第34話

 酷く気分が悪い。







 最近何かと夢見が悪い、それも訳の分からない夢ばかり見る。


 真水で顔を洗い、僅かばかり気分が晴れたがそれでも鉛を詰め込まれた様な気分の重さは変わらない。


 ああ、煙草が恋しい。こんな時ばかりは、禁煙の意志が揺らぎそうになる。まぁ、俺が禁煙を始めた理由となった女はもう、他の男の腕の中に居るのだが。我ながら女々しい話だ、いよいよもって長生き出来るか怪しくなってきた今、昔の女の為に禁煙など続ける意味は無いというのに。


 最近益々多くなってきた溜め息を再び吐きながら、頭の中で今日の予定を再確認した。


 大してやる事は多くない、基本的な予定は体力維持の自己鍛練と食事の時間帯ぐらいだ。その上、食事と言っても食堂に行く訳じゃなく、階級の低そうな団員の一人が持ってくる食事を黙々と食べるだけだ。


 最初は食堂に行く事も予定にあったが、数日でその考えを改めた。確かに食堂には大きな鍋料理があったり和気あいあいとした活気もあったりと、雰囲気はとても良かったのだがそれも自分が食堂に入るまでの話だ。


 自分が食堂に入った途端、先程までの和気あいあいとした空気は成りを潜め、陰口の様な小声が四方八方から聞こえてくるのだ。それも、疎ましそうな視線が身体中に刺さるのではとても食事がどうと言っていられない。


 数日もすればすっかり食堂が嫌いになってしまった。それからは、持ってくる食事を平らげて足りなければ食糧庫から好きなものを漁れ、と言った具合だ。まぁ、好きなものを、とは言っても大半が保存食の缶詰や瓶詰めなのだが。


 まぁ、ルームサービスだと思えばどうという事は無い。外にも出れる、好きにしていい。周りの刺さるような目線を別にすればこの厚待遇には不満も無い。


 一通り自重力で自己鍛練を終えた後、気晴らしに出掛ける事にした。


 暫く歩いて居住区を抜け、原生林に足を踏み入れる。レガリスに居た頃から、レガリス内の自然公園に足を運んだりクラウドラインで近場の浮遊大陸に移動し、自然に触れる事はあった。その頃から、森林浴は好きだった。


 伸びをしながら胸一杯に深呼吸する。森林はやはり空気が澄んでいる、とても気分が良い。あんまり奥まで行かなければこの前の様にオオニワトリに襲われる事も、そうそう無いだろう。


 やはり自然は良い。身体も頭も軽くなった気がする。今だけは、何もかも忘れられる様な気さえした。人々はもっと森林浴の素晴らしさを知るべきなんじゃないか、と度々思う。


 あんなにも妙な夢に魘されるのも、やはり精神的な疲労が原因なのだろう。肉体的な疲労は十分回復したのだから、やはり次は精神的な回復が必要だ。


 そんな中、何故かふとあの梟の夢を思い出した。


 誰に愚痴る訳でもなく、一人渋い顔をする。何でよりによってこんな時にあの夢を思い出すのやら、全く。


 嫌な夢なんて忘れて森林浴を楽しもうとするも、どうやってもしつこく頭の中で梟が現れる。勘弁してくれ、たまには心休まる時があっても良いじゃないか。


 段々と頭の中で大きくなる梟に、胸中で悪態を吐いた。最悪だ、いい加減にしてくれ。





“それ”は余りに唐突だった。





 何かが引き千切れる様な音と共に、捻り切れそうな程の頭痛が脳で弾ける。


 森に響く様なうめき声と共に、思わず頭を抑えながら地面に膝を着いた。神経を鑢で削り取る様な激痛、火花が散りそうな視界。このまま頭が弾けて其処らに頭蓋の破片と脳味噌を撒き散らすのでは無いか。そんな馬鹿らしい妄想が、軋む意識の片隅を突き抜けて行く。


 何分経ったのか。何時間も経った様な気がする。いや、本当は一分も無かったのかも知れない。だが、仮に十数秒だったとしても人生で最も長い十数秒だっただろう。それだけは命を賭けても良い程に断言出来る。


 漸く収まった頭痛に玉の様な汗を滴らせながら、うずくまっていた地面から頭を離して、手の甲で砂の混じった土を拭う。


 頬を拭った手の甲を、更に片手で払う。一体どうしてしまったのだろうか。 何の病気にでもなったのだろうか?ストレスが原因か?英雄を降ろされてからの四年という歳月は、そこまで俺の魂を腐らせてしまったのか?


