アネモネの悪戯

悠理。

アネモネの悪戯


小さい頃から、自分が周りとは違う事に気付いていた。

虐められた経験もなく、進学も就職も何一つ苦労した覚えはない。

強いて言うなら、友人と呼べる人間が片手で数えられる程度しかいない事だろうか。

とはいえ、周りから見たら一般的かそれ以上の立場にあるのは事実で、そこに胡坐をかいていてはいけない事も理解している。

所謂エリートコースを進んだ私だが、誰しもが抱えているといわれる“闇„というものにはやはりゆっくりと蝕まれていった。


何もできない。何もしたくない。

・・・ちがう、ただ、できない。


死んでしまえば何か変わるだろうか。・・・いや、多分そんなことは無い。

死というのは身体にとって限りの無い終焉なのだ。

けれど、そうすることでしか得られないものがあるなら、それは今の私にとって唯一の幸福なのかもしれない。

流そうとした涙も、流れるほど作られず、ただ悲しみだけが広がってゆく。

何も考えられない頭では、数を一つずつ唱える事すらできなかった。

いくつかの会社を経営はしているものの、私はただ家の中でパソコンに向かえばそれでいい。

・・・その程度にしか思えなかった。

電話が鳴れば受話器を取り、そして考えるほどでもないようなバカげたことを“アドバイス„するだけ。

小学生の頃に、自分は知らない事を知るという事に喜びを感じる事に気付き、知らぬ間に発揮していたリーダーシップにうんざりしながらも、中学から私立を受験していた。

知識は私を裏切らない。

ただ、私は私を簡単に裏切る。

人間という生き物は本当に愚かしい。私も勿論例外ではなかった。


少しはがれた壁紙を見つめ、私は思う。

あの小さなでっぱりは、たまたまそうなったがために切り取られるのか、それともボンドか何かで元に戻されるのか。

はたまた周りを巻き込んで、一面新しくなるのか。

人は、僅かな違いさえも許さない。

理解できないものに恐怖し、受け入れられないものを迫害する。

何も知ろうともせずに、だ。

「綾佳、そんな顔でいると俺に嫌われるぞ」

「清水君に嫌われたところで、何も痛手ではないけれど」

私がそう言うと、彼はむくれた顔をする。

両手に持ったコップのうち一つを私の前に置くと、隣の椅子に腰かけた。

「そうだな・・・。嫌われて困るとしたら千%俺だ」

彼は私の家に無理やり居候している清水悠杜。三年前から何故か私の彼氏だと世間に言いふらしている。

置かれたコップへと手を伸ばし、私はパソコンのモニタを見つめた。

「毎日そうやってアニメばっかり見て、何が楽しいんだ?たまには外行こうぜ」

「人間に限らず、様々な感情の生み出されるアニメは勉強になる。何より、バカが少なくて嫌悪感も無い」

彼は大きなため息をつくと、席を立った。

「では、俺は邪魔しないようにスーパーへ行ってまいります。社長、今夜は魚料理ですよ」

「苦しゅうない」

そう言って彼は部屋を出て行った。


目を開けると、暗くなった部屋と、スリープ状態のディスプレイ。・・・どうやら眠ってしまったらしい。

急ぎ、メールの確認だけ済ませ、寝室へと向かう。

ベッドに横たわり、抱き枕をここぞとばかりに抱きしめた。

両親が亡くなり、役所手続きから何から自分一人で行ってきた。父の立ち上げた会社も軌道に乗せ、不動産にも手を伸ばし、働かなくても済むようにバカみたいに努力した。

・・・それでもまだ足りない。

頭を使えば大概のことはどうにかなるかもしれない。

お金があれば面倒な事もどうにでもなるのかもしれない。

でも、だから何だというのだ。

「何だ、ここにいたのか」

不愉快な声と共に現れたのは、買い物から帰ってきた清水君だった。

「おつかれ。飯作るからリビング行・・・」

ベッドの横に座りながら、彼は優しく言いかける。

私は体を起こし、彼の背におでこを付けた。

「やだ、眠い」

無表情にそう言うと、彼は私の頭を膝に乗せ、子をあやすように頭を撫でる。

外側を向いていた顔を上にあげると、そっと柔らかいキスが落とされた。

「どうした?甘えん坊綾佳か?」

「基本的には全部清水君が悪いことになってる」

乾いた笑い声と共に、頭を軽くぽんと叩かれる。

「なら、とびきり美味しいの作ってやるな。さ、起きた起きた」

