『Sister Rose』

 少し、ほんの少しだけ、指先が痛む。


 左手首。動く。指だけが、なぜか、痛む。というよりも、軋む。


 何か、しただろうか。普通に仕事をして、普通に帰って来ただけ。捻ったりもしていない。


 窓を開けて、外に出て。月を眺める。

 雲はない。半月に少し満たないぐらいの、月。


 これからも続く日々を、なんとなく考えた。仕事があるけど、繁忙期ではない。恋人との関係も付かず離れずの距離。そういえば、友人の親族が死んだんだっけか。年賀状ではなく喪中はがきにしないと。


「忘れるだろうな、さすがに」


 年賀状の季節までは、まだ、遠い。


 煙草を1本取り出して、口にくわえる。火は着けない。

 煙草は吸えなかった。

 むかし、自分を育てた人間。煙草が好きだった。そのせいで肺を患って、血を喀きながら死んだ。

 鮮明に覚えている。口から血を溢れさせながら、そいつは、笑っていた。嬉しそうだった。

 今まで、たくさん仕事をしてきたから。その付けが回ったんだ。ようやく死ねる。

 そう言っていた。


 ばからしいと、思う。喀血は、医者から止められているのに煙草を吸ったせいで。仕事の因果応報などではない。習慣に殺されただけ。それでも、血を喀きながら嬉しそうにしていた姿は、少しだけ羨ましかった。

 自分の命の終わりを、あんなふうに受け入れて喜べることが。きっと、あいつの人生は、満たされていたのだろう。


「くそじじいめ」


 煙草に火を着けて、灰皿に置く。


「あんたの仕事は、継がなかったよ」


 それが、育てた人間の願いだったから。普通の仕事をして、自分の才能を隠して生きている。


 きっと、俺は。

 育てた人間のように人生を終わらせることができない。

 きっと、後悔や、退屈さが延々と続いて、その上で死ぬ。喜びも悲しみもない、無味乾燥な死。幻想的なものの介在しない、単純明快な生命活動の終わり。


 それでも。

 煙草を吸おうとは、思わなかった。


 火を消して。

 月をもう一度眺めてから、灰皿を持って部屋に戻る。


 左手の痛みは、消えていた。

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