25
「いい加減になさい!!」
ユイルアルトの怒声一発、ヴァリンが「げ」と言いながら振り向いた。相変わらず長い前髪は目を隠していたが、間から見える瞳はユイルアルトの姿を捉えて迷惑そうにしている。
壁に背を付けて怯えて下を向いているジャスミンと、そのジャスミンの顔すぐ側に手を付いて耳障りだけはいい口説き文句を並べているヴァリン。
その二人の姿はこの酒場で時折見る事が出来る。例えるならまるで捕食寸前の動物達のようだった。ヴァリンが獅子ならジャスミンはウサギ。
「っち、もう来たのか。相変わらずジャスミンの事になると勘が冴える女だなお前は」
「お褒めに預かり光栄です。とっとと離れてください」
「褒め言葉に聞こえたか? 自尊心が高い女は嫌いじゃないが、お前は金髪だもんなぁ」
「金髪の何が悪いんです、その濃紺の髪全部脱毛剤で引っこ抜いてハゲにしますよ」
「イルっ……!!」
ジャスミンはユイルアルトの姿を見ると、青褪めた表情でその側まで逃げるように走ってきた。いつもの事だが、そうなるとヴァリンはしつこく追ったりしない。手慣れた男はその気が無い女をいつまでも追わないという事かと舌打ちして思いながら、ユイルアルトがジャスミンの背中に手を回して抱きしめた。
「イル、ごめん、ごめんなさい、ありがとう」
「よしよし、大丈夫ですよ。……全く、いい歳をして女性を泣かせて喜ぶなんてどんな趣味してるんですか」
「全くだねー」
ユイルアルトの背後でルビーと名乗った幽霊が呑気に返事した。今はこいつもいたんだっけ、とユイルアルトが再びの舌打ち。
「俺は神に誓って、わざと泣かせようとはしていないぞ? 俺のする事に泣くのも笑うのもジャスミンの自由だろ」
「少しでもジャスに好かれたいのでしたら、その強引で軽薄で信用しがたい性格をどうにかなさったらどうなのです」
「そーだそーだ」
貴女ちょっと黙ってください、とユイルアルトがルビーに向けて強く念じた。
念は念なので届きはしないだろうが。
「失礼な。俺は肩書だけなら、これ以上を望めない程優良だぞ。―――なぁ?」
三人(と、外野の一人)が始めた言い争いに、いつもは覇気のない客達の視線が珍しく注がれている。そんな客達を見渡しながら、ヴァリンが鬱陶しい長い前髪を書き上げながら言った。途端、客の視線が一気に逸らされる。
客達にも、ヴァリンの裏の顔―――非合法な手段にも手を染める国家公認ギルドの副マスターであることは知られてはいない筈。それなのに、客達が顔を背ける理由はあるのだろうとは思っていたが。
「其れで止めておけ、騒がしいぞ」
助け舟は意外な所から出された。それまで静観していただけのマスター・ディルがヴァリンを諫めたのだ。
ジャスミンとユイルアルトが同時に驚いた顔をする。この男は基本的に何があっても中立、というか我関せずの姿勢だった。それが初めて、仲裁に入る姿を見せている。
それはヴァリンにとっても意外だったらしい。一度前髪の下に隠れた目を瞠り、それから肩を竦めた。
「我等がマスターに言われては仕方無い。……今日は大人しく引き下がることにしよう」
大人しく引く様子を見せたかと思いきや、二階へと上がる階段へ向かう途中のヴァリンがジャスミンに向かって片目を瞑る。その瞬間は髪の間からしっかりと目が見えていた。
その本気とも冗談とも取れる態度に、ユイルアルトが舌を出して見せる。ジャスミンはユイルアルトに隠れて怯えていた。
「……本当、あの男は!」
まだ風呂上がりで体温が高いジャスミンの手を引いて、ヴァリンが居なくなるのをただ待った。階段を上る音が消え、それから何処かの部屋の扉が開く。やがて上階からは何の音も聞こえなくなって、やっと二人の体から力が抜けた。
「……ありがとうございます、マスター」
「ふん」
ユイルアルトがマスター・ディルに向かい一応の礼を言う。彼は相変わらず、二人を見ることなく鼻を鳴らすだけ。
「……あの方も、随分スレちまったなぁ……」
その時だった。ユイルアルトとジャスミンの耳に、客の一人の呟きが届いたのは。
「……あの方? スレ……?」
察するにヴァリンの事だろう。ほんの小さな呟きを聞かれていると思っていなかったらしい客は、居心地悪そうにしながらも二人に振り返る。
「……あの方は、昔は……とてもお優しい方だったんだよ。なぁ、マスター」
客はマスター・ディルに話を振った。客からの言葉にマスターは少し考える素振りを見せて。
「あれを優しかったと評する事は、我には出来ぬ。我の知っていたあの者は、愚直で、純粋で、立場に見合わず青臭い男だった。……『あの日』まではな」
「……マスターは相変わらずだねぇ。……ああ、そうだな……全部、戦争が悪かったんだ、戦争が……」
それからは客は酒を煽りながら、譫言のように同じ言葉を繰り返した。
戦争が悪い。
その言葉は伝播した。他の客も同じように呟き始めた。
戦争が悪い。
まるで何かの儀式の呪文のように、客が同じ言葉を繰り返す。
戦争が悪い。戦争が悪い。何もかもを奪っていった。
初めて見る異様な光景に、ジャスミンもユイルアルトも互いに体を寄せ合う。
マスターがヴァリンをそう思っていたことも知らなかった。
愚直。純粋。青臭い。