 しかし、そんな後ろ向きな思考は、直ぐ様萎えてしまった。理由は、払ったばかりの手の甲にあった。


 痣。いや、むしろ痣と呼んでいいのか分からない程に鮮明に、鳥類の翼らしきものがトライバル方式で象られている。


 最早、刺青と言った方が正しいのかも知れない。それほどまでに、鮮明な痣。


 言葉が出なかった。心当たりなど勿論、無い。


 目の前に左手の甲をかざす。訳が分からなかった。理由が分からない激しい頭痛に、身に覚えの無い刺青の様な痣。レガリスに居たら、その足で医者にかかっていただろう。


 思考が纏まらない。途方もない考えが浮かんでは消える。何がどうなっているんだ?この痣は?あの頭痛は何だ?気付かない内に誰かに付けられたのか?いつ?どうやって?間違いなく、今朝は無かった筈だ。


 ふと、目を瞬く。そして、手で擦った。


 眼がおかしい。何やら、視界が青っぽい気がする。突然の事だらけで痺れた意識で、ぼんやりと思考する。


 そして何やら、頭蓋の奥、脳の奥深くで、何かが千切れようとしている。何故か、そんな感覚があった。


 先程と違い、あの地獄の底が見えそうな頭痛の気配は無い。片手で眉間を押さえる。


 何かが千切れようと、いや、繋がろうとしていた。


 眼球が、“何か”に切り替わった。


 眼を開き、その眼球から見える光景のあまりの異様さに、再び眼を擦る。


 しかし、幻覚ではない。そして“これ”は身体や眼球の異常では無い。根拠もなく、理由もなく、ただただ確信した。


 蒼い。様々な物が、風が、空気が、全てが蒼白い光の濃淡によって縁取られていた。その風景は世界をより鮮明に、それ以上に奇妙に魅せた。


 辺りを見渡す。蒼い光に染め上げられた視界は、今までの視界に劣らず、むしろより鮮明に見える気さえする。


 流れが、見える。空気の流れだろうか、それとも別の何かだろうか?揺蕩う霞の様にも、絹の様にも見える。手を伸ばすと、目の前を漂っていた霞の様なそれは、指の間をすり抜けて散っていってしまった。


 思わず目元を強く押さえる。そして、再び瞼を上げると世界は元に戻っていた。


 溢れ出す疑問に、首を捻る。今のは何だ?何が見えていたんだ?


 幾らか眼を擦ったが、あの蒼白い世界は戻ってこない。眼球の異常か?それとも、精神の異常か?


 だが、無根拠のまま、何故か安堵にも似た確信があった。今見えていた視界は、異常な、病的な物ではない。眼を見えなくする、眼球を曇らせる様な類いの物ではない。そんな確信が、他意を感じる程不自然に胸中に染み渡っていく。


 勿論、精神病で錯乱している可能性も大いにあるが、今更だろう。


 ふと、左手の痣に目をやった。そう言えば、この痣の事を忘れていた。あれだけの衝撃と共にこの痣は現れたというのに。


 少し、考えた。


 この痣と、先程の蒼い世界は何か関係しているんじゃないだろうか?


