追い込まれていた。それこそ、俺達でさえ先細りだと悲観していたぐらいだ」
淡々と、書類を読む様にヴィタリーが言葉を繋げていく。天秤が、傾いていく。
「そこにこいつが表れて、帝国に詳しく腕が立つからという理由で、仲間無しで一人で忍び込んで、一人で標的の排除と情報の奪取、直接支援無しでその後一人で帰ってこいなんて、酒が抜けてないまま考えた様な仕事を押し付けた。正直帰ってくるかどうかは、良く見て五分五分って所だと思ってたよ」
反論出来ないのか、それとも何か思う事があるのか。クロヴィスが僅かに俯き、眼を伏せる。仕草の所々に申し訳なさが見えない事も無い。一方アキムは、先程から口元を固く結んだまま、険しい顔を続けている。
アキムの中で“天秤”が、どう揺れているのかはその眼からは読み取れない。
「奇跡が起きたのか、それとも人生の運を全部使いきったのかは知らないが、こいつはそれでも帰ってきた。個人的には気に入らなかったが、勿論組織としては文句無しの結末だ」
ヴィタリーが皮肉気味な笑みと共に此方を見る。最も、表情と裏腹に眼は全く笑っていないが。
「そこで終わっていれば、な」
此方を見据える笑っていない眼に対して、此方も淡々と睨み返す。どのみち、愛嬌で助かる段階はとうに過ぎている。媚びる様な事をすれば火に油を注ぐだけだ。
「………役に立つからと言って、次も役に立つかと使ってみれば、このザマだ」
遂に、眼だけでなく表情までもが牙を剥くかの様に険しくなる。
「同じく、次も飲んだくれから聞き出した様な仕事をさせた。解れたワイヤーで飛行船から綱渡りさせる様な、そんな仕事さ。まぁ所詮は余所者だ、敵ごと墓穴に引っ張り込んでくたばってくれるなら、俺だって文句は無かった」
ヴィタリーが、吠える。
「だが最後の最後、庭園のど真ん中で、お前はとんでもない魔術をかましやがった!!お前らの聖母テネジアが真っ青になって腰を抜かす様なやつを!!」
いつもは諌める役のアキムとクロヴィスも、唇を引き結んだまま此方を睨み付けたままだ。
「その上、お前が悪夢みたいな魔術で生き延びたお陰でレイヴンは邪神グロングスを信仰する邪教徒呼ばわりだ!!!お陰でレガリスのラグラス人は今や見掛けただけで蹴飛ばされる始末ときた、カラスで人を襲わせる邪教徒の手先だってな!!!」
鉄格子の向こうからでさえ掴みかからんばかりの勢いで、俺に詰め寄るヴィタリーの表情は正しく憤怒と言う他無かった。
邪神グロングス。レガリスでは教徒と判明すれば即刻、処罰及び改宗対象とされる所謂“邪神”だ。
古来からバラクシアに伝わる不幸や惨劇、憎悪を司るとされる“奴隷が主人を呪い殺す為の宗教”や“世界に破滅を呼ぶ悪魔の宗教”なんて呼ばれている、世界の諸悪の根源。
ラグラス人というだけで、この“邪神教”を信仰しているという偏見や差別がレガリスには蔓延していたが…………よりによって、俺がその偏見や差別を最悪の形で証明してしまった訳だ。
「決まりだ」
自身を落ち着ける様な深呼吸の後、ヴィタリーが吐き捨てる様に言う。
「アキム、明日にでも略式軍法会議でも起こして片付けよう。こいつは信用出来ない、何より次は何をしでかすか分からん。このカラマック島までカラスの餌場にされるぞ」
「一つ聞かせてくれ、デイヴィッド」
荒れ狂うヴィタリーを他所に、淡々とアキムが聞く。ヴィタリーが苦い顔でアキムを睨み付けるも、アキムは目線すら向けない。
「その………“力”とでも呼ぼうか。その力はコントロール出来るのか?」
ヴィタリーが呆れた様な溜め息を吐き、クロヴィスが怪訝な顔で眉を上げた。
「……今の所は、制御出来ている。少なくとも勝手に暴発したりと言う事は無い、不明な部分が殆どだが、今の所は大丈夫だ」
「“大丈夫”?」
「ヴィタリー」
直ぐ様噛みつくヴィタリーを、クロヴィスが隣から肩に手をやって宥める。
顎に手をやりながら、アキムが暫く此方を眺めていた。農場のヤギでも値踏みする様な視線で暫く此方を眺めた後、またも口を開く。
「私達に対する忠誠は変わらないんだな?」
