Campbell
福津 憂
Campbell
「君の作ってくれるスープは本当に美味しいね」大通りから少し離れた小さな部屋の中で男は笑った。窓の側の椅子には、男より少し年下の少女が腰掛け、彼女もまた笑っている。部屋にはたくさんの本が積まれており、厚手のカーテンから差し込む日差しが、漂う埃に反射して光っていた。
「レシピを教えてくれないか?」
「教えません」男は何度もそのスープのレシピを教わろうとしたが、少女はいつもそれを拒んだ。「ずっと私が作ってあげますから」
食事を終えた二人の日課は、本を読むことだった。男は揺り椅子に座り、少女は小さなソファに腰を下ろす。暖炉の薪がぱちぱちとはぜていた。少女は大きくて古い本を抱え、よいしょと開く。少女は小さく息を吸うと、静かに物語を読み上げ始め、男は目を瞑った。部屋の中に暖炉の温もりと彼女の声が広がっていく。
男は事故によって記憶を失った。医者の話だとそれは一時的な物で、ゆっくりとだが、やがて思い出すだろうと告げられていた。独り身だった男は、隣の部屋に住む少女の助けを借りることにした。彼女は毎日部屋へやってきて、料理を作ってくれた。彼女の料理の腕は抜群だった。特に、大きな鍋つかみをはめた彼女の作るスープが、とてもとても美味しかった。
男はやがて、少女のことを愛するようになった。彼女の作るスープも、彼女の読み上げる物語も、それら無しの日々を想像することができなかった。
けれど少女は、男の前から姿を消した。
ある冬の寒い日、男と少女は散歩へ出掛けた。川沿いの石橋を渡り、雪の薄く積もる公園を横切る。日が落ち始め、ガス灯が明かりを放ちだした時だった。男と少女は一つのベンチの横を通り過ぎた。なぜだか分からないが、男はその木造のベンチが懐かしくて仕方がなかった。
「このベンチ、何か見覚えがあるよ」男は隣を歩く少女にそう告げる。
「……そうですか」と少女は答える。彼女は手袋をはめた両手をポケットにしまい、どこか悲しそうな表情を浮かべた。
その次の日、少女は部屋を訪れなかった。
男は捨てられたのだと悟った。記憶を取り戻し始めることの何が悪いのだろうか。男の心は悲しみに濡れていく。部屋はひどく冷えていた。男は暖炉に薪をくべる。部屋の中がオレンジの光で満ちてゆく。けれどやはり、男は寒くて仕方がなかった。
スープだ。男は気付く。少女の作るスープが飲みたかった。男は雪の深く降る街を周り、記憶を探った。あのスープに入っている具材を揃えなければならない。
男は何日もキッチンへ篭り、鍋をかき混ぜ続けた。けれど一向に記憶の味と近づく気配はなかった。男はコートを羽織り、失意の中で街へ出かける。男は商店を訪れると、調味料を目当てに棚を回る。香草を数種類手に取り、振り向いた男の前に、それはあった。
赤と白のツートーン。キャンベルのスープ缶だった。
埃の舞う、小さく暗い部屋の中で、男は涙をこぼしていた。たった数ドルのスープ缶が、ずっと知りたかった彼女のスープだった。男は心の底から喜び、そして悲しんでいた。少女の作るスープを見つけることができた。そして、彼女はもうこの部屋にはいない。
男にとって、手間のかかった料理で無いことなどは、取るに足らない話だった。男はもう一度少女が作るスープを飲みたかった。そして、彼女に捨てられた自分を恨んでいた。
その夜、男は本を手に取った。少女が読んでくれていた本だ。男は分厚い表紙をめくる。すると、一通の封筒が滑り落ちた。男はその封を開ける。少女の端正な文字は、藍色のインクで綴られていた。
「私はあなたから離れなければなりません。
かつてあなたがそうしたように。
記憶を失う以前のあなたは、酷く横暴な人間でした。
私はあなたに嫌われないよう必死でした。
料理だって、あなたが怒らないように、と練習したのですよ。
ですがある日私は、夕食にキャンベルのスープを出しました。
あなたはスプーンで一口啜ると、私を叱責し始めました。
『手を抜くんじゃ無い!』あなたはそう怒鳴ると、私たちの家から出て行きました。
私がどれだけ苦しんだかお分かりになりますか?
それから一年が経ち、あなたが事故に遭った。
記憶を失ったと聞いた私はどれだけ愉快に思ったか。
あなたへの介抱は復讐だったのです。
あのスープを持って行ったのだって、皮肉に過ぎませんでした。
なのにあなたは、私を思い出すどころか、綺麗な笑顔を浮かべていた。
記憶をなくしたあなたを、私は恨むことができなかったのです。
ですがあなたの記憶はやがて戻ります。
きっと昔の荒れたあなたに戻るのでしょう。
その時になって、私は側にいることができません。
あなたが記憶を取り戻すまでの日々が、私にとっての、あなたとの最良の記憶でした。」
男は叫んだ。荒い呼吸音が部屋に響く。男は目に付くものを手当たり次第に殴った。やがてその拳からは血が流れる。男の指先は動かなくなった。
男は倒れるように椅子へ腰掛ける。ぼやけた視界の向こうに、彼女の座っていた小さなソファが浮かんでいた。男は閉じ始めた瞼の先に、少女の姿を見ようとする。けれどやはり、それは空っぽのソファのままであった。
カーテンの隙間から洩れる月明かりが部屋を照らす。暖炉ではぜる薪の音だけが、部屋の中で跳ね返っていた。
Campbell 福津 憂 @elmazz
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