私がむっとした顔で見つめると、手を引かれる。

そして私達は寝室を出て、リビングに向かった。


早々にソファに倒れ込む私を見て、清水君はため息を吐く。

包丁がまな板をたたく音や、段々と強くなる食欲を刺激する香りに、私は微睡を感じていた。

両親が生きていたら、きっと私も一般的な働き方をしていただろう。・・・それは恐らく彼も。

本人は好きでここにいる、手伝っていると言っていたが、どうしても“巻き込んでしまった„という感覚が消えない。

「綾佳、出来たから食おう」

食卓に二人分の夕食が並べられていく。たまには私も手伝った方がいいのだろうか。

「清水君、私も運ぶの手伝・・・」

その言葉はパソコンへのメールを知らせる音に邪魔される。

「居候の義務を手伝う必要はないだろ。後、仕事は食事の後にな」

ソファから立ち上がろうとしていた私を、彼は静止する。

「在宅だからってプライベートの時間を作らないのは違うだろ?ほら、ゆっくり食おうぜ」

諭すようにそう言うと、私は従う。

「・・・いただきます」

彼は居候と言い続けているが、一応私の助手として扱っている。きちんと社員として雇用しているし、一緒に暮らしているのは私の希望でもあった。

ただ、卑怯な事に、私はその気持ちを伝えていない。

好きでそのスタンスを貫いているのならば、きっと何か思うところでもあるはずだろう。彼はそこまでバカではない。

「綾佳、顔が少しやつれてるな。今日は早めに寝よう」

「大丈夫だよ。多分気のせい」

少し余計な事を考えすぎただろうか。思ったより食も進まない気がする。

「綾佳・・・?」

顔を覗き込まれ、自分が俯いていた事に気付く。

こういう日は何をしてもとことん駄目だ。

「・・・少し休む。残りは明日の朝食べるから取っておいて。とっても美味しい」

できる限り笑顔で私はそう告げ、また寝室へと足をのばした。


ベッドに入ると、すぐに眠ってしまったらしく、夢を見た。

「夢」というのがはっきりと分かる夢。

“またこれか„

二十人ほどいる教室。見知った顔。

そして、知らない学校。

すこしずつ減っていく生徒。まずは清水君。そして最後に私。

気が付くと死体の山。目の前には血にまみれ、瞳を開ききった清水君と…刃を握る私。

そして夢の最後に私は

「・・・」

目が覚めると、横に清水君が眠っていた。

私の左手を両手で握りしめている。

愛おしいその顔が血に染まって見えた。

いつか、いつか現実になるかもしれない夢。現実にしてはいけない夢。

私は向かい合うように横を向き、空いている右手を添えた。


精神を病んでいるのかと聞かれれば、分からない。

自覚はないが、ネガティブな面が大きいのは否めなかった。

ただ、清水君のおかげでどうにかなっているのは理解できる。

あの日から私はコドクと共に生きるのだと思った。

それを回避できたのは彼のおかげだ。


彼に名前を呼ばれるとほっとする。

彼に名前を呼ばれると安心できる。

彼に・・・依存しているのだろうか。


生きるだけなら多分、一人で十分だろう。

ただ、生きていることに抵抗を感じないのは清水君のおかげだと思う。

良いように使っているのはきっと私の方なのだ。

人間社会が牛耳る地球は、醜く、汚れ、何よりも人間が生きるのに厳しい。

この世に“生きていてよかった„と思いながら最期を迎えられる人はどれほどいるのだろう。

死を恐れないのとは違う。ただ受け入れるのとも違う。

前向きに死を受け入れられる人は、どれほどいるのだろう。

私はというと、もう生きることに執着しなくなってきていた。

死を目の前にしたら恐れるかもしれない。だが、「生きていたい」「生きていてよかった」と思える自信なら残念なことに無い。


次に目が覚めた時、私は自分の体の異変を感じた。

隣で寝ている清水君の顔に触れると、凄く冷たい。

「・・・ん。おはよう綾・・・?手、熱すぎないか」

「違うよ、清水君が冷たいんだよ」

・・・でも、生きてるってことは、正夢になっていないんだね。よかった。

そしてまた、私は深い眠りについた。


立派とは縁遠い木造建ての平屋。そこに私は両親と三人で暮らしていた。

近所付き合いなどは殆ど無く、共に多忙だった両親は、町内会すら断っていた。