天秤が、揺れているのが分かる。少なくとも“良い方向”に傾こうとしているのは間違いない。
「他意は無かった、最初に言ったとは思うが。あくまでも俺はあの状況で任務を遂行し、生きて帰る事を考えていただけだ」
そう返すと、アキムは僅かに鼻を鳴らしてまたも考え込んでしまった。肉と毛皮にされるか、また荷車を引かせるかで悩まれている鹿の気分だ。
飼い主の指差し一つで己の命運が決まると言うのは、思った以上に恐ろしい。
「……報告によれば、君は急に弾け飛ぶ様に駆けたり、カラスを生み出したりする事が出来るそうだが、その力は自分の意思で行使できるのか?」
クロヴィスが怪訝な顔で問い掛けてくる。首輪を、用意している。吊るす縄と捌く刃ではなく。
呆れた様な呻き声を出しながらヴィタリーが他所を向き、二人に向き直った。
「お前ら本気か?これだけ信用出来ない事をやらかして、ラグラス人を邪教徒呼ばわりさせたこいつに、またチャンスを与えるのか?何回チャンスを与えるつもりなんだ?俺達皆が墓場に入るまでか?」
呆れた様にも憤っている様にも見える様子でぼやくヴィタリーに、相も変わらず厳格な声でアキムが返す。
「デイヴィッドは確かに我々に隠し事をしていた、またその妙な“力”で自身の窮地を切り抜けた事も、信用出来ない節があるのも事実だ」
「なら尚更!!」
「だが、その結果、不可能とも思える仕事を切り抜けたのも事実だ。私が実質主義な事はお前も知っているだろう?現に、デイヴィッドは単独であのパーティに乗り込み、ディオニシオの首を切り飛ばし、その上で手傷を負った程度の負傷で帰ってきた。同じ事を出来るレイヴンが何れ程居る?」
「生かすのか?」
呆れ返るヴィタリーを余所に、クロヴィスがそう言いながら此方に一瞬目を向け、再びアキムに向き直る。アキムが先程と一切変わらない様子で口を開く。
「確かに信用出来ない部分がある事は否めないが、少なくとも事実として彼は此方の不利益になる事は何一つしていない。評判がどう傾くかは、これから様子を見なければならないだろうがな」
誰も、何も言わなかった。染み込む様な、冷え込む様な静寂がただただあるだけだった。
静寂が続くにつれて命綱が解れていく様な不安が膨れ上がっていくが、ここで何か下手を打てばそれこそ解れていた命綱が千切れる羽目になるかも知れない。
ヴィタリーは暫く此方を睨み付けていたし、クロヴィスはアキムの結論に従うつもりらしく、何も言わずアキムの方を見つめている。当のアキムは顎に手をやりながら考え込んでいる。
命綱が揺れている最中の自分からすれば、とてつもなく永く感じる静寂の後、静かにアキムが口を開いた。
「一つ、約束して貰おう」
此方の命綱が切れなかったのを察したらしくヴィタリーが、不機嫌そうな声を漏らしつつ顔を背ける。
「その“力”については、今後は変化や気付きがあれば逐一報告するんだ。何なら夜中に叩き起こしても構わん、必ず、必ず報告するんだ」
「生かすんだな?」
クロヴィスが確かめる様に、ゆっくり呟いた。そんなクロヴィスに、アキムが肯定を示す視線を僅かに向けて再び此方に向き直る。
「デイヴィッド、はっきり言うが、今後は君の“力”も作戦に組み込んで考えさせてもらう。それだけの能力があるなら、今まで以上に作戦の幅も広がる筈だからな」
先程以上に物々しい語気と鋭い眼で、アキムが続ける。
「それとこう言っては何だが、君には今後も今回の様な博打染みた作戦を遂行してもらう事になる。薄情に聞こえるだろうが、君も気遣われる為に黒羽の団に来た訳じゃ無い筈だ」
畜生、やはりそうなるか。内心苦い顔をしながらも「ああ、勿論」と返す。
前回のディオニシオの様な無茶苦茶な作戦を、今後も何度もやらされるって事か?あんな一か八かの綱渡りを繰り返していたら、残り少ない運がすぐに底をついてしまう。俺だってあの力を十全に使いこなせる訳では無いと言うのに。だが何にせよ、今は生き残る事が先決だ。
「感謝するよ」
感謝の表情をしたつもりだったが、周りの表情は何一つ変わらない。
「感謝するのは自由だが、助けられた理由が温情では無い事をよく考える事だ」
