正直な姉妹

@takahashinao

正直な姉妹

ダウンロードしたまま画面が動かなくなった。正は舌打ちすると、タブレットをベッドに放った。

 普段ダウンロードは1秒程度だ。

 家のインターネット回線の調子が悪いのかもしれない。

 そのたった1秒が5秒に変わっただけで、なぜこんなにもイラつくのだろう。

 そういえば、テレアポのアルバイトをしていたとき、10秒以上の保留は厳禁と言われたことを思い出した。

 こちらとお客様の体感時間は違うから。

 こちらにしたら、たったの時間でも、お客様にとっては電話を切るのに十分な永遠なのよ。

 そう説明を受けた。

 若いアルバイトの面倒をみてくれるあの女性は何歳なのだろう。

 内容よりもそんなどうでもいいことを掘り下げて考えながら、自分の身体もベッドに放り投げ、正は天井を見上げた。

 電子機器がない時代、人はどうやって、この無の時をやり過ごしていたのだろう。

 果てしない暇を何を思っていたんだろうか。


 まだ夜の11時過ぎ。

 ベッドの向かいに置いたローテーブル。

 その上にある文庫本の山がふと目についた。

 そこにはやりかけのカケラたちが山積みだ。

 面白そうとジャケ買いした文庫本。

 可愛いと思って衝動買いしたのはいいが、色が濃すぎて1回しか使えず、日ごとに蓋周りが乾いていっているマニキュアたち。

 飲みかけのコーヒーが入った冷えたカップ。

 冷静にみるには恥ずかしすぎる、そのままの私の一部たち。


 今こそ読むタイミングかも。

 熱意を持って文庫本に手を伸ばすがギリギリ届かない。

 うーんと思いっきり腕と脇の筋をのばすと、テーブルの上のバランスが崩壊した。

 ドサッ、ガチャ、ガチャーンと落ちた。


「うっさい!」


 部屋の外に姉のどなり声が響いた。

 あの苛立ちはスマホ中毒の彼女にとって都合の悪い何かがあったのだ。

 うちのインターネット回線は調子が悪い。


 部屋を片付けるために起き上がり、床に転がったカップを拾う。

 部屋を出ると、ダイニングテーブルの前にいつもどおり片膝を立てて座っているジャージの姉の後ろ姿が見えた。

 殺気立っている。

 あの後ろ姿に圧を感じるのは妹である正だけなのかもしれない。

 もう姉の怖さは身体に染み込んでいる。

 これ以上、悪化させないためには、静かに気配をできるだけ消すのがベストだ。

 そうっと足音を立てずに台所に向かう。


 ガチャン。

 カップをシンクに置いたとき、思っていた以上に大きな音が出てしまった。

 正は睨まれるのを覚悟し、姉をちらりと見る。思わぬ乾いた視線が返ってきた。

 怒られる。


「あのさ、お母さんの部屋だけど。クーラー効きすぎるみたいだから、ちょっと気にしてあげて。でも、切ると暑過ぎるから切ったらダメ」


 拍子抜けした。

 てっきり、いつものお決まりの「なんで」「あんたは」「いつも」で始まるダメ出しが始まると思っていた。遠慮のない姉の言葉はいつも正を真っ直ぐに貫く。

 わかった、とだけ返事をして、急いで部屋に戻った。

 新しくコーヒー淹れ忘れた。

 あれだけイラついていたのに何も言われなかったのはラッキーだったはずなのに、心のざわつきがなかなか治まらなかった。


 ゴロゴロゴロ。

 地響きを感じて目を開けたが、意外といつもの静かな朝だった。

 部屋の扉も動いた気がしたけど、すべて気のせいだろうか。

 いつもより身体がすんなり動く。

 顔を洗うために部屋を出たら、まだ女の支度をしていない母と鉢合わせした。

 明け方まで酒を飲んだのか母の周りの空気は淀んでいた。


 挨拶をする気も失せて、無言で前を通り過ぎると母が吐き捨てるように言った。

「あのバカ娘」

 気になって振り向く。母は昨晩の姉と同じ後ろ姿で言った。

「出ていくんだとさ。東京で男と住むなんて、ほんとバカなんだから…。ちょっと!あんた!」

 母の話を聞き終えないまま、正の足は走り出していた。


 だからあのとき、お母さんの部屋の空調のこと言ってたんだ。


 だからあのとき、私の部屋を覗きにきたんだ。


 だからあのとき、だからあのとき、だからあのとき。


 辻褄がカチリ、カチリと合っていく。

 数えきれない〝だからあのとき‘’。


 玄関を走り抜け、右に曲がるとエレベーターに乗り込む姉がちらりと見えた。


「直姉ちゃん!」


 待って。まだ言ってない。伝えてない。

 それに。

 どうして。

 どうして置いていくの?


 エレベーター前まで走り、閉まりかけた扉をこじ開ける。中には、姉と別の住人が1人。そして大きな赤いスーツケースが乗っていた。

 どうぞ、と同乗の人が笑顔で中に促してくれる。すみません、と一瞬で裸足の自分が恥ずかしくなった。

 みっともないと怒られる。反射的に姉を見たら、姉は赤い目をして正を見ていた。

 恥ずかしさは吹き飛んで、大粒の涙が溢れた。


「なんで?」

「言ったらこうなると思ったから」

「帰ってくる?」

「当たり前やろ」

 いつものように人を小馬鹿にしたように姉は笑った。いつもとちがう真っ赤な目で。


 エレベーターは1階に到着した。

 姉は前に進む。ゴロゴロと重たい荷物を引きずりながらも進んでいく。


 正はぼうっとしてその勇ましい姿を眺めていた。今日は朝からシフトが入っているからもう準備を始めないといけない。だから、そこに、残るままにした。


「じゃあね」

 扉が閉まるとき、姉は振り返って大きく手を振った。

 正も振り返す。

「いってきます」と言わなかったことに気づいたのはエレベーターの扉が閉じてしばらくしてからだった。

 ぼうっとしたのは寂しさを受け止めきれなかったからだと気づくにはもっと時間がかかるだろう。


 今朝はただ動かず、混乱と残りの涙が身体を満たすのを感じていた。

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