今となってはそんなものに価値なんて見出せないけれど、当時の私は子供会というものにほんの少しだけ憧れを持っていた。

学校は好きだ。知らなかったことを沢山知ることができる。

友達と呼べる人も少しだけならいたかもしれない。

小中学生の頃は、純粋に知識を得る事への喜びと欲求を満たしていた。

自分以外の人間を見るのも好きになっていった。違った考えを持つ者が集団で時間を過ごす事も、適度になら楽しかった。

部活やクラブ活動の類には入らなかった。一つの事に縛られたくなかったから。

その代わりに生徒会に入った。当時、私がそこにいる事を疑う者は誰もいなかった。

私が通っていた中学校は私立の学校で、吹奏楽部が強いと聞いたことがある。

私には関係なかったのだが。

その頃の私は”知識の鬼”と呼ばれていた。

生徒会室で来季の予算を確認していた時、私と清水君は出会った。

筋違いかもしれないが相談がある、と彼は言ったのだ。

当時の私はお人好しに輪をかけたような人間だったため、仕事をしながらではあったが、相談に乗った。

内容としては、吹奏楽部で二年生になり夏の大会が終わった頃三年生が引退、今までやってきた練習の中に疑問に思っていたものがあったらしく、必要かどうかを話し合ったらしいのだが、どうも納得がいかなかったらしい。分かる範囲でいいから、外部の意見も聞きたいそうだ。

知識の鬼であった私は、出来る限り的確に様々なことを指摘した。

熱心に聞く彼を見て、この子は本当に音楽が好きなだけで私の特技も知らずにここに来たんだなと少し驚いた。

最後に、”ただし、このことを報告したところで無碍にされる”と一言添え、次の土日のどちらかを一日私に貸してほしいとお願いした。

彼はすぐに顧問にとり合い、「今の時期なら・・・」と渋々了承してくれたらしい。

それを伝えに来た彼にまた一つお願いをした。

楽譜の置き場所と基礎練習で何をしているかを教えてほしい、と。


暗室にある大量の原譜と、いつも全体で行っているスコア。

私は大量の原譜の中から比較的簡単なものを一つ選び、フルスコア全員分とパート譜を必要な分コピーするように伝えた。

パート譜に関しては、出来れば人数が足りなくても全パートを、用意の無い楽器に関しては無し、パーカッションの割り振り等は一旦任せた。

先生にだけ何をするのか簡単に伝え、最後に感想メモを全員に配ってほしいとお願いした。

ただし、出来る限り否定的な事は書かずに、伸びしろや良くなった点・取り入れたいアイデアなどを中心にと添えて。

「南条さんごめん、生徒会の仕事もあるのに休日まで使わせて」

申し訳なさそうに清水君が言う。ここまで大ごとにするつもりはなかったのだろう。少しとばし過ぎてしまっただろうか。

「生徒会は今なら落ち着いているし、時間も土曜日を借りれたから仕事には全く支障ないよ。それに、出来ることはしたい。清水君の話を聞くだけでも良かったんだけど、折角だからうちの吹奏楽部の視察も兼ねてね。それに、私のこの行為が迷惑じゃないのなら、ごめん、じゃないでしょ」

少しはっとした顔をした彼は優しく微笑み、そして「ありがとう」と感謝を述べた。


土曜日は雨だった。

音楽室に着くと、既に部員たちがウォーミングアップを始めている。

端に寄せてあるピアノの上に必要な物を一旦出し、私も準備をした。指揮者の立ち位置は凄く久しぶりだ。

私がみんなの前へ座ると、音が止む。私は焦って「時間までにチューニングだけお願いします。後は自由にしていてください」と伝えると、大きな声で揃った返事が返ってきた。

・・・中学校の部活とはどこもこんなに体育会系なのだろうか。

様々な楽器が並ぶ中、私は少しドキドキしていた。

時計の長針が真上を指すと、私はタクトを乱暴に振って合図する。すると音が止み、視線が集まる。

「まず、全国までいっているみなさんに信用していただけるよう、簡単に自己紹介をします」

見回すと、真剣な眼差しが集まっているのが分かる。

出来ればこの事は伏せておきたかったのだが、流石に仕方ない。

「生徒会の南条綾佳です。楽器の演奏経験はありませんが、母がヨーロッパのとある楽団の指揮者です。私は耳が良かったらしく、母のサポートとして小さい頃からオーケストラのご意見番をしていました。実力は、今日知ってください」