そう言い残し、その言葉を染み込ませる様な間の後、アキムがまずその場を去った。鉄格子さえ無ければと言わんばかりの表情でヴィタリーが鉄格子に掴みかかるが、心底腹立たしいと言わんばかりの表情で睨み付けた後、意外にも捨て台詞すら吐かずに離れていった。
「数日もしたらこの地下牢から出られる様に手配しておこう」
アキムとヴィタリーが去り、最後に残っていたクロヴィスが、声を落とし独り言の様に囁いた。その表情は、此方の境遇に同情している様に見えなくも無い。
「俺はいつまで生きていられるんだ?」
同じくらいの小声で返すと、クロヴィスが先程の険しい表情からは想像出来ない様な、困った顔で呟く。
「取り敢えず、役に立つ限りは。今回だってこの地下牢に入る時でさえ、アキムは君を始末するかどうか決めあぐねていたんだぞ?正直今も君が生きているのが信じられないよ」
想像以上の綱渡りだったらしい、あんな博打をやった後にまだ俺にそれ程の運が残っていたとは。
自分の運に感心していると、クロヴィスが少しばかり頬を掻いて、気まずそうに切り出した。
「…………一応、共に飲んだ仲として忠告しておくが、君の立場はこれから相当複雑な物になる。勿論分かっているとは思うがね」
「以前みたいな、暖かい歓迎は期待出来そうにないな。まさかもっと悪い待遇になるなんて考えもしなかった」
「デイヴ、控えめに言っても君はこれから暫くは“黒魔術を使う得体の知れない元帝国軍”として見られる事になる。ついでに言えば………」
クロヴィスが苦い顔のまま言おうとする先を、此方が引き継ぐ。
「評判は悪くなりこそすれ、良くなる事は殆どあり得ない」
そんな俺の言葉を、クロヴィスが肩をすくめて肯定する。申し訳無さ混じりに見えなくも無いが、何の慰めにもならない。
「直に分かる事だろうし、言わせてもらうが………これから、その“力”についてとやかく聞かれるだろう。いくら君が分からないと言っても、しつこく聞かれるのは間違いないし、腹の立つ扱いもされる筈だ。だが、任務に役立つ事なら、それが帝国軍さえ出し抜く様な力なら尚更、アキムは容赦なく君から力を引き出して戦わせるだろう。“ここでカラスを呼び出して敵を撹乱しろ”という具合にね」
溜め息混じりの呻き声が漏れた。分かってはいたが、やはり想像以上に状況は悪い。何とか首輪付きで生き延びたのは間違いないが、その鎖の先は何処に繋がっているのやら。
「……まぁ良い、生きていられるだけ感謝するさ。元々はお前らも知ってる通り、帝国軍相手に指の一本、血の一滴まで捧げるつもりでいたからな。鉄格子に閉じ込められて“念の為”で処刑されかけるのは想定外だったが」
自分でも分かるほどに皮肉も冴えがない。脳髄と腹の底に鉛が巻き付いた様に気分も重い。
身体も重いのは間違いなく疲れだろう。屋上から飛び移るより遥かに危険な綱渡りをたった今やってのけたのだから。しかもそれだけの事をやり遂げたのにこんな気分と境遇と来たものだ。
クロヴィスが疲れた様な溜め息の後、腰に手をやって改めて口を開く。
「こんな目に合わせておいてこんな事を言うのも妙な話だが………数日すれば開放はされる筈だ。白々しい言い方だが、生きていられる事は決まったのだからその、なんだ。ゆっくり休んでほしい」
「そうさせてもらうよ、この部屋は眺めも最高だしな」
個室には間違いないし、ルームサービスも完備、煤けた煉瓦作りの壁という名画が見られる上にカウンセリング付きだからな。
「今の所はまだ具体的な目標は決まってないが、行動の早いアキムの事だ。口に出さないだけで、もう次の目標は目星が付いている筈だ。君が関わるかどうかはまた別の話だろうが」
俺の処遇に頭を悩ませる一方、どうやら同時に次の標的を決めている最中らしい。仕事といえばそれまでだが、頭が下がる思いだ。文字通り、団の存続と現政権の打倒を一番に考えているのだろう。
「お前の見立ては?」
「何とも言えん。だが一つ言えるのは、折角君を生かす事にしたのだからまず間違いなく、君を切り捨てた後のこれまでの兵力ではなく、君の“力”を組み込んだ作戦として前より無茶な作戦を提案してくる筈だ。そして言うまでもなく………」