 あの頭痛に痣、そしてあの何かを捉えた世界。あの“繋がる”感覚から見ても無関係と言うには、この痣のタイミングは余りに出来すぎだ。


 目の前に左手をかざし、眼球と左手に意識を注ぎ込む。普段の俺からは考えられない行動だ、端から見れば頭のおかしい奴か、妙な儀式を行う狂信者にしか見えないだろう。


 だが、それは何も起きなかったらの話だ。目の前が冗談でも酔狂でも無く蒼く染まったりすれば、奇妙な儀式だって行う理屈には十分なる。


 そんな時、ふと左手の痣から淡い、あの蒼白い光が零れ始めた。


 そんな、日頃では到底考えられない様な非現実的な光景に驚くでも無く怯えるでも無く、奇妙な確信と共に意識を更に手に注ぎ込んでいく。そして、あの何かが繋がろうとしている感覚が脳で閃く。


 一際強く集中したその次の瞬間、目の前にはあの蒼白い世界が広がっていた。


 見える。はっきりと、あの全てが蒼い世界が見える。


 蒼く染められたままの世界を再び見渡す。酔狂としか言えないあの感覚は、やはり間違っていなかったらしい。


 そして、蒼い視界を眺めている内に件の痣が淡い光を発しながら、僅かに熱を持っている事に気付いた。


 熱は冷める気配は無く、まるで手の甲を暖炉で緩やかに暖めている様な、そんな感覚だ。


 痣を意識から外し、目を閉じて息を落ち着ける。今度は、蒼白い世界ではなくいつもの色鮮やかな見慣れた世界を意識しながら。眼を閉じたまま、揉み消す様に左手を軽く振る。少しすると痣の熱が徐々に冷め、何も無かったかの様に、熱も何も無いいつもの左手に戻る。


 眼を見開いた。いつもの、色鮮やかな視界がそこにはあった。静かに、研ぎ澄ます様に息を吐き、再び意識を眼と左手の痣に集中させる。


 眉間に皺を寄せ、 少しして眼を見開く。ほんの数秒で、視界は再び蒼く染め上げられた。


 言うまでもなく、不思議な感覚だった。まるでお伽噺の様に、奇妙な魔法でも見ている気分だ。


 蒼白く、明瞭に染め上げられた世界を見渡す。勿論、心当たりなどあるはずも無く、不思議な充足感と共に木々を眺め、草木を踏み締める。


 そして、 眼前を揺蕩う霞の様なものに視線が吸い寄せられた。


 そう言えば、この微かに見えるこれは、一体何なんだ?掴もうとしても、指の間から触れる前からすり抜けて散ってしまう。


 手を振っても、その動きに合わせて散って消えてしまうだけ。本当にただの空気か何かなのか?空気が視覚として見えるのも、十分に奇妙なのは言うまでも無いが。


 少しして、未だに暖炉にかざしているが如く仄かに熱を持っている、左手の痣に目を留めた。


 本当に、ただの思い付きだった。不意にその霞の様なものに手をかざし、蒼白い世界が見えた時の様に、左手の痣に意識を集中させながら、握り締める。


 痣が、再び光を放っている。それも、先程の“眼”の時より遥かに強く。


 握った手には何もない。だが、確かに“何か”を握っている確信があった。


 それを強く、自らに手繰り寄せる。





 打ち出された。それ以外のどんな言葉も思い付かなかった。





 地面は瞬く間に消え、信じられない速度の風が後ろへ抜けていく。視界は目の前の一点に集束し、視界の端が何処かへ流れていく。


 少しの間離れていた地面が、急に足を捉えた。急に足を捉えられたせいで地面を砂埃を上げながら転がる。


 咳き込みながら、膝を着いて顔を上げた。


 自分に起きた事を理解するまで、暫くかかった。焼ける様に熱い左手を振りながら、背後を振り返る。


 先程自分が立っていた位置から、少なくとも25フィートは離れていた。それも、自分が最初に足を捉えられた位置が、だ。そこまで、自分は一度も足を付かず、一直線に、恐らくは放物線にすらならずに跳んだと言う訳だ。


 何が起きたのかは分からない。猛烈な頭痛に、蒼く染まる世界。その上、謎だらけの奇妙な痣。更には打ち出される様な高速移動。次から次に起こる問題で俺の狭い脳味噌は直ぐ様、ついていけなくなった。これがどういう理屈なのかすらさっぱり分からない。


 だが、はっきりと分かった事がある。今、この手にある“何か”は、人智を越えた物である事。そして恐らく、いや間違いなく、この“何か”は人を歪めてしまう物だという事。


 ただ一人、左手を振りながら茫然と呟いた。









 「何てこった、全く」

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