音楽室がざわめき始める。

私は一度お辞儀をし、タクトを振って場を静める。

「では、いつもなら筋トレをしているかと思いますが、個人的には不必要なので省きます。理由は、人によって加減が違うため、必要な人だけ個人練で行う方が無駄が無いからです」

私は大きなメトロノームのねじを回し、六十に重りを合わせる。

「では、いつものロングトーンを指揮無しで行ってください」

メトロノームの針のストッパーをはずし、開始の合図だけする。

流石は全国大会に出場するだけのことはあった。音量や音質、音程・・・どれをとっても素晴らしい。

「学年毎にCdorをのぼりだけおこなってください。一年生から」

私は合図する。

すると、段々分かってきた。

四月に入学し、夏休みを終え、先輩達もさぞ上手なのだろうが、やはりそうだ。

一、二年生共にロングトーンを終え、私は口を開く。

「まず、聞いた限りの筋トレ方法ではやはり演奏につながっていないことが分かりました。やみくもに腹筋や走り込みを行っても、一年生と二年生との肺活量の差は現れていません。今後、身体面での向上をするのならば、呼吸法による肺活量アップと体幹のトレーニングによる体力の安定化をオススメします」

目の前の生徒たちは頭にハテナを浮かべ、こちらを見る。

「方法が気になるのならば、後で先生にお伝えします。それと、合奏によるロングトーンは個人の音程や音量だけを気にするものではありません。いかに、全体に溶け込めるかを意識してください。それだけで、もっと圧巻なものになります」

はい、と大きな声で返事が来た。本当に分かっているだろうか・・・。まあこの後の合奏で分かる。


その後の合奏は、初見とは思えない演奏を聴かせてくれた。私はそれを録音して聞かせ、その後、渡してあった譜面の中からコラールを吹かせた。

その後は用意した適当な曲とコラールを繰り返し合奏し、都度、一言添えた。


ただそれだけの一日だった。


閉じられた瞼を開けると、重たく気だるい。

目の前に広がったのはいかにもな風景だった。

「・・・病院?」

重たく気だるいのは瞼だけではなく、体全体だった。

首を横に向けると、看護師らしき人物がベッドメイキングをしている。

「・・・っ! 南条さん!」

私の視線に気づいたらしいその人は、私の名前を呼ぶとどこかへ消えていった。

何をそんなに慌てているのだろう。ただの一患者が眠りから覚めただけだ。

しばらくしてやってきた医師が私を見ると、質問をされる。

「自分の名前がわかりますか?」

何て月並みなんだろう。名前なんて分からないとしても、そこに書いてあるじゃないか。

私は自分の名前を口にしようとする。

「・・・」

息だけが吐き出された口を手で押さえ、私は言葉を失った。

その後はいくつかの検査を受け、清水君が呼び出されていた。

私に家族がいないのはもう病院に知られているらしい。

ーー あの案件、どうなったかな。

ーー そもそも今日は何日何だろう。

ーー 私はどのくらい眠っていた?

ゆっくりと沢山の疑問が浮かんでくる。

「声、出ないんだってな」

清水君の声に私はドキッとした。

「そんな嫌そうな顔するなよ。体に異常はないってさ。恐らくストレスだろうって。精神科を受診するか聞いとけって言われた。どうする?」

私は大きくなっているだろう目を閉じ、首を横に振る。

「だよな。声もそのうち出るようになるだろうってさ。体に異常がない分、すぐに退院もできるそうだ。明日迎えに来る。ただ、通院はしろよな」

淡々と彼はそう言って、忙しそうに帰っていった。


翌日、私は何も分からないまま退院した。

清水君とこうして並んで歩くのも久しぶりのような気がする

今の私はガラにもなく落ち込んでいるのだ。

否、表面に出ていないだけで落ち込むことはよくある。

「綾佳が眠っている間の仕事は俺が適当にやってあるから安心しろよな。特に問題も起こってないし、しばらくは家でもゆっくりしてると良いさ」

どれくらい眠っていたのかは分からずじまいだが、彼の能力は疑う余地もない。普段こそ家事手伝いのように使っているが、人によってはもったいないと言われてしまうかもしれない。

