第33話 記憶を求めて


     /真斗


 今日はとうとう目覚ましが鳴らなくなった。

 針はしっかりと動いているところを見ると、その程度にはまだ電池は残っているらしい。


 まあおかげさまで、授業には完全に遅刻してしまいそうだが。


「まあ……いいか」


 俺は布団の中で、ぼんやりとした頭のままつぶやいた。

 授業、か。行った方がいいんだろうけど、今日はどうにも行く気になれない。


 寝過ごしたばかりが原因でないことくらい、分かっている。

 俺はもぞもぞと布団から這い出すと、適当に服を着替え、外へと出た。


     ◇


 一つ息を吐くと、とたんに視界が白くなる。

 今日の朝はかなり冷え込んだせいか、昼近くになってもまだ寒い。


 俺は何をするでもなく、近くの公園のベンチに座って呆けたように景色を眺めていた。

 もし昨夜のことが無ければ、今朝には茜と一緒にあいつの所に行くはずだった。


 ずいぶんと厄介な頼み事をされて、引き受けてしまって……それが何とかなるかもしれないと思った矢先の出来事。それが昨夜のこと。


 実はあいつがここ連日の殺人犯で、しかも俺が追っていた奴だった。

 そしてアトラ・ハシースの茜までもが追っていた異端種。


 あいつは俺を殺そうとしていて、俺はあいつに刻印を刻み付けて――だからこそあいつは、また俺の前に現れた。


 けど俺にとってはそれが初めての出会い。

 それ以降のあいつしか、知らないのだ。

 とてもじゃないが、信じられはしない。


 信じられはしないが、状況証拠はあいつの正体を裏付けてしまっている。

 否定できる根拠といえば、当事者である俺が何も覚えていないことだけ……。


「――やはり、記憶は必要だったのか」


 その声は。

 不意に背後からした。


 怪訝に見返した俺の目に映ったのは、ずいぶん小柄な少女だった。

 歳は十歳前後だろうか。


 ぱっと見た感じでは幼い顔も、よくよく見ればひどく冷めていて、大人びている。

 そして自分の身長一杯に伸ばした髪は銀色で、瞳は見たことのないような紅い色に染まっていた。


 あまりにも、異彩を放つ少女。

 そいつが、俺を見つめていた。


「…………?」


 眉をひそめる俺を、そいつは硝子玉のような瞳で見続ける。


 なんだこいつ……?


 その容姿に驚きはしたものの、それ以上に気になったのは、ほんの今そいつが言った言葉。


 記憶。


 確かにそう言った。

 俺がそのことについて考えていた、まさにその時に。

 再び、その少女が口を開く。


「……もし望むのなら、あの時の記憶を返してもよい。それが自然である以上は」

「おい……ちょっと待てって!」


 俺は思わずベンチから立ち上がり、そいつを凝視する。


「お前一体何の話をしてるんだ? まさか――」

「四日前の、夜のことだ」


 あっさりと、そいつは頷いた。

 俺の動揺などまったく意に介した様子も無く、無表情のまま。


「そなたが思い悩んでいるのは、その日の記憶のことであろう? それを思い出せないがゆえに、そなたは進むべき道を決めかねている」


 こいつ。

 いや……待てよ……?


「お前……どこかで見たことあるような気がするぞ。そんな目立つ目やら髪やらして……」


 何となく――何となくではあるが、俺はこいつを見たことがあるような気がする。

 わりと最近のはずだが。


「……そうか」


 俺よりも先に、そいつの方が納得したように頷いてしまう。


「そなたを復元したあとの記憶だろう。意識があったのだな」


 復元……?