そんな言葉、二人が知るヴァリンには全く以て相応しくない。
狡猾。軽薄。胡散臭い。
彼と掛け離れた言葉が、どうしても気味悪く感じてしまった。
「……ジャス。行きましょう」
「う、うん……」
その気味悪さに耐えられず、二人は部屋に戻っていく。
部屋に戻ってユイルアルトが最初に確認したのは、ルビーの存在だ。
ルビーが乗っていた肩が、まだ重い。つまり、彼女はまだいるのだろう。
「……どういう事、なんでしょうねぇ?」
それはジャスミンに言ったのではなく、ルビーに向けて言った言葉だ。
しかし答えたのはジャスミンで。
「わかん、ない。……でも、なんか、……気持ち悪い」
「大丈夫?」
ジャスミンは青い顔のまま足元をよろめかせながら、自分の寝台に辿り着く。それから中に潜り込んで。
「さっきはごめんね、ありがとうイル。……ちょっと、今日はもう寝るわ」
「分かりました。おやすみなさい、ジャス」
明日の仕事を考えると、出発が遅いとしても早めに寝るのが得策だろう。先程のような事が有ったのだから、尚更に。
寝台に入るジャスミンを見届けて、ユイルアルトは溜息を吐きながら机に足を向けた。そして、手近な紙を引っ張り出してインクと筆を近場に寄せる。
『ヴァリンさん、昔は優しかったってどういう事なんですか?』
ジャスミンに気付かれないよう、声に出さず書きつけた文字。答えはすぐに返ってきた。
「どういうって、……それが、元々のアイツの評判だったんだよ」
ルビーの声だ。
『元々の評判って何なんですか? 今の彼とは大分違いますけれど』
「そりゃそうだろうねぇ。今のヴァリンはあたしも知らないくらい性格捻くれちゃってさ……。まぁ、その責任が何処にあるかって言われたら、あたしだって何も言えないんだけど」
『戦争が関係しているみたいに言われてましたね』
書きつけるユイルアルトの手に、何かが乗った。
「……っ、ひ!?」
それを見た瞬間、ユイルアルトの声が上擦る。出さないようにと思っていたのに、声が勝手に漏れていた。
指が何本か無い欠損した右手。肌はひどく爛れていた。肉が削れて骨が見えている部分もある。血の通っていない青白い肌に、赤黒く変色した箇所と、痣と内出血で青黒く変色した箇所がある。
死人の手だ。しかし、ただ死んだだけではこんなに酷い傷にはならないだろう。
「振り返らないで。顔は、もっと酷いんだ」
ルビーは、震える声でそう言った。
「イルってさぁ、好きな人とかいるの? あ、恋愛感情としての好き、ね」
その震えを押し隠そうとでもしているのか、やや楽しそうな声を無理矢理出しているような言葉が聞こえた。
ユイルアルトは黙って首を振るのが精一杯だ。
「そうかぁ。若いんだから勿体無いよ。自分の人生の中で一番綺麗な姿を、一番好きな人に見て貰うのって幸せな事なんだ。あたしはそれが叶った事もあったけど、もう二度と叶わなくなっちゃった」
ルビーの手は、ユイルアルトに文字を書かせるのを拒んでいるようだ。黙って話を聞けというつもりなのだろう。
「優しかったよ、ヴァリンは。そんで、大馬鹿だった。そんなアイツも嫌いじゃなかったんだけど……どうして、こうもお互い意固地になっちゃったかねぇ。あたしは、『あの人』に付いてったことを後悔はしてないけど……もし……あたしが兄貴と一緒にあの人を引き留めてたら、こんな事にはならなかったかも、って……」
「あの人?」
ユイルアルトがつい声に出してしまった。直後、自分の口を抑えながら硬直する。
振り返るなと言われた手前、息を殺してジャスミンの気配を探る事しか出来ない。幸いにもジャスミンの方からは、何も音は聞こえなかった。
「イルって、ここ来てそこそこ経つけど知らない事の方が多いんだねぇ。あたしの事も知らないんでしょ」
「………」
「これでも有名だったんだから。あたしと、あの人で……、ううん、この話はもういいや」
ルビーは、漸くユイルアルトの手を離した。その手は躊躇いながらも、文字を書きつけていく。
『あの人って誰ですか。兄貴って誰ですか。貴女は一体何なんですか』
質問を書き殴る手は止まらない。
『ヴァリンさんの性格が変わったのは、戦争のせいですか。それとも』
わざわざ二人の関係を匂わして来る、そのルビーの言葉に乗ってやった。なのに。
『貴女が死んだからですか』
その質問に答える声はもう無かった。
気づけば肩は軽くなっていて、代わりのようにそれまで気づかなかった何かの香りがした。
香水のようだった。安価なものでは同じものは表現できない、濃い果実のような香りだ。その香りは一瞬だけしか香らなくて、直ぐに香気が霧散する。
ルビーが残していった香り。
ユイルアルトがそれを鼻腔に刻み付け、眉間に皺を寄せる。
「………」
その香りを忘れないうちに、ユイルアルトが立ち上がった。そして、それまで筆談に使っていた紙を丸めて屑籠に放り投げる。
振り返った先のジャスミンはもう寝ていて、起きる気配はない。
彼女を起こさないよう、なるべく音を立てないようにして、入浴用の荷物も一緒に持って一階へと降りて行った。
香水で感じたあの香りと同じ果実は、一階にあったはずだった。
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