「昔もあったよな、綾佳がいつの間にか溜めまくってたストレスが大暴走してさ、急に倒れたと思ったら声が出なかったこと」

高校三年生くらいの頃だろうか。そんなこともあった。

「その時もなんだかんだ一週間くらいで声も出るようになったし、今回も大丈夫だろ。何かあっても俺がいるしな」

頭の中は申し訳なさでいっぱいだった。

勝手に倒れて、声まで出なくなって、迷惑をかけて・・・。

それも、これで二回目。

きっと彼は私がそう思っていることも見透かしているのだろう。

「・・・佳」

年齢ももう子供といえる歳ではないし、事実上の夫婦といわれてもおかしくない。

私はそれでもよかった。彼が好きだったから。

問題はそれ以上に、自分自身への評価の低さにあった。

「あやか!」

両肩をつかまれて、私はやっと気付く。

「何かあったか?気分がよくないならやっぱりタクシーで…」

私は首を横に振る。

彼の心配そうな顔は、今にも泣きだしそうな子供のようで愛おしかった。


自宅に着くと、すぐに寝室へ通された。さっきのがあったからだろう。心配性だなと、少し思う。

私は昔、歌を歌うことが好きだった。

職業にしようと思ったことは無いが、それなりに評判も良く、自分でも下手ではないと思えた。

全ての事が生徒主導で行われていた中学校生活において、当時の優等生を演じていた私は知らず知らずに身体によくないものを溜めてしまっていたらしい。

いつだかのお礼を言いに来ていたらしい清水君が私を見つけ、気が付けば病院に1人だった。

両親は忙しい。仕方のないことだと思った。

医大付属の高校に上がった私は、何故か清水君に告白されていた。どこがどうとか、そういったことは全く覚えていないが、はっきりと断ったことは覚えている。

お遊びだろうが何だろうが、私は誰かを特別近付けたくはなかった。

別々の高校に通いながらも、彼からのデートのお誘いと告白は続いた。

正直に言うと、ただ一方的に呆れていた。

私は彼にとって都合のいい存在ではないし、彼も私にとって都合の良い存在だと思わなかった。

当時の私は恋愛感情を全く理解していなかったのだ。


高校三年生の時、両親が事故で亡くなった。

多額の遺産は全て一人娘の私の元へ舞い込み、親類らしい人は私にいい顔をしては「うちにおいで」とせがんだ。

くだらない世の中だとは思っていたが、世の中をくだらなくしているのが人間だと確信を持った出来事だった。

殆ど交流は無かったが、大好きだった唯一の両親。

全く交流もなく、まだまだ子供な私が実質一人暮らししていたのを黙認していた親戚一同。

私は葬儀も一人だけで済ませ、遺体は焼かずに寄付した。お墓などあるはずもなく、仏壇の代わりに部屋の片隅に二人の写真を飾った。

事務作業に追われていた私の手を止めたのは清水君だった。

「顔色が悪い。確かに今の歳なら全部自分でやることだって法律は許してくれるかもしれない。なら、いっぱいいっぱいのお前を止めるのは誰がやるんだ」

言われたことの意味が分からず、目をパチパチとしながら彼を見る。

「お前の親戚は、お前が泣いているところを見ていない。それどころか、お前のことを何を言っても機械みたいに感情の無い声で話してくる、気持ち悪い、そういっている奴もいた」

「ただ遺産が目当てなだけの知らない人達にはそれくらいの対応で十分だよ」

「俺は今ここでお前をどうすれば休ませることができるかを考えてる。家に入れてくれた時は驚いたが、お前が・・・綾佳がそんな顔して淡々と仕事をこなしているところを見たくない」

