『サヨナラホームラン』
「おい。帰んぞ」
「待ってください。あともう少しだけ。ほんのちょっとだけ、微修正を」
「あっそ」
彼が、ドアを閉めて出ていく。ばたんという音。自分以外いない部屋に、大きく響いた。
「はあ」
仕事ばかりの人生。
仕事が好きだった。働いて、なんとなく色々なことをする。そういう業種で、天職だというのもある。仕事が好きなんじゃなくて、好きなことを仕事にしているのかもしれない。
目の前の画面。
お得意先に提出する資料。細かい数字は変えられないけど、文言やデータの
「なにやってんだろ、わたし」
仕事ばかり。
色恋も。人としての趣味も。睡眠さえも、ろくにとらずに。働いてる。
資料をもう一度見て、少しずつ変えていく。自分の人生も、こうやって少しずつ変えられたらいいのに。きっと、わたしは定年まで仕事だけをして。定年で仕事がなくなっても仕事を探し続けて。
「いや違うな」
たぶん定年に行く前に過労死する。仕事が嫌で過労死するのではなくて、仕事が好きすぎて、それで働きすぎて死ぬ。
好きなことで死ねるなら、まあ、いいか。
資料。できた。
もういちど見て、最終確認。
「よし」
いい出来。明日朝来たらもういちど確認して、その上でお得意先に提出しよう。
「お仕事終わりかあ」
一抹の寂しさ。振り切るように、部屋を出る。扉の閉まる、ばたんという音。大きく響く。
「あ」
扉のストッパーの部分がおかしくなっていた。
「後で言っとかないと」
だからか。彼が出るときも大きな音がしたのは。
「おつかれ」
「うわっ」
彼がいる。
「なんでここに」
「待ってただけだが」
「だから。なんで待ってるんですか?」
「てめえが心配だからだよ」
彼とは。一回、お酒の弾みで夜を共にした。数日前。
「あ。一回一緒に寝ると恋に落ちるタイプですか?」
自分は、特に何も思わない。ちなみに、初夜だった。なんとなく捨てようと思って、なんとなく捨てた始めて。記憶も特にない。寝て起きただけ。
「おまえ。覚えてないのか」
「だから。何がですか」
「じゃあいいや。すまん。気にしないでくれ」
「待って待って待って。なんですか。気になるんですけど」
並んで歩く。会社の廊下。
「はずかしいと思うぞ」
「なんなんですか。もったいぶって。早く言ってください」
「おまえ。泣きながら俺に覆い被さって。しにたいって言ったんだ」
「は?」
「どこまでいっても、自分は女性だから。女性なのに、仕事が好きだから。誰にも好かれないから。いっそのこと、死んでしまいたいって。そう言ってた」
記憶にない。覚えてない。
「こんなものいらないって言いながら自分の股間に手を突っ込もうとしたから、止めたよ。初めてなんていらない。膣なんて壊れてしまえって
「ごめんなさい。やめてください」
「ひとしきり暴れて、そのあとスイッチが切れたみたいに眠ってさ。寝顔が、かわいかったけど、つらそうだったよ」
「ねえ。ほんとに」
やばい。記憶が。おぼろげだけど、戻ってきてる。
「おまえ。無理してるよ。心のどこかで」
「あの」
「なに」
「ホテル行きませんか?」
「だからやめろって言ったろうが」
「わたし。自分で自分が分からないし、それに耐えられない」
「耐えられないと、処女を捨てようとするのか。ばかげてるよ、おまえ。自分を大事にしろ」
「じゃあどうすればいいのよ」
「俺の部屋に来い」
「あなたの部屋に?」
「そういうことはしない。ただ、俺が作る料理を、おまえが食う。それだけだ。腹減ってんだろ?」
「減ってない」
というか、お腹が空いたというのを重大なこととして捉えていない。栄養がなくなれば、いつか死ぬ。それだけ。働くために必要なものを摂取してるだけ。
「来るのか。来ないのか。それだけはっきりさせろ」
「分からない」
「ホテルには行かないからな」
「なんでっ」
「わかった。じゃあ、ホテルにしよう。ただし、キッチンがあって、自炊ができるところだ。それで我慢してやる」
夜の街。ネオンがやさしく照らす。
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