 そいつが何を言っているかは分からなかったけど、とりあえず少しでも思い出そうと俺は自分の頭を精一杯働かせた。


 相手だけ納得して、俺だけ分からないというのは何か癪だし、何より喉元まで出かかっているようなもどかしさを何とかしてしまいたい。


 何度か俺は首を捻って考え、やがてぼんやりと……記憶が戻ってくる。


「夢……だったような気がするぞ……。ちょっと前に見た」


 確かあの朝のことだ。身体の調子がおかしかった、あの日。あの時に見た夢に、こいつがいたような気がする。


「恐らく夢ではなく、実際に私を見た際の記憶だろう」

「……それっていつだ?」

「そなたが持っていない記憶の、すぐ後のことだ。だから、思い出すことができた」


 持っていない……?

 少しひっかかる、妙な言い方。


「どういうことだよ? 持っていないっていうのは」

「そなたがいくら思い出そうとしたところで、持っていないものを思い出すことはできぬということだ」


 あっさりと、そう言う少女。

 俺は顔をしかめた。


「だからわけが分からねえって。もう少しわかりやすく言ってくれよ」

「そなたは本当にその記憶を望むのか?」


 俺の問いには答えず、そいつはそんな風に改めて聞いてくる。


「……当然だろ。今のままじゃ、納得することすらできない」


 この女が何者なのかは知らない。

 しかし、覚えていないだけかもしれないのだ。

 俺が失っている記憶の中に、出てくるのかもしれない。


 しかし何であれ、このままではどうにもならないのは事実だ。

 最遠寺と茜は、共に由羅を殺す気でいる。


 そして由羅もまた反撃するだろう。

 あいつが話通りの奴なら、あの二人でも充分に厄介な相手なのだ。

 結果は考えたくもない……が、その時は近い。


 俺はどうすればいいのか分からない。

 悩むのは、あの記憶が無いからだ。

 由羅が何者なのか、知らないから。


「……そうか。ならば、教えよう」


 俺の答えに、少女は頷いて。

 そして足音も立てずに俺の前まで歩み、俺の額へと手を伸ばした。


「そなたにあの時の記憶を与えなかったのは、いくつか理由がある。しかしもっとも大きな理由は、その記憶にはそなたの死があるからだ。その瞬間の記憶のせいで、精神に支障をきたすのではないかと危惧した」

「……死? 俺は確かにやばかったのかもしれねえけど、それは最遠寺が助けたって……」

「死んだ者を、同じ形として蘇らせることは……あるいは可能なのかもしれないが、できる者を私は知らない。ジュリィ・ミルセナルディスとて同じこと……。そなたはすでに死んでいる」