「・・・馴れ馴れしく呼ばないで。それに、そんなことして清水君に何の得があるの?家に上げたのはしつこかったからだよ」

もう、全てが嫌だった。自分に近付いてくる人間も、私自身も、全部が。せっかくなら家族三人で死にたかった。

両親が海外で頑張っていたから、私も一人で頑張れた。

帰ってくるはずだったあの日まで、頑張れたんだ。

今は何をどう頑張ればいいのか、全く分からない。

ただ、やるべきことが明白に目の前にあるからそれをやる。

「気持ち悪がられようが、知りもしない人間に何を思われても、何も感じない」

いっぱいいっぱいになった私がどうなろうと、そんなこと誰も気にすることは無いし、地球から観測できるほんの一瞬の流れ星より見つからないできごと。

「あのな」

清水君が私の隣に座る。

「本当はこういうことしたくないんだ。だから、先に謝る」

そういうと彼は、私の握っていたペンを取り上げ、押し倒しながら無理やりにキスをした。

もちろん私は抵抗を試みるが、想像以上に体に力が入らない。

キスは一瞬だけで終わった。

その後はただ抱きしめられ、そして私の上で彼は泣いていた。


昔のことを思い返しながら、私はベッドに横たわっていた。

サイドテーブルには清水君が用意してくれた紅茶がある。

私は横向きになると、まぶたを落とした。


体を叩かれている感触で目が覚めると、口をパクパクとしている清水君が目の前にいた。

それが私に何かを伝えようとしている動作だと気づくのに、そう時間はかからなかった。

ーー 何も、聞こえない。

呆然としている私を見て、彼は紙とペンを持ってきた。


何も聞こえない


自分の字でそう書くと、彼は私の手を握る。

その目からは涙がこぼれていた。


その日私はもう一度病院で精密検査を受けた。

所見では異常なし。

清水君が色々と話していたが、私には何もわからなかった。

これもストレスのせいなのだろうか。だとしたらきっと自然に元に戻るだろう。

・・・でも、違ったら?

私は音というものに嫌われてしまったのだろうか。


そこからは遅いようで早かった。

次は視力がどんどんと衰え、もう殆ど何も見えない。

その次は足に力が入らなくなり、歩けなくなった。

殺してほしいと願う自分と、腕から感じる清水君のぬくもりに安堵している自分もいた。

ーー それが本当に清水君かどうかも分からないのに



綾佳が体に異常をきたして数日。そう、たった数日で何もかもが変わった。

一時的なものかも、一生のものかも分からない。

ただ、確実に綾佳は植物人間へと近付いていった。

無い頭で色々考え、調べ、聞き、そして「分からない」にたどり着く。

何もできない自分に、もう負けそうだった。

そういう時は綾佳の寝顔を見る。

そういう時はいきなり訪れたキスの感触に驚きつつもまどろむ綾佳の反応を見た。

それだけで頑張れるような気がしたんだ。

もう半年以上、そうやって暮らしている。

会社のことは俺にもノウハウがあったから何とかなってる。

綾佳も、自宅ならば何も見えなくても移動できるようで、ゆっくりと四つん這いでトイレに移動しているところを見つけては俺は焦って綾佳を手伝った。

綾佳のことは勿論、愛している。原因があるならどうにか突き止めて、元の生活に戻りたい。

あの頃のような…死にながら生きているような綾佳には戻したくなかった。

何も見えない、何も聞こえない、足も動かない。

まるで手探りで闇の中を生きているような状態。

綾佳がそうなってから、幾度となく「殺してほしい」と懇願された。

俺は願いを蹴り飛ばし、自分のエゴで綾佳と未だに暮らし続けている。

綾佳も笑顔を見せてくれる時はもちろんあった。

その笑顔を見る度に、泣きそうになる自分を抑えた。

寝室で眠っている綾佳を起こさないようにスーパーへと向かう。

ーー 「行ってきます」はもう届かないのに。

今日はチキンステーキでも作ろう。それと、綾佳が好きなスープも。

買い物なんてさっさと済ませて帰ろう。そして綾佳を急に抱きしめて、またおどろかせてやるんだ。


「ただいまー」

聞こえるはずのない声で、俺は自己満足のあいさつをする。

スーパーの袋をもってキッチンへ向かうと、そこには赤いアネモネで彩られた綾佳の姿があった。

俺はスーパーの袋を落とし、駆け寄ると、幸せそうな顔をしている綾佳を抱きしめ、涙を流した。

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アネモネの悪戯 悠理。 @yurimusic4

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