「どれだけ無茶な話でも断る事は出来ない、か。夢見の良い話をどうも、よく眠れそうだよ。全く」
クロヴィスが苦笑いを零す。恐らくは、精一杯の慰めなのだろう。向こうの立場からすれば今話し合ってるこの会話さえも、相当譲歩しているのは想像に難くない。本来なら、俺を猟犬の様に扱う事も勿論出来た筈だし、自分もそうなるものと思っていた。だが、言うまでもなく俺が楽になるわけではない。
「そろそろ私は行くよ。私が言えた義理では無いが…………どうか幸運を、デイヴ」
「生憎さっき使い切ったよ、知ってるだろ?」
そんな言葉をクロヴィスの背中に投げるも、とうとう振り返りすらしなかった。まぁ当然と言えば当然の反応だ、俺もきっと同じ立場なら同じ事をしたかもしれない。
粗末なランタンに照らされた、煉瓦造りの“名画”を鉄格子越しに眺めながら、深く、深く溜め息を吐く。自分で言っといてなんだが、本当に寝付きの悪い話だ。
これからは、確実に面倒な事になるのは間違いない。
簡単に言えば、今回の件は『殺すのは勘弁してやるが、その代わり“死ぬほど危険”な事や文字通り“死んだほうがマシ”な仕事をこれからやってもらう』と言われた様なものだ。素直に処刑された方がもしかしたら幸せだったかもしれない。勿論、処刑の方法にもよるが。
左手の痣を、静かに擦る。あの力。俺がこんな状況に追い込まれたそもそもの元凶。だが、この力が無ければ、確実に俺はあの庭園で死んでいただろう。少なくとも五体満足、とは行かなかった筈だ。
あの不気味な夢で見たあの梟も、謎ばかりだ。悪夢だと思いこんでいたあの夢も、ただの疲れた夢で無いと分かった。そして、益々疑問が募る。
あの世界は何なんだ?この力はあの世界に関係ある物なのか?何故あの世界は、そしてあの梟は俺を選んだ?この力は何か代償を求める様なものなのか?もしそうなら、この力は何を引き換えにするものなんだ?
悪夢の度に語りかけてくる、あの梟。人智を超えた存在である事は、説明されるまでもなく空気と肌で理解している。だが、目的は何一つ分からない。
ただの悪夢で無い事を裏付ける様に、あの梟の夢だけは、日頃の夢の様に微睡みに溶けて曖昧に綻んで行く様な事も無く、実際に訪れた場所の様に鮮明に脳に焼き付いている。
「…………………虚無」
思わず唇から零れた単語に、顎に手を当てる。そうだ、あの梟は確かに言った。あの薄暗い夢の中で「虚無に馴染んだか」と。あの場所が虚無だというのか?あの祭壇の様にも玉座の様にも見える、あの薄気味悪い場所が、“虚無”だと言うのか?
俺は生憎と神学者でも哲学者でも無いが、そういった神様がどうの、歩いて辿り着けない世界がどうの、と物好き達が話しているのを耳に挟んだ事はある。
眠気を誘う話題だったから余り鮮明には覚えていないが、虚無とやらの話は知っている。
遥か古代からあるものだとも、一人一人の中に存在するものだとも言っていた。後、何やら細々した、下らない事も。
だが、ああいう輩は大抵、神話がどうだの神様がどうだの、聖女の言葉はどうだっただの、そこは三文字じゃなくて聖書では四文字だっただの、先月の天気より無意味な論議に人生を捧げる様な奴らだ。話の殆どは聞き流す以上の価値は無い。
だが、そんな奴らが議論している“虚無”とやらがもし、深酒の世迷い言でも、夢現の寝言でもなく、実在するなら?あんな熱心な信仰者共を差し置いて、無神論者で人殺しのこの俺がその虚無とやらに辿り着いてしまったのだとしたら?
顎にやっていた左手を離し、痣を眺める。そして僅かに、“何か”を意識して左手を握りしめると、型を取った様に鮮明な、入れ墨の様にさえ見える痣が、またもや微かに蒼白く発光し始める。
疑問や疑念が雨の様に頭の中に降り注いでいたが、ある疑念が頭一つ飛び出して広がっていく。
あの梟は、俺に何をしろと言うんだ?
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