 な……。

 いきなり、何を。


「馬鹿言うなよ。俺は現に」

「深く考えなくていい。ただそなたは確かに一度死んでいる。今から与える記憶には、その一部始終のものだ。多少は覚悟をしておいた方がよいだろう」

「……ああ」


 正直理解できないことだらけではあったが、それでも記憶が戻るのであれば、すべて解決するはずだ。

 俺はそう信じて頷いた。


 そして――あまりにもあっさりと、あの夜の記憶は戻った。


「…………っ!」


 別にどこかが痛かったわけではない。

 だけど俺は胸を押さえて、まるでもがくようにその場に崩れ落ちた。

 動悸が意味も無く激しく打って。


「ち……く、そ……っ」


 痛さは幻覚だ。いや……記憶か。あの夜の……。

 俺がようやく落ち着いた時には、あの少女の姿はすでに無く。


「く……はは」


 何が本当のことで、何が幻なのか分からなくなって、苦笑した。


「―――確かに、あれじゃあ死ぬな」


 自分のことを、他人のことのように思い出して、口にする。

 記憶はきれいさっぱり戻っていた。


 あの夜、俺はあいつと遭遇して、引き金を引いた。

 けどあいつはほとんど滅茶苦茶な強さで、俺は相手にもならず。


 さんざん身体を痛めつけられ、そして最後に心臓を握り潰された。

 即死だろう。助け様などあるわけがない。


 ついでにあの刻印咒も、俺がしっかりとあいつに刻んでた。

 イタチの最後っ屁……まあそんな感じで。


 この記憶が本物なのかどうか、信じるしか無い。

 確かに最遠寺が言っていた通りで、俺はあいつにやられて、あいつは俺の前で人まで殺していた。

 人を殺すことなど何事でも無いように……愉しみとかぬかしてやがったし。


 しかしこの記憶は、俺が意識を失うところまで、だ。

 その後は、もう朝目覚めるシーン……。

 しかも朝起きた俺の身体は、確かに調子の悪さはあったものの、傷一つすら無かったはずだ。当然、今だって無い。


 まったく……何か知らなねえけど、ちっとも解決してねえじゃねえか……。

 どうして俺の身体は無事で、今も生きているのか。

 さっきの少女は何者なのか。


「まあ……今は考えても仕方無いか」


 さしあたっては、あいつらのこと。

 しかし本当に……あいつに殺されていたとは。


「でもなあ……何かあいつ、笑えるよな」


 確か謝るから――とか何とか言って、あの次の日に現れたわけなのだが。

 人を殺しておいて、謝って許してもらえるなんて、本気で考えてたんだろうか。


 考えてたんだろうな。

 俺は苦笑しながらそう思う。


 もっともそういう事態がありえていることからして、滅茶苦茶だ。

 それに何より。

 殺された当の本人である俺が、あんまり怒る気になれない。


 あの夜の俺は、あいつを相手に相当キレていたはずなんだが……それも実感が無かった。

 まあ、理由は何となく見当がつく。


「順番……ってとこか」


 そう。順番だ。

 俺があいつに酷い目に遭わされたという最も初めにくるべき出来事が、最初じゃなくなってしまったということが、全ての原因だろう。


 多分、あのどちらもがあいつの本性なんだろうけど、俺はその悪い方を初めに見たにも関わらず、順番が狂って印象の良い方を初めとして認識してしまったわけだ。


 ここ数日のあいつが芝居だったとしたらともかく、しかしあいつにそんな芸当ができるわけもないだろう。

 あの夜に見た由羅も本物で、ここ数日で見たあいつも本物ってわけか。


「もし記憶が消えてたりしなかったら、俺はあいつのことを殺人鬼としか見てなかったんだろうな……まったく何の因果だか」


 おかげさまで俺は、俺を殺したあいつを助けるために、わざわざ刻み込んだ刻印を、またわざわざ消そうとしているという何とも間の抜けた、滑稽なことをしてきたというわけだ。笑わずにはいられない。


 結論。

 どうやら俺は、あいつに刻印咒を刻み付けた時のようには、あいつを憎んだりすることはできないということだ。


 まったくどうかしているが、これが現実。


「もっとも、それもあいつ次第か」


 こうなってしまった状況で、あいつはどうするつもりなのだろうか。やはり殺し合うつもりなのか。


 そしてもしその後があったとしたら、どちらのこれまで、を続けていくつもりなのか。


「捜すか」


 結局は、あいつに会って話さなければ始まらない。

 そう決心して。

 俺はあいつを見つけ出すことを、最優先にすることにした。


     /エクセリア


 あの人間を再構成した時に、恐らく不要だと思って初めから与えなかった記憶。

 しかしあの人間にとってみれば、必要なものだったらしい。


 記憶を与えなかったのには、二つばかり理由があった。


 一つは桐生真斗に語った通りのこと。

 そしてもう一つは、よりジュリィ・ミルセナルディスの助けとなるように。


 今回彼に記憶が戻ったことにより、目的を達しやすくなるのであれば、それもいい。

 しかし必ずしもそうならないことは、よくあることだ。

 だから今回もこのままどうなるのか、それはわからない。


 特に人の心など、どんな存在であれ分からない。

 例え私であっても。

 いや……私に何かを見通せたことなど、果たして一度でもあったのだろうか。


 妹……そう認識しているあれならば、ここで苦笑の一つでも交えたのかもしれないが、私は笑うことすらできなかった。

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